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第二部 【過去編 第7章:それぞれの決意】

「やはり、此方こちらにいらしたのですね」


 背後からかけられた、どこか懐かしい声音に、ドウジンははっと振り返る。


「……あなたは……」


「こんにちは、ドウジン様。お久しぶりでございますわね」


 そう告げて微笑む彼女は、朝の光を背に、静かにそこに立っていた。

 まるで神殿から現れた女神のように、気品と神秘に包まれて――。


 一瞬、言葉を失ったドウジンは、ただその蒼い瞳を見つめ続けていた。

 ようやく我に返ると、慌てて声を上げる。


「なぜ、こんなところに……。今や国内外ともに不穏な気配が広がっているというのに。

 あなたって人は……今、出歩くのは危険なんですよ」


「ふふっ。ここの“女神様”に、またどうしてもお会いしたくて」


「兄上はご存じなのですか?」


「ご存じではないと思いますわ。誰にも告げずに国を出てきましたもの」


 レディアはさらりと告げ、悪びれもせず笑ってみせる。

 ドウジンはその変わらぬ振る舞いに、思わず頭を抱えた。


「……とにかく、こちらにいらしたのなら兄上のところへ。今から私がご案内します」


「大丈夫ですわ」


「何がです」


「ドルトン王太子には、なさるべきことがおありでしょう。

 私がそばにいては、かえって足手まといになってしまいますもの

 ドウジン様こそ、こんなところにおひとりでいらしてはいけませんわ」


「……わ、私は、自分の身くらい自分で守れます。でも、あなたは……」

 ドウジンの話を遮るようにレディアは声を発する。


「“護りの短刀”」


「……え?」


 突然告げられた言葉に、ドウジンは戸惑いながらも、腰に差していた短刀を抜いた。

 母の形見であり、常に肌身離さず持ち歩いていたそれを、レディアの前に差し出す。


「これのことですか?」


 短刀の柄に彫られた細やかな紋章を、レディアはじっと見つめる。


「やはり……」


「……何が、“やはり”なのですか?」


「その紋章は、わたくしの祖先から代々受け継がれてきた“祈りの杖”に刻まれたものと、極めて似ておりますの」


「……なんだって? でもこれは、母上の守り刀だったんだ。

 あなたのアクタス家と、母上の実家であるアマセリウス家は、別のはず……」


「ええ。でも、遠い親戚筋ですし、ルーツを辿れば同じ血にたどり着くはずですわ」


「……で、この短刀がどうしたというのです?」


「ドウジン様は、その短刀について何か聞いておられますか?」


「……いいえ。誰も、何も語ってはくれません。ただ、いつも持っているようにと、それだけです」


「そうですか――では、まだ“その時”ではないのですわ」


「……は? 何が、“その時”なんですか?」


「ふふっ。それは、“その時”が来れば、おわかりになりますわ」


 レディアは微笑みながら、まるですべてを見通しているかのように続ける。


「やはり……あなたが……」


「だから、何がですか」


「大丈夫ですわ、ふふっ」


 レディアはそれ以上語らず、ただ微笑むばかりで、ドウジンの問いには答えなかった。


 ふと、レディアが空を仰ぎ見る。


「あら……いけませんわ。あんなに陽が高くなってしまいました。

 わたくし、国王陛下にご挨拶に伺わなければ」


 肩をすくめて見せるその仕草に、ドウジンはもはや呆れを通り越して、力なくため息をつくしかなかった。


 レディアは、自身の確かめたかったことを得た満足を胸に、迷いのない足取りで温室の出口へと向かっていった。


 やがて、馬車に乗り込んだ彼女が、小窓越しにドウジンに向かって声をかける。


「ドウジン様――では、また」


 その瞬間、彼女の蒼い瞳に、ほんのわずかに宿った“決意”の光を、

