──アルシア・本宮神殿──
白亜の神殿は、夜の静寂に沈んでいた。
磨き抜かれた床石には、高い窓から差し込む月光が淡い河をつくり、天上の星々の囁きが、石の天蓋を越えて降り注ぐかのようだった。
ただ、揺らぐ香の煙だけが、止まった時の中で唯一、息づくものとして空間に漂い、まるで遠くにいる誰かの呼吸と共鳴しているようだった。
その中央に立つ巫女──ギリアは、祭祀長にのみ受け継がれる古の祈りの杖を、胸の前で静かに構えていた。
目に映るものはない。だが、心の奥で感じていた。
彼女の意識は今、遥か遠く、幾重の山並みを越えた先のセリオンの地にいる妹へと、静かに想いを寄せていた。
──その時だった。
なんの前触れもなく、杖頭に嵌め込まれた〝星の雫〟が、自ら淡い光を放ち始めたのだ。宝玉に刻まれた古の紋章が、まるで遠いどこかからの呼び声に応えるように、とくん、とくん、と微かな脈動を繰り返している。
ギリアは息を呑んだ。
この感覚には、覚えがあった。
(……まさか。この共鳴は……)
脳裏をよぎるのは、いにしえの伝承。星の巫女と、その対となる護り手。二つで一つの存在。
(遠いセリオンの地で、〝護り〟が目覚めたというの……? かつてリュミナ様が嫁がれる際に、この杖から分かち、その身に帯びていったという……対となる、あの短刀が……?)
確信と驚愕が、ギリアの心を揺さぶる。
そして、その杖の脈動に導かれるように、妹の切実な祈りが、思念の奔流となって彼女の元へと流れ込んできた。
『……ギリア姉様……』
妹の声が、思念の海にかすかに響いた。
それはか細く、けれど、その芯には鋼のような強さがあった。
『わたくしは……ようやく、本当の意味で目覚めました』
レディアの想いが、断片的な映像となってギリアの中に流れ込む。
セリオンの若き王子──彼の瞳に宿る、猛々しくも無垢な『護りたい』という願い。
それに呼応するように、ドウジンの母の形見である短刀が淡く輝いた、その瞬間。
閉ざされていた巫女の魂が、あの光によって激しく揺り動かされたのだと、ギリアは確信した。
それは、祝福にも似た衝撃。
だが、その光の先にあったのは、喜びではなく――痛みだった。
『ですが、姉様。わたくしには視えるのです。〝神夢〟で視た、あの黒き風が……国を、人を、音もなく蝕んでゆく光景が……。
この祈りだけでは、あまりにも無力だと……!』
その声は、悲痛に震えていた。
伝説の巫女として目覚めた喜びではなく、
その宿命の重さに打ちひしがれる、ひとりの少女の、心からの悲鳴。
ギリアは、そっと胸に手を当てた。
その痛みを、妹の中に芽生えたその光を、慈しむように受け止める。
そして、強く、静かに、思念を返す。
(……レディア。それで、いいのです)
(その痛みも、恐怖も、今のあなたの力。
あなたはもう、ただ星の言葉を待つだけの少女ではありません)
『……姉様……』
『わたくしも、ここから共に祈ります。
あなたの祈りが、決して孤独な灯火とならぬように。
……ええ、あなたは、一人ではないのですから』
ギリアの言葉が、荒れ狂うレディアの心の海に、静かな波紋を広げていく。
水面のように揺れるその想いが、ゆっくりと落ち着いてゆくのを、ギリアは感じていた。
遠い空の下。
二人の巫女の祈りが、夜の闇に溶け合い、静かに重なっていく。
星々がそれを見下ろし、白き月がすべてを照らす中、
確かに、その瞬間──
伝説が、産声を上げた。
━━✦━━
ロウソクの焔が静かに揺れ、石壁に二つの影を映していた。
息が詰まるような沈黙が、父と子のあいだを隔てている。
ドウジンは、目の前に座す男を見つめながら、言葉を失っていた。
今まで彼が知っていた“王ヴァレノス”の貌――冷徹で、揺るぎなく、決して感情を見せぬ支配者としての顔は、そこにはなかった。
ふ、と肩の力が抜けたような佇まい。深く刻まれた眉間の皺。
そして何より、息子に向けられた眼差しには、今まで一度も見たことのない、深い悔いと、父親としての愛情の色が確かに宿っていた。
「……ドウジン」
絞り出すような声だった。
「今まで、すまなかった」
それは、たった一言だった。だが、ドウジンの胸を深く貫いた。
