お昼過ぎに学校から帰ると氷丸はいなかった。
今朝氷丸は朝食に顔を出さなかった。
珍しいことだけど、2日寝てないって言ってたし、久しぶりの休みでゆっくりしているのだろうと思って……だから帰ったら話ができると思ってたのに。
昨日の無礼を謝らせて、ひとり暮らしの話を詰めなきゃ。今日はもう勘弁しない。
遅い昼食をとっていると、モエがデザートをもってきた。
「はい、姫様。洋梨のコンポートですよ」
「やったあ! 先に食べる」
「あらあら、全部召し上がってからですよ。本当、いつまでも赤ちゃんなんだから」
「なによ、子供扱いしないで」
モエはこの家の家事全般を取り仕切っている。
もうすぐ60歳になるけど、しっかり者で働き者のハウスキーパー。料理もプロ並み。掃除洗濯も完璧。ついでにヘアメイクも得意。
夫のハルトは庭の手入れをしていることが多いのでガーデナーと思われがちだけど、実は屋敷の管財なども任されていて、ライエのバトラー件スチュワードといったところ。
ふたりは敷地内にある別棟に住んでいて、通いの使用人たちをしっかりマネジメントしてくれている。
そうやってこの広大かつ美しい家屋敷を万全な状態に保っているのだ。
ふたりとも私の祖母の代からこの家にいて、家族もみんなライエの使用人だった。
父からの信頼も抜群で、家のことはなんでもお任せだ。
父がライエに婿入りした当時からモエとハルトはライエで働いていて、なにかとお世話になったらしい。
本来なら屋敷の監督は女主人がするものだろうけど、残念ながら私の母は12年前に亡くなった。
私は3歳だったからなにも覚えていない。母のことはアルバムと人づての言葉でしか知らない。
美しく、優雅で儚げな人だったらしい。
氷丸も「子供心にも憧れました」なんて言っている。
悪かったわね、母さまに似てなくて。
でも、この硬いくせっ毛も、低くて広がった小鼻も、骨太な体格も、全部父親譲りなのよ。
嘆くなら自分そっくりに作ってしまった
母さまは美人薄命の名の通り、私を産んで数年後に病気になり、転地療養していたらしいけど私が4歳になる前に死んでしまった。
私は母親に甘えられなかったうえに父親もほとんどいない子供生活だった。とはいえ、それを当たり前として過ごしてきたから、ことさら寂しいと思ったことはないけれど。
でも、今でも思い出す。
学校から帰り、家でひとりでいるときのなんとなくジクジクした気持ち。
いつも2階の窓からゲートを見ていた。
そして氷丸が帰ってくる。
うれしかった。玄関まで出迎えて、氷丸が笑いかけてくれるのが楽しみだった。
氷丸はいつも……あ、そうだ。
「ねえモエ。氷丸は?」
「氷丸様? さあ」
「さあって。どこ行ったの?」
「知りませんよ。大学なんじゃないですか?」
「大学なの? 土曜は履修してなかったと思うけど」
「だから知りませんって」
もう、頼りにならないんだから。
氷丸は去年大学を卒業した後、大学院に進学している。
仕事と並行して修士を取るのは大変だろうけど、博士まで取る気でいるようだ。
「そうだ、伝えとくね。私もうすぐひとり暮らしするから」
「まあ、なにをおっしゃって」
「本当だもん。だけど近くに住むから、モエご飯作りに来てね。あとお掃除も」
「まあ、冗談ばっかり」
もう、信じてない。いいや、具体的な話はマンションが決まってからで。
そのとき、ハルトが花を抱えてダイニングに入ってきた。
モエと同年代だけど、毎日庭仕事をしているおかげでよく日に焼けて、背筋の伸びた優しいおじちゃんだ。
「わ、もう秋バラ咲いたの?」
「ええ、
「うれしいな。私、こういう花びらふわふわの大好き。ね、私に飾らせて」
「おや、ありがとうございます。ではお願いします」
ニコニコのハルトから花を受け取り、私はデザインを考えた。花器はどうしようかな。
ダイニングテーブルの卓上花が変わると、氷丸は必ずコメントする。
私がアレンジしたのよって言ったら氷丸は……あ、そうだ。
「ねえハルト。氷丸は?」
「氷丸様? さあ」
「もう。ハルトも知らないの?」
「申し訳ありません。お車はありましたけどね」
「あ、車あるんだ」
そっか、電車で出かけたのか。ということはやっぱり大学? それともどっか遊びに?