 ドウジンは見逃さなかった。




━━✦━━




 玉座の間には、昼を迎えた陽の光が、長い縦の窓から静かに差し込んでいた。

 高い天井に描かれた蒼の紋章が、揺れる光に淡く浮かび上がる。


 その奥、重々しい玉座に身を預けるヴァレノス王の前に、

 静かに歩みを進める少女の姿があった。


「……お久しぶりでございます、ヴァレノス陛下」


 アルシアより来訪した“使者”──

 その名をレディア・アクタスという。


 柔らかなドレスの裾が床を撫で、足元の模様に淡く影を落とす。

 白磁のような肌に、光を湛えた蒼の瞳。

 揺るぎなき足取りのまま、彼女は王の前で静かに膝を折った。


「久しいな、レディア姫……」


 ヴァレノスは少女を見下ろすのではなく、まるで親しき者を迎えるように声をかけた。

 そのまなざしの奥には、懐かしさと、言い知れぬ不安がわずかに揺れていた。


「そなたの訪問、アルシアよりの正式なものとしては受理したが……

 ドルトンは聞いておらぬと申しておった。まさか、ひとりで?」


「ええ、誰にも告げず、参りました。どうしても、お伝えしたいことがございましたので」


「……“どうしても”、か」


「はい。”どうしても”でございます。陛下」

 レディアは、少しいたずらっぽく蒼い瞳を揺らした。


 ヴァレノス王は、その姿を見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。


「……なるほど、やはりリュミナの血を引いておるな。

 遠縁とはいえ、ふと彼女の面影が重なって見える」


 彼は目を細め、わずかに笑んだ。


「そう……あれも、時に人の意見など意に介さぬ女だった。

 そなたも、どこか似た気配をまとっているな」


 レディアは顔を上げると、少しだけ微笑んでみせた。


「光栄に存じます、陛下。ですが……意に介さぬのではなく、信じているのです。

 この道が、きっと誰かの救いになると」


 王の眼差しが、ほんの僅かに和らいだ。


 レディアはそのまま、ひと呼吸置いて口を開いた。


「……それと、陛下。もし許されるのならば……この城の神殿に、しばらく籠もらせていただきとうございます。」


「祈りのためか?」


「はい。わたくしの務めとして、今こそ……捧げねばならぬものがございます」


 ヴァレノスは目を細め、静かに頷いた。


「ならば好きにするがよい。あの場所は、そなたにこそ似つかわしい」

(……リュミナ、お前もそうだったな。いつも、ただ静かに、だが決して退かずに、祈り続けていた…)


 いつの間にか、王の背後にはゼフィドが控え、

 レディアの背後にはドルトンの姿があった。


 それは、古き血脈と新たな時代が、静かに向き合った瞬間だった。





 玉座の間を後にしたレディアの数歩後ろを、ドルトンとレノヴァンの二人が静かに続く。


 儚げに見えるその少女の背中を見つめながら、ドルトンはひとつ溜め息をこぼした。


「……あなたには、すべて見えているのですか?」


 問いかけは、まるで独り言のように宙へと零れた。


 レディアは歩みを止め、中庭に面した回廊の陽光に手をかざし、しばしそこに立ち尽くす。


 つられてドルトンも視線を上げ、眩しさに思わず同じように掌を翳かざした。


 レディアが、穏やかに口を開く。


「眩しいですわね。

 でも、“白き月”はちゃんと、そこに在りますわ」


 そう言って、レディアはふたりの方へと振り返る。


「わたくし、こちらでは“祈り”を通して、確かめたいことがあるのです」


 その真っ直ぐな言葉に、ドルトンは彼女の瞳を見つめたまま、しばし声を失った。


「……確かめたいこと、ですか」


 呆れとも、諦めともつかぬ表情のまま、小さく息を吐く。


(この少女の瞳には、いったいどれほどのことが映っているのだろう……)


