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第7話

「父さま!」

「な、なんだ? どうした!」

私はぎょくのケースを握りしめて父さまの部屋に駆け込んだ。

必死の形相と叫び声。

ただごとではない、と父さまも思わずバスローブのまま駆け寄ってきた。


「こ、氷丸こおりまるが!」


のどが詰まって声がうまく出ない。手がブルブル震える。


「氷丸がどうした!?」

「こ、氷丸が……ある」

「……」


父さまは私がなにを言いたいかわからないようだった。

私もうまく伝わっていないことはわかっていたけど、どうしたらいいかわからなかった。


「なんだって?」

「だ、だから! 氷丸が、氷丸をおいて……出て行っちゃった」


涙があふれ、私は手に持った氷丸のケースを父さまに差し出した。

父さまは受け取ってケースを開けた。

氷丸を手に取り、不審そうに光にかざし……異常なし、と言いたげに眉を寄せて私に振り返った。


「で? なんだっていうんだ?」

「だって! だって、氷丸が氷丸をおいていくなんて!」

「ばかばかしい。単において出かけただけだろう。なにを泣くことがある」

父さまは不機嫌そうに玉をしまった。


わかってない。なんにもわかってない!


「そうじゃない! 氷丸、変だったもの、昨日から!」

父さまは眉をひそめた。

「変? なにが」

「なにって……なんとなく」

「なにか言っていたか?」

「2日寝てないって」

「……だからなんだって言うんだ? くだらないことで騒いでないでさっさと寝ろ!」

「く、くだらないこと? 父さまにとっては氷丸が帰ってこないことなんて、くだらないことにすぎないの?」

「宿題したのか?」

私は父さまの手からケースをひったくって部屋を飛び出した。


きっとそうなのだ。父さまにとってはくだらないことに過ぎないのだ。

氷丸がどんなに父さまを慕っていても、その気持ちがきちんと通じてはいない。

だから氷丸は出て行ってしまった。私をおいて。氷丸を捨てて。


部屋に戻り、声をあげて泣いた。

涙は止まらず、次第に頭がズキズキしてきた。でも頭痛がひどくなっても氷丸はいない。

ますます悲しくなって泣きながらアスピリンを飲んだ。


氷丸がいない。それが、こんなにも自分を打ちのめすことだったなんて。


痛む頭を抱え、なんとか歯を磨いて寝間着に着替える。

そして氷丸をケースから出して、一緒にベッドに入った。


きっと明日になれば、父さまも事の重大さがわかるはずだ。

そのとき慌てたってもう遅い。氷丸は行ってしまったのだ。


氷丸がついたリングを左手中指にはめてみる。ブカブカだった。


私は氷丸を抱きしめたまま目をつぶった。頭が痛くて目が開けていられない。胃のあたりにビニールを飲み込んだような異物感がある。


そのまま私は泣き寝入りした。



翌日、日曜の朝。

目が覚めて真っ先に氷丸の部屋を覗いた。だけど空っぽだった。


無断外泊……


今までだってなかったわけじゃない。……と思う。

それにもしかしたら、夜中に父さまには連絡があったかも。


時計を見ると6時40分。

父さまは休みの日にいつもより早く出かけることがあるから、先に捕まえなきゃ。


父さまの部屋を覗いてみると、こっちも空っぽ。もう、行動早すぎ!

