時計が十時を越えると珠は家の掃除を終えて続木の家に戻って行った。雪久も仕事へ出るために支度を整えて家を出る。この時間に出れば余裕を持って学校へは到着するだろう。車に乗り込み、ふと胸に手を当てて気付いたものを取り出した。
駐車場に車を止めて今日も小鹿の部屋に入る。ドアを開けるとすでに先客がいた。
見知らぬ顔だ。長い黒髪に晴れ色の着物を着ている美しい女性だ。
『こんにちは。』
雪久はとりあえず軽く会釈して部屋の奥へと入り、荷物を置くと窓を少し開いた。
彼女は雪久に驚きながらも小さく会釈してじっと見つめている。
視線に構わずとりあえず煙草に火をつけると一服して椅子に座る。
『それでお嬢さんはどなたかな?』
『あ。』
彼女は雪久の言葉に背筋を伸ばすと固まったように俯いた。そしてボソボソとその唇が動くが聞こえない。
『失礼、もう一度お願いできるかな?』
『あ、
『いや、かまわないが。俺に用なのかな?それとも
とき子は小さく頷いて微笑む。その頬は淡く染まった。
『小鹿先生にお願いしていたことがあって…でもその。』
『うん?』
雪久が視線を合わせるととき子ははっと目を逸らした。どうやら恥ずかしいらしい。雪久は出来る限り彼女の後ろに視線を合わせて声をかけることにした。
『小鹿先生は留守なんだ。じきに帰ってくるとは思うが…急ぎなら伝言を預かろう。君が言いたくなければ何か書いてくれれば時間はかかるがそれを渡しておく。』
『あ、いえ。そういうわけじゃ…すいません、殿方とお話するのはあまり経験がなくて。』
『ああ…。』
煙草を吸い込みふーっと長く煙を吐く、その時間も彼女はうろたえていたが両手をぎゅっと握りしめて顔を上げた。
『こ、小鹿先生には結婚までの手解きをお聞きしていたんです。それでこの度縁談が纏りまして…私…あまり色んな経験がなかったものですから、教えていただけて感謝しています。』
雪久はそれを聞いて一瞬咽ると咳き込んだ。
『だ、大丈夫ですか?』
『失礼。それを伝えておけばいいんですね?』
『はい。よろしくお願いいたします。』
とき子は深々と頭を下げると礼儀正しく部屋を出て行った。