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第二部 【過去編 第6章:見えざる歯車】


 あの出来事以来、ドウジン様は自室にこもり、国の成り立ちや古い文献を読む時間が格段に増えていった。


 第3王子という立場で、末子ということもあり、ましてやご自分の誕生とほぼ同時期にお母上を亡くされているお立場から、ドウジン様は孤独な時間を過ごされることが多かった。


 国王を始め、城の者から大事に…いや、言い換えれば腫れ物に触るように扱われてこられたことも影響しているのだろう。


 そんなドウジン様をわたしはお側でずっと見てきた。


 幼少期こそ、やんちゃで手に負えず、振り回されることが多かったのだが、

 …そういえば、わたしが謹慎を終えて戻ってきた頃からだろうか──ご自分の立場について、深く考えるようになられたご様子だった。


 まぁ、わたしの留守中、ドウジン様の側に兄のレノヴァンが仕えていたというから、どういう時間を過ごされていたかは、想像できなくもない。

 あの兄のことだ、徹底的にドウジン様を説き伏せていただろうから、流石のドウジン様も抵抗できなかっただろう。


 しかしドウジン様は、とても聡明でいらっしゃる。

 学ばれた事を、いかにご自分のお立場に置き換え、何ができるか、今何を学ぶベキかを模索していらっしゃるご様子。


 このカリム、殿下の成長が手に取るようにわかり、感慨深いものを感じる。


 それに、わたしの小言をすんなりお聞きになることが増えた。

 小言を言う機会が減ったこともあるが、

 きっと、兄レノヴァンよりは、マシだと思ったということだろう。


(そういうところがお優しくて、憎めないんだよな…)



「カリム。」


「はい。ドウジン殿下」


「この三国の同盟に至る経緯をもう少し詳しく教えてくれ」


「かしこまりました。」


「できれば、おまえの祖国ネヤールが何故、医術に長けていったかを詳しく頼む」


「承知いたしました。

 では、コホン。我が祖国ネヤールは、厳しい自然に囲まれた高冷地にあり、作物も育ちにくく、家畜も少ないというのが建国からの課題でした。

 ですが、その分、時間があったということが功を奏し、屋内にこもる時間が自然と長くなり、ある者は己の肉体を鍛え、ある者は人という存在そのものを探求していったのです。



 やがて武術と医術は、国を支える二本の柱となりましたが、

 医術に関しては決して順風満帆ではございませんでした。


 ……古い記録の中には、かつて人体実験が行われていた痕跡もございます。」


「人体実験?」


「はい。倫理を超えた過去もありましたが――それらの積み重ねこそが、今、我々が持つ技術の礎となっております。


 今やセリオンの方々も、病に倒れた時、

 神に祈るのではなく、我がネヤールの医療技術が中心となり、王家を始め、セリオン国の人々の助けになっていることを誇りに思っております。」


「人体実験って……つまり、人を犠牲にして技術を高めていったということか?