「……わかりました。では、神殿のことは私が手配いたします。必要なものがあれば、遠慮なく」


 その声には、いつになく柔らかな響きが宿っていた。


 レディアは、ふわりと微笑みを残し、回廊の奥へとゆっくりと歩を進める。

 ドルトンとレノヴァンも、それに続いた。


 回廊の先にはそっとニーナの姿があった。

 彼女は静かに頭を下げ、レディアを迎えようと控えていた。


「ひとまずは、部屋を用意させます。神殿の準備が整うまで、そちらでお休みを

 レノヴァン、あとは頼んだぞ」


 ドルトンの言葉に、レノヴァンが一礼する。


「はっ。かしこまりました」




「レディア姫──」


 ドルトンは一歩だけレディアに近づく。

 けれど、ふと口元に浮かんだ言葉は、声となることなく静かに呑み込まれた。

 その瞳がわずかに揺れる。語られぬ思いの余韻だけが、そこに滲んでいた。


 ほんの一瞬の沈黙ののち、ドルトンは姿勢を正し、平静を装うように口を開く。


 「……では、私はこれにて」


 短くそう告げると、彼は踵を返した。

 風を孕はらんだマントが静かに翻ひるがえり、その背は迷いなく、玉座の間へと向かっていった。


 背筋を伸ばして歩むその姿は、若き王太子としての責務と、ひとりの人間としての迷いを静かに背負っていた。


 レディアは、その背を見送る。

 言葉ではなく、その歩みに宿る想いに、そっと目を細めながら。




 残されたレディアのもとへ、レノヴァンが歩み寄る。


「レディア姫。お部屋へご案内いたします」


「ええ……お願いね、レノヴァン=フェルド」





━━✦━━




《 魂安の繭こんあんのまゆ(ケリュキオン) 》——

 それは、王家の第三王子ドミネン自身が望み、開発を命じた“魂を守るための器”だった。


 己の仮説を信じ、外界からの干渉波に抗うために。

 人々を救う術を求めて。


 レノヴァンの手によって試作されたその繭により、彼は確かに一度、意識の安定を取り戻したはずだった。


 だが、それは──


 魂安の繭がもたらしたのは、回復ではなく──ただの、束の間の静寂だった。




 その夜、ドミネンはまた――静かに、夢の中で誰かの声を聞いた。





「……ヨブ……ココヘ……オマエヲ……カギ……」





 夢か現うつつかもわからぬまま――

 意識の淵で揺れるドミネンの耳に、微かに聞こえる“何か”の囁きがあった。


 それは、深き水底より届く、かすかな呼び声。


 眠りと覚醒の狭間で、彼はゆっくりと身を起こす。


 意識を閉じ込めたまま、身体だけがひとりでに立ち上がり、扉へと向かう。

 まるで何かを求めるように、音もなく歩き出した。


 今宵は、新月――月なき夜が、静かに城を包み込んでいた。




━━✦━━




 神殿の奥、祈りの間には静けさだけが満ちていた。

 一輪の花のように、レディアはそこに座していた。

 白くたなびく衣が、石の床をやさしく撫でる。


 今宵は、新月──

 天に月の光はなく、ただ黒の帳が、世界を静かに包んでいた。


 この神殿は、アルシア本宮の様式をそのままに継いだ“分神殿”として、

 セリオンの王都にも静かに佇んでいる。

 古より、王家に連なる者たちと、巫女の血を引く者たちの祈りの場として、

 そこに在ることが当たり前のように、日々を重ねてきた。


 柱の配置も、石床の紋も、本宮の理ことわりを静かに写しており、

 どこか遠く離れた地と響き合うような、深い静寂がそこに息づいている。


 柔らかな灯火がゆらめき、彼女の影を床に描く。

 祈りのことばが口に出されることはない。

 ただ、深く、静かに、魂の奥で紡がれてゆく。


 ……けれど。


 その静寂の中に、ごくかすかな違和があった。

 誰にも気づかれぬほどの、わずかな揺らぎ。


 レディアのまつげが、微かに震える。

 呼吸の奥に、言葉にならぬ気配が触れていた。


(……これは……)


 まるで遠い波のざわめきのような……

 あるいは、眠りの底に響く、見えざるささやきのような……


 それは幻かもしれない。けれど、確かに“何か”がそこにあった。


 レディアは、祈りを解くことなく、そっと目を開けた。

 空を見上げるように、闇の奥に思いを馳せながら――。




━━✦━━



 ──夜が明けきらぬ静寂の執務室。

 窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。


「……陛下、どうかご下命を。私に、調査の任をお与えください」


 ドルトンは国王の前に進み出ると、深く頭を下げた。


「……城で報告を待つだけでは、民の信頼に応えられません。

 各地で続く不穏な報せ――今この瞬間も、誰かが危険に晒されているのかもしれない。

 この国を導く者として、ただ傍観することはできません。

 どうか、私に行かせてください。民の声を、現場の真実を、この目で確かめてまいります」


 しばし沈黙を保った後、ヴァレノス王は静かに頷いた。


「……よかろう。ゼフィドを伴え。そなたの補佐と、目付け役を兼ねてな」


その言葉の重みに、玉座の間にいた誰もが息を呑んだ。王が、自らの右腕であるゼフィドを、この任に遣わす。それは、この視察が、もはや単なる調査ではないことを、無言のうちに示していた。

ゼフィドは、一歩進み出ると、言を弄さず、ただ静かに、ドルトン王太子の前で深く膝をついた。そして、胸に固く拳を当てる。それは、フェルド家に伝わる、王家への絶対的な忠誠と、己の命を懸けるという、無言の誓いの証だった。

ドルトンは、その無言の誓いを、真っ直ぐな瞳で受け止めた。


「御意にございます」


 その一礼には、王太子としての責任と、揺るぎない意志が宿っていた。


 やがて、王子は夜明けの支度を整える。

 黒の外套をまとい、剣を腰に、数名の近衛とゼフィドの姿がその背に控える。


 出立の刻、城門前でドルトンは足を止め、ひとりの男へと振り返った。


「レノヴァン」


「はっ」


「……弟たち、そしてレディア姫のこと、頼んだ。

 その変化に、最も早く気づけるのはお前だろう」


「畏まりました。何があろうとも、お守りいたします」


 言葉少ななやりとりに、深い信頼と使命が滲んでいた。


 空が白み始める中、ドルトンは馬にまたがる。


 その目に宿るのは、王国の未来を見据える決意。



「出発する」


 短い号令とともに、王太子の一行は、まだ薄闇の残る街道へと姿を消していった。

 それは、見えざる異変に立ち向かう者の、最初の一歩となった。


 その背を、悔しさと共に見送る少年がいた。


 ドウジンは、まだ薄暗いテラスに立ち、兄の出発を静かに見つめていた。


 ドルトンの一団が、朝靄のなかを進んでいく。

 その背に宿る覚悟を、若き弟は黙して見送る。


 そして、拳をそっと握りしめる。

 「……私には、まだ守られることしかできないのだな」


 その呟きは、胸の奥に深く沈み、静かに小さな火を灯した。


 兄の姿が見えなくなるまで、彼はじっとそこに佇んでいた。

(兄上を、ドミネン兄上を、そして……あの少女を、今度こそ私が護れるように)

 一日でも早く、あの背に並ぶ者となることを、心に誓いながら――。





 第二部 ー第7章、閉じ。

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