どこ行ったのよ、まったく。
「ねえ、ハルト聞いて。氷丸のやつ、昨日すごく失礼だったの」
「おやそうですか。しかしそんな言葉、使うものじゃありませんよ」
「いいの、氷丸が悪いんだから。頭に来たから蹴飛ばしてやったんだ」
「元気のいいことで」
「ねえハルト、私もうすぐひとり暮らしするの。近くだから、庭の花が咲いたら持ってきてね」
「おや、面白いことを」
「本当だもん。あと服とかも。全部は持っていけないだろうから必要なとき届けてね」
「姫様がライエを出てしまったら、ハルトは寂しくて病気になってしまいます」
「わがまま言わないで。私、もう子供じゃないのよ。自立するんだから」
モエとハルトは苦笑していた。信じてないんだから、もう。
夕食の時間になっても氷丸は帰らなかった。
私はひとりで食事をしながら、怒りが徐々に不安に変わっていくのを感じていた。
氷丸遅いね、とモエに話しかけてみたけど「そうですねえ」と気のない返事。
私は昨日の氷丸を思い出していた。
なんだかいやな感じがする。
やっぱり昨日の氷丸は変だった。
私にはわかる。氷丸はいつもの氷丸じゃない。なにかあったのだ、きっと。
22時を過ぎたころ、父さまが帰ってきた。
いつもは出迎えたりしないけど、氷丸が一緒かどうか確かめたくて、部屋を出て階段の上で待ってみた。でも、やっぱり氷丸は一緒じゃなかった。
「氷丸は?」
「出かけてるのか?」
「うん。一緒じゃなかったの?」
「ああ」
父さまはいつもの父さまだった。さっさと自分の部屋に入ろうとする。
「ねえ、どこに行ったか知らない?」
「知らんな」
「心配じゃないの? もうこんな時間だよ」
「子供じゃあるまいし。なにを心配しろって言うんだ」
父さまはそれだけ言うと部屋に入ってしまった。
もう、なんて冷たいんだろう。冷血オヤジ!
しかたなくしばらく部屋の中をウロウロしていたけど、胸のザワザワは大きくなるばかりだ。
いたたまれなくて、部屋を出て氷丸の部屋に向かった。
いないことはわかっていたけど……ほかにどうしようもない。
2階には似た作りの部屋が4室並んでいる。
家族の私室と客室で、私の部屋は廊下の端にある。氷丸の部屋は一部屋挟んで角部屋から2番目。
いつもの通り、鍵はかかっていない。
ドアを開けると真っ暗で、それだけで不安が倍増した。
正面にある大きな出窓はカーテンが引いていない。
暗い部屋からだと星空が美しい。私は窓に近づいて空を眺めた。
よく晴れた藍色の空。雲が半月を少し隠し、風が庭の木を揺らしている。
なんだか泣きたくなってきた。こんなことで泣くなんて、ばかばかしいとわかってはいたけれど。
灯りをつけないまま、私は氷丸の部屋の窓から星空を見ていた。
窓ガラスに映る女の子は、涙をこらえているような顔だ。
その顔を見たくなくて、私は窓を開けた。
風が吹き付ける。濡れた目のあたりが痛いくらい冷たい。
秋、なんだ。
氷丸は秋が好きだった。
「木が色づくのを見ると、厳かな気持ちになるのですよ」
唐突に彼の言葉を思い出した。
「同じ木に葉をつけてもひとつとして同じ紅葉はない。葉をつけた位置、太陽を受ける角度。風のあたり方やそのときの運でその葉の命は決まってしまう。そんなことを考えると、思ってしまうんです。人が持つそれぞれの資質や努力も、大きな力に決められただけのものかもしれない、とね」
私にはそのとき氷丸がなにを言いたいのかわからなかった。今でもわからない。
「だから明日もやらなければならない、と思うのですよ」
たしかそんな言葉で終わったと思う。
氷丸は時々、自分だけしゃべって自分で完結してしまうことがあった。
そんなときはなにを聞いてもよくわからないので、ただしゃべらせておいた。
氷丸は、落ち葉を眺めて「掃除が大変だ」とつぶやいていたっけ。
あれはいつのことだったろう。
氷丸のように頭のいい人は大変だと思う。
ほかの人が気づかないこと、感じなくていいことまで感じてしまい、苦しむことも多いだろう。
気づかない方が幸せなことだって世の中にはたくさんあるのに。
だけど氷丸はそんな感情を理屈で押さえつけられる人だ。
すべての感情に理由と名前を付けてしまいこめる人だ。そしてその感情に基づいた行動をとって解決できる人……だそうだ。
「氷丸は頭がいいから、いろいろ感じて大変だね」と気遣った私に自分でそう言っていた。だから間違いない。
でもだからこそ、今の自分や生活にネガティヴな見極めをつけてしまえば……その場から去る、という行動をとってしまうかも。
ううん、そんなことない! どうかしてる!
首を振ってその考えを否定した。
どうしてこんなことを考えるんだろう。
全部氷丸が悪いんだ。車を置いて出て行ったりするから。私になにも言わないで出て行ったりするから。
肌寒くなり、私は窓を閉めた。
暗さに心細くなり、私は部屋の照明をつけた。
ぐるりと見渡してみる。
相変わらずきちんと片付いている。生活感がないくらいに。
マホガニー製の重厚なライティングビューローは私の部屋と同じもの。キャビネットの扉を倒すとデスクになり、なにかのテキストとシートが載っている。ブックシェルフには本がぎっしり並べられていて、昔はいつ覗いてもここに座って勉強していた。だけど最近は、となりに置かれたパソコンデスクに向かっていることの方が多い。
部屋の真ん中には小さなリビングセット。
昨日、氷丸はこのソファーに座って泣いているように見えた。
気を失ったなんて言っていたけど、やっぱり本当は泣いていたのかもしれない。少なくとも泣きたい気分だったに違いない。
ライティングデスクを見てドキンとした。
急いでデスクに近寄ってみる。
あれは、……やっぱりそうだ!
いつもはクローゼットの奥にしまってある銀色のレザーケース。
氷丸はこのケースをいつも大切にしまってあった。こんな、出しっぱなしでどこかに行くなんて。
恐る恐るケースを開けてみる。
そしてその中には……「氷丸」がしまわれていた。氷丸がなにより大事にしている水色の透明な石。
私はそれをつかんで走り出した。