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第二部 【過去編 第8章:目覚めゆく刃】

 ドルトン兄上が出立されてから、幾度もの朝が過ぎた。

 時折届く報せでは、やはり各地で異変が相次いでいるという。


 朝の光が、天井に近い窓から静かに差し込む。

 ここは、セリオン王城の片隅に設けられた、傭兵用の訓練棟。

 今やそこは、ドウジンの日課の場となっていた。


「やっ!」


 シュッ―― カキン、カキン!


「はっ!」


 気迫のこもった剣先を、カリムはあっさりと受け流す。

 互いの刃が交錯し、鍔音が高く鳴った。


「はぁ……はぁ……」


 額から流れる汗を拭い、ドウジンは肩で息をした。


「随分と上達なされましたな、ドウジン様」


 カリムは、息一つ乱していない。


「……まだまだだ。兄上とは比べ物にならない」


「はは……目標が高うございますね、殿下」


 カリムの軽口にドウジンは睨み返したが、反論できる材料はなかった。


「……私に今できることは、最低でも、自分の身を自分で守れるようになることだ」


 ドウジンは改めて剣を握ると、再び構えた。


「もう一度だ、カリム!いくぞ!」


 上段から勢いよく振り下ろす――


「やぁっ!」


 カキン!


 カリムは、それすらも片手でいなす。


(くそっ、カリムのやつ……)


「集中が足りませぬぞ、ドウジン様!」


 カリムは一歩踏み込み、体勢を崩す間もなく、ドウジンの剣を弾き飛ばす。


 ガシャン!


 硬い音と共に、剣が床に転がった。


 落ちた刃を見つめながら、ドウジンは小さく唇を噛んだ。


 こんなことでは、まだ兄上の背中には届かない――。


「……今日は、もういい」


 ぽつりと呟くと、ドウジンは立ち上がり、剣も拾わずそのまま背を向けた。


「ドウジン様……?」


「部屋に戻る。放っておいてくれ」


 背を向けたままの声には、どこか遠くを見ているような響きがあった。

 カリムは一礼しつつも、不安を残した表情でその背を見送る。


 やがて、しんと静まる訓練場。

 時間が経ち、カリムは様子を窺おうとドウジンの部屋を訪れる。


「ドウジン様、失礼いたします」


 声をかけ、扉を開ける――が、部屋には誰の気配もなかった。

 窓が少しだけ開いている。風が白いカーテンを揺らしていた。


「……まさか」


 カリムの表情が変わる。

 すぐさま踵を返し、廊下を駆け出した。



 そのとき、ドウジンの姿はすでに王城から消えていた。


 ドウジンの影は、城門を抜けて、街の喧騒の中へと紛れていた――。


 カリムはすぐさま馬を走らせ街に向かった。




━━✦━━




 薄曇りの空が城下の通りを柔らかく包み込む昼下がり。

 フードを深く被った少年が、いつもの城門をひっそりと抜け出していた。

 従者にも気づかれぬように身を潜めて。


 ドウジンは、城の外に広がる街の息吹を肌で感じながら、石畳の路地をゆっくりと歩いていた。

 時折立ち止まり、露店の果物を眺めたり、子どもたちの遊びに目を細めたりと、

 どこにでもいる年頃の少年のような振る舞いを見せる。


「……うわ、これ甘いな」


 買い食いした焼き果(くだもの)の串をほおばりながら、

 通りすがりの笑い声や商人たちの声に耳を澄ます。

 この国の“日常”の鼓動――

 それを確かめたかった。


 そんな彼の姿を、遠くの屋根影からひとりの男が静かに見つめていた。

 ドウジンの従者であるカリムではない。

 カリムの命を受けて配置された、王家直属の隠密――「影衛(えいえい)」と呼ばれる護衛兵であった。

 その存在を、ドウジン自身すら知らぬままに。




「おい、危ねぇ!」


 突如、通りの向こうで怒号が上がった。

 ひとりの子どもが転び、今まさに、狂気に満ちた男に襲われそうになっている。


 即座に影衛が動いた。

 危険を察知した彼らの伝令が、カリムの所に向かおうとしたその時、カリムが早馬で直ぐ側まで来ていた。


「カリム様!こちらです!」



 カリムの視界の先にドウジンの姿があった。

(間に合ってくれ……!)




「くそっ……!」


 ドウジンは咄嗟に飛び出し、護身用に携えていた短刀を手に、男と子どもの間に割って入る。

 その体に恐怖の気配はなかった。

 ただ、誰かを護ろうとする本能のままに――


 だが、男の力は尋常ではなく、明らかに正気を失っていた。

 振るわれる腕は重く、動きは鋭く、次第にドウジンは押され始める。


(……この人も、何かに操られているのか?)