父が、自分に“詫びる”など、夢にも思ったことがなかった。
「お前が生まれて間もなく……私は、リュミナを喪った。王として国を守らねばならぬ中、妻を、そして妃を失った現実を、どう受け止めればいいか分からなかったのだ……」
ヴァレノスの語りは、どこまでも静かだった。激情ではない。ただ、長年凍てついていた真実だけが、そこにあった。
「頭ではわかっていた。お前のせいではないと。だが私は、彼女の面影をお前の中に見てしまうたびに、恐れていた。お前の泣き声を聞くたび、リュミナがもういないのだという現実を突きつけられるようで、耳を塞ぎたかったのだ。お前の瞳が、あの夜を思い出させる――リュミナと同じ、あの深い光を宿していたことが、何よりも私には、辛かったのだ。……私は、父として向き合うことから、逃げ続けていたのだ」
ドウジンはただ、じっとその言葉を受け止めていた。
(許すとか、許さないとか、そういうことではない。ただ、目の前にいるのは、王という仮面をつけ、たった一人で喪失の痛みに耐えてきた、一人の弱い男なのだ)
そう思うと、長年胸の奥に澱のように溜まっていた、父への渇望も、怒りも、静かに溶けていく気がした。だからこそ、聞かねばならなかった。長年、ずっと胸の内に秘めていた、たった一つの問いを。
「……母上は、どんな最期を迎えたのですか」
意を決して尋ねたその問いに、ヴァレノスの表情が凍りついた。
今まで見せていた父親としての悔恨の光が、すっと消える。再び、冷たく、近寄りがたい王の貌が戻っていた。
「……それは……いずれ話そう。だが、今はまだその時ではない」
「なぜです!」
「その問いは忘れろ、ドウジン」
静かだが、有無を言わさぬ絶対的な拒絶だった。
「お前のためだ。……そして、リュミナの……名誉のためでもある」
名誉、という言葉が、ドウジンの胸に重く突き刺さった。母の死は、ただの病や事故ではない。その裏には、王家が、父が、隠さねばならぬほどの何かがある。それ以上、問い詰めることは許されなかった。
重い沈黙が、再び部屋を支配する。
やがて、ヴァレノスは再び口を開いた。その瞳には、父親の弱さではなく、息子に宿命を告げる王としての覚悟が、静かに戻っていた。
「……だがな、ドウジン。お前が己の意志で、この扉を叩いた時……私はようやく理解したのだ。もう逃げている時ではないのだと。今こそ、語る時だ」
ヴァレノスは、まるでいにしえの吟遊詩人のように、厳かに語り始めた。
「お前は、セリオン王家に伝わる最後の護り手……伝説の称号ネファリスを宿して生まれた、唯一の存在だ」
――ネファリス。
初めて聞くその言葉の響きが、ドウジンの胸の奥深くに染み入った。
「星の書によれば、星々が巡る運命の時、“沈黙の災い”が訪れるという。その時に現れる巫女を守り、この身に流れる白き祈りの血、そのすべてを懸けてこの地を繋ぐ者……それが護り手、《ネファリス》の役目。お前は、その宿命を背負ってこの世に生を受けたのだ」
父の言葉が、最後の鍵となった。
今まで固く閉ざされていた記憶の扉が、軋みを立てて開かれていく。
閉じた瞼の裏で、ばらばらだった記憶の欠片が、激しい光を放ちながら繋がり始めた。
昼間、暴漢を前にして己の意志に応えた、母の短刀の温かい光。
初めて会った庭で、花を慈しむように自分を諭した、レディアのあの強い瞳。
カリムとの訓練で、何度打ちのめされても感じ続けた、圧倒的な力への渇望。
無力だと嘆いたあの瞬間も。
何者にもなれないと苛立ったあの夜も。
すべてが、この一言に辿り着くための道程だったというのか。
彼女を護るための、力。
「……私が……ネファリス……」
呆然と、だが、どこか満たされたような響きを帯びて、その言葉が唇から零れ落ちた。
それは、あまりにも大きな宿命だった。
けれど、不思議と恐れはなかった。
むしろ胸の奥で燻っていた“答えのない熱”が、ようやく形を得たような――そんな、不思議な納得と共鳴があった。
ドウジンはゆっくりと、自分の掌を見つめる。
この手が、誰かを守るためのものだと、ようやく知った。
そして顔を上げた彼の瞳には、もはや迷いはない。