 なら、今まさにドミネン兄上は、おまえ達の、いや、レノヴァンの新しい研究の実験にされているのではないのか!」


 ドウジンの声には、怒りよりもむしろ、焦燥と、どうしようもない不安が滲んでいた。


「……あの時、もっと早く兄上の異変に気づけていれば……私にも何かできただろうか…」


 胸の奥に渦巻くのは、後悔と、自らの幼さへの苛立ちだった。


「私には、兄上の苦しみに気づく余地すらなかった……」


 その孤独と無力さが、静かに心を締めつける。まるで冷たい水が、胸の内側にじわじわと満ちてくるようだった。



「ドウジン様… そのような事をご心配されていたのですね…

 ご安心ください。ドウジン様、兄レノヴァンは、我フェルド家の時期当主でもあります。決してセリオン王家の方々をそんなことに利用したりはいたしません。


 あの兄が、なんらかの装置を使ってドミネン様に“何も及ばないよう”最新の技術と誠意を持って、治療にあたっております。


 そのことは、我らフェルド家の忠誠に誓ってお信じいただきたい。」


「………」

 ドウジン様は、何も言わず、静かにわたしの言葉を理解しようとしておられるようだった…


「ドウジン様…

 ネヤールは、もはやただの隷属ではありません。


 元々、セリオンは広く肥沃な土地を持ち、豊かな資源に恵まれていましたが、

 同時に、人口が多いゆえに病が蔓延しやすく、

 戦を維持するにも、補う技術と知識を必要としていました。


 そこに、我がネヤールとアルシアが加わり


 作物や家畜の流通はセリオン、

 季節と天の巡りを読む祭祀と気候観測はアルシア、

 そして――武術と医術を担ったのが我がネヤール…

 三国の間で、自然とそうした役割分担が築かれていったのです。


 それはもう、一つの国家と言っても過言でないほど強固な信頼と忠誠がございます。

 ですので…」


「わかっている。わかっているのだ。決しておまえ達を疑っているのではないんだ。」


「はい、殿下。

 それも重々承知しております。

 殿下はただドミネン様の事を案じておられるからだということは」


 ドウジン様は頷き、静かに呟く。


「不思議なものだな……

 かつて命を奪い合っていた国同士が、今では互いを支えている。」


 カリムもまた、遠くを見るように言葉を返す。


「……そうですね。変わるものもあれば、変わらぬものもある。

 人が歩み寄ろうとした分だけ、時代もまた、形を変えていくのでしょう」


「……それが、“今”を生きるということかもしれないな」




 その時、静かに扉がノックされた。


 コン、コン、コン


 二人が目を合わせると同時にドウジンが頷く。

 カリムがドアを開けるとルーベスが入ってきた。


「ドウジン殿下。ご報告いたします。

 ドミネン様が回復され、先ほど自室に戻られました。」


 ルーベスの瞳が少し潤んでいた。


 ドウジン、はっとして立ち上がるが──すぐに思い直して座り直す。

「そうか……よかった……」


 ルーベスはそれだけを告げ一礼して去っていった。

 カリムと再び目を合わせた後、ドウジンは安堵のため息をついた。


 ほんの少しだが、胸の奥に灯がともった気がした。

 兄を救えたわけではない。まだ何もできていない。

 それでも──

「今、自分にできることを考えよう」


 その思いは、静かに、しかし確かに、彼の心の奥に根を下ろしていた。




━━✦━━




 「……一体、我が国で何が起こっているというのか」


 王の呟きに、玉座の間が一瞬、しんと静まり返った。


 ドルトンは僅かに視線を伏せ、そして静かに言葉を継いだ。


「……陛下。ネヤール方面でも同様の報せが届いております。

 特に、国境付近の小村では、住民の全員が“言葉を発さなくなった”という報告も──」


「言葉を…?」


「はい。肉体に異常は見られず、意識もある。

 だが、誰ひとり、何も語らず、ただ虚空を見つめているのみ……とのことです」


 ヴァレノスは、重々しく息を吐いた。

 その背後、参列していたゼフィド・ギル=フェルドが静かに進み出る。


「陛下……それらの現象は、今のところ原因不明でございます。

 外因性の毒、風土病、あるいは幻覚を引き起こす気流変質なども検証いたしましたが、いずれも該当せず……」


「科学で解明できぬものが、国を蝕んでいるということか」


「……その可能性もございます」


 王は黙して立ち上がった。

 厚いマントが床を擦る音が、広い玉座の間に響く。


「……ならば、我が王国だけで抱え込む問題ではないのやもしれぬな。

 ネヤール、アルシアともに状況を照合し、合同調査の体制をとれ」


「はっ」


 ドルトンとゼフィドが同時に頭を下げた。


 ヴァレノス王は深く目を閉じた。


「……王家に残された古い記録が脳裏をよぎる。“沈黙の災い”、いずれ星の底より目覚める、と……」


 静かな声だった。だがその響きには、言い知れぬ不安と、自身への戒めが込められていた。


「そんなもの……あるはずがない……」


 言葉の終わりに、王はわずかに目を細めた。

 それは、自らが口にした予感を否定しようとする意志と、消し去れぬ“何か”への怯えの入り混じった眼差しだった。(だが、王とは、ありえべからざることにも、備えねばならぬ存在だ)と、自分に言い聞かせるように。


「……陛下」

 ドルトンが慎重に口を開く。「やはり、動くべきではありませんか。

 今のうちに、城下や周辺の警戒体制を──」


「焦るな、ドルトン」

 ヴァレノスは息を吐き、椅子の背にもたれた。


「我ら王家の責務は、ただ過去の亡霊に怯えることではない。

 だが……用心するに越したことはない。

 かつて、“災い”と呼ばれたものが実在したのなら……いずれ何らかの兆しが現れるはずだ」


 ドルトンは、そっと頷いた。

 この国の命運が、すでに見えないものに侵され始めている──その疑念が、確かに二人の間に流れていた。


 そしてそれは、誰もまだ知らぬ場所で、密やかに現れようとしていた。



 そこへ玉座の間に、再び近侍が静かに駆け込んできた。


「陛下、ただいまアルシアよりの使者が到着いたしました。緊急とのことにて──」


 ヴァレノスは小さく頷いた。

「通せ」


 しばしののち、夜風を纏うかのような気配とともに、一人の女性が玉座の間に現れた。

 白銀の刺繍が施された外套をまとい、長く編まれた髪を垂らすその姿は、まさにアルシアの“静謐せいひつの使い”と呼ぶに相応しかった。


「セリオン王国・ヴァレノス陛下へ、アルシア神殿よりの急報をお届けに参上いたしました」


「申せ」


「……昨晩、巫女レディア・アクタス様が“神夢”を得られました。

 その夢において、黒き風と白き月の裂け目、そして“声なき声”の囁きが現れたと」


 玉座の間に、再び沈黙が訪れる。


「……神夢、か」


「はい。それは、アルフェアノの記録にもある“災厄の兆し”と一致するとの判断でございます。

 急ぎお伝えせよとの御命により、風の加護をもって参りました」


 ヴァレノスは目を細めた。


「……“沈黙”の地に、巫女の夢までが呼応するとはな……」


 背後に控えるゼフィドも、眉根を寄せ、ただ無言で頷いた。





━━✦━━




 薄く霞のかかった朝。アルシアの神殿を包む空気は、いつにも増して静かだった。


 レディア・アクタスは、白銀の祭衣のまま、神殿の奥にある“祈りの間”で目を閉じていた。香の煙が静かに天へとたなびき、誰もいないはずの空間に、確かな“重さ”が漂っている。