 その瞬間――


 ドクン。


 ドウジンの胸元で、短刀の紋章がふいに淡く光を灯した。まるで、彼の心の叫びに呼応するかのように。掌に、心臓がもう一つ生まれたような、熱い鼓動が伝わってくる。

 光は一瞬、相手の動きを鈍らせるほどの威を放った。


「ドウジン様――!」


 声と同時に、カリムが駆けつけた。

 影衛によって男は即座に押さえ込まれ、騒ぎはひとまず収束する。


 だが、ドウジンの胸には――深く、確かに、何かが残っていた。


 それは“異変”の始まりを告げる、静かなさざ波だった。


 やがて騒動は街の噂となり、「王子が子どもを助けた」と人々の間に広まっていった。

 それを聞きつけたカリムは、混乱を避けるためドウジンをすぐに連れ戻す。


 城へ戻ると、カリムは珍しく声を強めた。



「お気持ちは、重々理解しております。ですが……それでも私は、悲しいのです。

 あなた様が、何も仰らずに一人で行かれることが」


 ドウジンは、黙って頭を下げた。


「……すまない、カリム」


「いえ、わかっていただけたのなら、それで十分です」

「次は、必ずお声をかけてください。――どうか、お約束を」


「……ああ、約束するよ。もう二度と、ひとりでは行かない」


 そしてドウジンは、そっと短刀を見つめる。

 静かに、その掌に宿る微かな熱を感じながら――。




━━✦━━



 ー時は少し遡りドウジンが街にいる頃ー


 石造りの神殿内には、ほの暗い光が差し込んでいた。

 高窓から射す陽が、揺れる香の煙を透かしている。

 冷たい床石に、裸足で立つ少女の輪郭が、かすかな吐息とともに滲んでいく。


 此処、セリオンの神殿と、遠く離れたアルシアの本宮とは、対になる存在である。

 この場で捧げられた祈りは、本宮の深奥に響き、そこでは姉ギリアが巫COとして控え、

 レディアの祈りを静かに受け取っていた。


 レディアは国を出る際、誰にも告げず、ただ側仕えのニーナだけを伴ってセリオンにやって来た。

 それでもギリアは、言葉にせずとも、妹が担う“祈りの役目”を理解していた。




 幾日も変わらぬ時のなかに沈むその場所で、

 今日だけは、彼女の祈りが深く息づいていた。


 柱の影が静かに揺れ、石の紋様が淡く光を返す。

 灯火は変わらぬ揺らぎを保ち――けれど彼女の胸の内だけが、

 微かに、けれど確かに、昨日とは異なっていた。


 レディアは静かに目を閉じた。

 言葉にできないものが、胸の奥で静かに揺れている。


 あの夢。砕けた月の影。沈黙の気配。

 そして、セリオンの方角から届いた、かすかな“呼び声”――


 これは願いではない。

 それは、抗いようもなく響く“何か”への応え。


 祈りとは、託すことではなく、受け取ることなのかもしれない。

 レディアは祈りながら、自らに課された役目を、まだ名を持たぬまま、

 胸の奥に、そっと受け入れていった。





 一筋の陽光が高窓から差し込み、レディアを照らす。

 その姿は、荘厳で神秘的な巫女としての気配をまとい、

 美しく、消え入りそうな存在として、そこに在った。


 ――レディア様…なんて、お美しい……

 あの方によく似ておいでだわ……


 この神聖な祈りの場にふさわしくないと分かっていながらも、

 ニーナは、思わずそう呟かずにはいられなかった。


(在りし日のリュミナ様に、なんて、よく似ていらっしゃる……)