ただ真っ直ぐに、父の眼差しを受け止め、運命を引き受ける決意だけが、確かに宿っていた。
━━✦━━
兄ドルトンがセリオンを発って幾日か後、彼が率いる視察団は、峻険な山道を抜け、異変の報告が続く辺境の村へと至っていた。
だが、村へ続く街道に入った瞬間から、彼は眉間の皺を深く刻んでいた。
静かすぎるのだ。
鳥の声も、家畜の鳴き声すら聞こえない。まるで、音という概念そのものが、この一帯から失われてしまったかのようだった。
「……殿下、これは……」
お付きの騎士が、ごくりと喉を鳴らす。無理もなかった。
ドルトンは、馬上から険しい表情を崩さぬまま、ゆっくりと村の中心へと馬を進めた。家々から生活の痕跡は確かにある。だが、赤子の泣き声ひとつ、子供たちのはしゃぐ声ひとつ聞こえてはこない。
道端に座り込む村人たちは、皆、虚ろな目で空を見上げていた。風で砂埃が舞い、その目に入っても瞬きすらせず、ただ一点を見つめている。目の前で幼子が石につまずいて転んでも、その母親らしき女は、人形のように微動だにしない。まるで、魂だけが綺麗に抜き取られてしまったかのようだった。
「……ひどいな」
ドルトンは、村の中心にある井戸の前で馬を降り、その縁に手をかけた。そして、中を覗き込み、息を呑んだ。
生命の源であるはずの水は、ヘドロのように黒く濁り、腐敗した沼のような異臭を放っている。水面には、得体の知れない油膜が不気味な模様を描いていた。
この村は、生きながらにして、死んでいた。
「……殿下」
騎士の一人が、青ざめた顔で、隅の家で座り込んでいた老人から聞き取りを終えて戻ってきた。
「この村でも、数日前から若者たちが何人も……忽然と姿を消している、と。老人は、ひどく怯えながら、身振り手振りでそう訴えておりました。言葉は……発することができないようでしたが、何度も、夜の闇を指差し……〝黒い霧に連れて行かれた〟と……」
黒い霧……。
報告書にあった、ただの文字とは違う。目の前で繰り広げられる現実は、静かなる地獄そのものだった。これは毒や、流行り病の類ではない。もっと根源的な、生命そのものの活力を奪い去る、悪意ある「何か」だ。
(これが、父上が言っていた〝沈黙の災い〟だというのか……)
ドルトンは、固く拳を握りしめた。
脳裏に、国に残してきた弟たちの顔が浮かぶ。
病弱だが、誰よりも聡明で、いつも私の先を見通すような目で助言をくれたドミネン。未熟で、感情的で、けれどその心根は誰よりも真っ直ぐなドウジン。彼の不器用な優しさに、ハッとさせられたことも一度や二度ではなかった。
そして、セリオンで、この国の未来のために祈りを捧げているであろう、妃となるはずの少女、レディア。
護らねばならない。この得体の知れない悪意から、彼らを、この国を。
ドルトンは、再び黒く淀んだ井戸の水面を見つめた。
そこに映る自分の顔は、長旅の疲労と、そして今まで感じたことのない無力感に歪んでいた。
(……感傷に浸っている場合ではない。嘆いているだけでは、何も護れはしない)
彼は自らを叱咤する。
(必ず、突き止めてみせる。この災いの正体を。そして、断ち切る術を。私が、やらねばならぬのだ)
ドルトンが顔を上げると、いつの間にか、ゼフィドが静かに隣に立っていた。彼の表情もまた、険しく、そして深い憂いに満ちている。
「……ゼフィド。見たか。これが、我らが国の現実だ」
「はっ。……言葉も、ございません」
「父上は、この事態を予見しておられた。だからこそ、お前を私に遣わしたのだ」
ゼフィドは何も言わず、ただ、虚ろな村人たちの方へ、一度だけ鋭い視線を向けた。その瞳の奥に、忠誠心とはまた違う、冷徹な分析者の光が宿っているのを、ドルトンは見逃さなかった。
「……ドルトン様。今は、感傷よりも記録を。嘆きよりも、分析を。我らが為すべきは、それだけかと」
「……あぁ、わかっている」
その無口な側近の言葉に、ドルトンは自らの迷いを断ち切るように、強く頷いた。もう、振り返らない。ただ、前だけを見て、進む。
王城の静寂の中でひとりの王子が己の宿命に目覚めた一方、絶望が支配する辺境の地にて、もう一人の王子もまた、血の滲むような決意を、その胸に静かに刻みつけていた。
第二部― 第9章、閉じ。