「……また、あの夢……」


 誰にも話していない。話せなかった。

 地が軋む音、声なき呻き、空を裂く何かの影──

 砕けた月のかけらが、大地に降り注ぐ――


 それはただの夢ではなかった。確かな“感覚”として、胸の奥に残り続けている。

 しかも日を追うごとに、鮮明になっていく。


「……“沈黙の災い”…なの?」


 思わず漏らしたその言葉に、自らが震える。

 伝承の中だけに存在するはずの“禁じられた言葉”が、自然と口をついて出た。


 昨日、ネヤールからの使者と共に、ゼフィド・ギル=フェルドから急報が届いた。

 セリオンとネヤールの一部地域に、“異常な沈黙”が拡がっているという。


 祈祷師たちも、医師団も、その理由を突き止められず、国王たちの間には見えない不安と、“何か”が目覚めつつあるという予感が広がっている。


(このままでは……何かが、壊れてしまう)


 レディアはそっと目を開けた。

 白く清らかな光が、睫毛の影を床に落としながら、静かに彼女の横顔を照らしていた。


「……行かなくては。何かが変わってしまう前に」


 その声に応えるように、神殿の奥から、ひとりの女性が姿を現した。

 丸みを帯びた体つきに、やわらかな藍色の衣をまとい、眉の下に深い優しさを宿したまなざし。


「……レイ様」


 それは、レディアが幼い頃から仕えている乳母であり、今は侍女として傍にいるニーナだった。

 いつも通りの控えめな佇まいの中に、どこか気づかぬふりをしたような、深い洞察を宿している。


「ニーナ……支度をお願い。わたし、王たちのもとへ向かいます」


 ニーナはふくよかな手を胸元で重ね、小さく息を吸い込むと、優しく微笑んで言った。


「……また、あの夢をご覧になったのですね?」


 レディアは驚いたように目を見開いた。けれど、それ以上の問いは口にできず、ただ、そっと頷いた。


「……ええ。もう、見過ごせないと思ったの」


「――わかりました」


 ニーナはそう静かに答え、いつものようにおっとりとした動作で踵を返した。だが、その背には、娘のように育てた少女が大きな決意を胸に歩き出そうとしていることへの、ひそやかな誇りが滲んでいた。





 薄曇りの空の下、アルシアの風は、季節には不釣り合いなほど冷たかった。

 レディアは、宮の渡り廊下で立ち止まり、遠くセリオンの方角を見つめていた。


「……あちらから、良くない気配が感じとれる…」


 確信のない言葉だったが、その声音には、決して否定できぬ何かが宿っていた。


 後ろから、側に控えていた侍女ニーナが、そっと外套がいとうを肩にかける。


「お嬢様、冷えますよ。旅支度は整っております。いつでもお発ちいただけます」


「ありがとう、ニーナ。……」


 レディアは瞳を細めた。胸の奥がざわつく。


「……どうしてかしら。行かなければならない、そう強く感じているのに……」


 言いかけて、唇を閉じた。


 天の導き。そう呼ぶにはあまりに静かで、曖昧で、けれども確かに心を揺らす“気配”。

 祈りを捧げても晴れない靄のような、不安の正体。


「セリオンに着いたら、それが何なのかわかるかもしれない……」


 その呟きは、自らに言い聞かせるようでもあり、同時に“誰か”に届くことを願う祈りのようでもあった。(あの、寂しげな瞳をした少年は、無事でいるだろうか……)ふと、脳裏をよぎったその面影を、彼女はそっと振り払った。


 ニーナは、そっとレディアの横に並ぶと、小さく呟いた。


「レイ様……きっと、大丈夫ですわ。お祈りも、星の導きも、ずっと貴女様の傍にあります」


「ええ。ありがとう、ニーナ」


 レディアはひとつ深く息を吸い、背筋を伸ばした。

 静かに、しかし確かな足取りで階段を降りる。


 待たされていた馬車の前で、護衛たちが頭を垂れた。

 空は薄く曇り、風が旅の始まりを告げるように吹き抜けていく。


「……行きましょう。セリオンへ」


 そう告げる声は、年齢を超えた静謐さを帯びていた。


 レディアの出立は、まだ誰も知らぬ“運命の歯車”を、そっと回し始めていた。



 第二部ー第6章、閉じ。


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