 かつて、今は亡き、セリオンの王妃リュミナ様も、この神殿で祈りを捧げておられた。


 わたくしが、まだ若き侍女として仕えていたころ、この場で静かに祈るリュミナ様の背を、そっと見守っていた――


 ……そう、あの時も。

 わたくしには、見守ることしかできなかったのです。

 そして今もまた、同じように――

 レディア様を、ただ見守ることしかできない。


 もどかしくもあり、

 けれど、それがわたくしの役目であり、

 決して踏み越えてはならぬ、聖域であると知っております。


 せめて、体調だけでも。

 わたくしにできる限りの配慮を尽くして参りましょう。


 レディア様は、わたくしにとっては、我が子も同然の方……

 お産まれになったその日から、母君に代わってずっと、側にお仕えしてきたのです。



 ……どうか、その定めが、あまりにも過酷なものでありませんように。

 わたくしには見守ることしかできませんが――

 それでも、せめて少しでも穏やかな道であられますようにと、

 心から、そう願っております。


 ニーナもまた、そっと胸の内で祈りを捧げていた。






 傍らに置かれた一冊の祈りの書――

 巫女の系譜に連なる者として綴り続けてきた、その頁の奥で、何かが静かに脈打った。

 装丁に刻まれた銀の文様が、ほんの一瞬、淡く、光を返す。


 レディアは目を閉じたまま、微かに眉を寄せた。

 どこか遠くで、名もなき想いの波が触れたような気がしたのだ。

 誰のものかも、なぜそう感じたのかもわからない。

 けれど――

 それは“既にどこかで知っている気配”のようでもあった。


 夢に現れるあの影。

 瞳の奥に残る、まだ言葉を持たぬ気配。

 祈りは静かに続いていた。けれどその内側で、確かに“何か”が芽吹きつつあった。



━━✦━━



 夜の帳が、王都の空を静かに包み始めていた。

 薄く差し込む灯火の中、ドウジンは静かに自室へと戻る。

 執務机に置かれた数冊の文献に目をやるでもなく、

 軽く息をついて、そのままベッドの縁に腰を下ろした。


(……あれは、一体なんだった?)


 昼間、街で子どもが狂気に満ちた男に襲われかけたとき――

 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 何を考えたわけでもない。ただ、“護らねば”と。


 その瞬間、腰に帯びていた短刀の紋章が、確かに淡く光を放った時、俺の鼓動がはねあがったのだ。


 まるでその思いに呼応するように。


 光に気を取られた男の動きが、一瞬止まった。

 カリムの機転と合わせて、どうにか事なきを得たが――

 あの男は今も意識を取り戻していない。


(この短刀……いったい何なんだ)


 誰かが――確か、レディア姫も言っていた。

 あの時、柔らかい声で、静かに。

「その時がくれば」――


 ……そうだ。ゼフィドも、似たようなことを言っていた。

 あれはただの意味のない言葉じゃなかったのか?


「なんなんだ! いったい……」


 ドウジンは、思わず声を荒げていた。

 胸の奥に澱のように溜まったものが、言葉となって溢れ出す。


(俺にも、何か“役目”があるのか……?)

(この短刀が応えた“何か”に……)



 そう考え始めたとき、脳裏に浮かんだのは――

 ただひとりの男の顔だった。


「……父上に、確かめるしかなさそうだな」


 低く呟き、ベッドへと身を横たえる。

 だが、まぶたを閉じても眠気は訪れず、

 薄暗い天井を見つめるまま、時間だけが無情に過ぎていく。


 短刀の光。男の動きが一瞬止まったあの感覚。

 そして胸に、微かに残ったざらついた違和感。


(……いけない。だが、今夜だけは――)


 そんな思いが心を押し、引き止める理性を振り払った。

 誰かに止められる前に、答えを知りたい。

 この胸のざわつきが、やがて“何か”を手遅れにしてしまう前に。


 薄衣のまま部屋を出て、王宮の静まり返った回廊を進む。

 誰も通らない夜更け、月光だけが彼の影を細長く伸ばしていた。


壁に並ぶ、歴代の王たちの肖像画。その描かれた瞳が、まるでこの若き王子の覚悟を試すかのように、闇の中から、じっと彼を見つめている気がした。


 廊下の石床が、足音を吸い込むように沈黙していた。

 時折、遠くの風が古い窓枠を鳴らす音だけが響いている。


 やがて辿り着いた王の私室。

 扉の前に立つ近衛が目を見開く。


「……父上に、どうしても話がある」


 一瞬の戸惑いののち、ノックの音が響く。

 ややあって、重く低い声が返った。


「どうした」


 近衛兵が息を呑んで言上する。


「はっ……ドウジン様がお越しです」


 沈黙の後、扉がゆっくりと開かれた。


「こんな夜更けに、何用だ」


 椅子に腰かけたままの王――ヴァレノスが、

 寝間着姿のまま、鋭い眼光をドウジンに向ける。


 その瞳に宿るものは、怒りではなかった。

 ただ静かに、深く、見透かすような光。


 ドウジンは、言葉を探しながら直立のまま拳を握りしめた。

 だが、何も言えなかった。


 一拍の沈黙。


 ヴァレノスの表情が、わずかに和らぐ。

 そこにあったのは、叱責でも拒絶でもない。

 ただ、何かを――すでに知っている者の、深い覚悟の色。


 それは、ドウジンが初めて目にした“父”の顔だった。


 ヴァレノスは、しばし言葉を選ぶかのように沈黙した。

 だがその眼差しには、問いを退けるでもなく、ただ静かに何かを受け止めるような気配があった。


(――やはり、おまえは来たか)


 そんな声が聞こえた気がして、ドウジンは息を呑んだ。





 第二部ー第8章、閉じ。

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