部屋を出ると、ちょうど父さまがダイニングを出て玄関に向かっていく姿が見えた。


「父さま、待って!」

父さまは振り向いた。

「氷丸から連絡あった?」

階段を駆け下りると父さまは顔をしかめた。

「なんだ、その恰好! 寝間着でウロウロするんじゃない! みっともない!」

「え、あ」

「まったく。氷丸のことなんかほっとけ。疲れていたんだ、どこかで寝落ちしたんだろう。連絡が来たら伝えるからおとなしく待ってろ」

「あ、うん」


いろいろ言いたいことはあったけど、寝間着姿を怒られたことに動揺してなにも言えなかった。


連絡なかったんだ。……きっともうだめだ。

氷丸をおいていくくらいだもの。第四代氷丸を辞める決心で出て行ったに決まってる。

ライエは見捨てられた。私は見捨てられたんだ。


今日は日曜。本当は学校へもっていくハンドクリームを買いに行く予定だったけど、とてもそんな気分になれなかった。あとでハルトに頼めばいいや。


家にいれば氷丸が帰ってくるかもしれない。帰ってこなくても連絡ぐらいあるかもしれない。

かすかな望みを胸にゴロゴロしていると、モエが様子を見に来た。

「姫様、いつまで寝ているんです。朝食が片付かないでしょう」

「気分が悪いの。朝食要らない」

モエは呆れた顔をした。

「氷丸様ですか? 心配いりませんって。外泊なさったようですけど、ほっとけと炎丸様もおっしゃっていたじゃないですか」

「ひどい。父さまは冷たいのよ。なにもわかってない」

涙声になってしまった。

「まあまあ、可哀そうに。じゃあ、飲み物とヨーグルトでも持ってきましょうか? オレンジ? アップル?」

「グレープフルーツ」


モエはグレープフルーツジュースととっておきの蜂蜜を入れたヨーグルトを持ってきてくれた。

ベッドの中でモソモソと朝食をとった。

こんなに落ち込んでいて食欲もなかったのに、食べてみると美味しいのが情けない。お代わりしたい衝動をグッとこらえた。

この蜂蜜も、氷丸が外国に行ったときにお土産に買ってきてくれたものだ。現地で食べて、あまりのおいしさに感動したと言っていた。


氷丸は今頃どうしているだろう。


普段だったら早朝に起きて、敷地内にあるトレーニングルームで武道の修練をする。

継承者はみんななにかしらの武道を身に着けていて、氷丸は合気道の達人だ。

合気道は護身術にもいいとのことで、氷丸は私にも教えようとしてきたことがあったけど、少しやってみてすぐにいやになった。難しすぎ。


私は合気道を習うことを拒否した。

「私、合気道向いてないみたい。もうやんない」

「結論を出すのが早すぎます。せめて護身術の基礎くらい身につけましょう。あなたはライエの娘なのですよ。常に誘拐の危険があるのはわかるでしょう」

「もう。だからいやなのよ、こんな家。好きで金持ちに生まれたわけじゃないのに、なんで危ない目に合わなきゃいけないの?」

「そんなことを言っても始まりません。最低限、自分の身を守る努力をしていただかないと」


言い合っていると、珍しく父さまが私側についたっけ。

「ユーナに護身術なんていらん。常に防犯意識を高くして、叫んで逃げる練習だけすればいい」

「そうは言っても」

「へたに武道をかじって、相手に向かっていくようにでもなったらどうする。危険が増すだけだ。女は自分が弱いと知っていて、怖がりなくらいがちょうどいい」

「そうよね、私が危ない目に合わないように守るのが氷丸の仕事でしょ」

「そういうことだ」


というわけで、氷丸は私がプチ家出をしてもちゃんと迎えに来る。

どうやって探し出すのかは謎なんだけど。テレパシーでも使えるのかな?


朝練の後は7時に朝食。基本的に父さまと氷丸と3人でとる。

父さまは8時過ぎには家を出るけど、氷丸は大学に行くか仕事に行くかで出る時間が違う。それでも8時半頃まで新聞を読んだりコーヒーを飲んだりしているらしい。


私は7時50分に家を出るので朝食をとった後はあわただしい。とはいえ、実は学校がすぐ近くで徒歩10分。友達からはうらやましがられている。

系列の幼稚園から小中高一貫の私立お嬢様学校で、ライエの娘たちは代々ここに通うことになっているらしい。


でも天気の悪い日や体調がすぐれないとき、10分歩くというのは結構しんどい。身支度が遅くなったときや女の子の日は氷丸に車で送ってもらう。


そうだ。もう、遅くなったときも送ってくれる人はいないのだ。このままでは遅刻してしまう。氷丸のばか! ばかばか!


悲しいだけでなく、日常生活におけるさまざまな不自由が浮かんできて私は青ざめた。


ひどい。私がこんなに困るのに、自分勝手すぎる。なんか腹たってきた!


私はじっと空になったヨーグルトの器を見つめた。

蜂蜜、全部食べちゃおうかな。もう氷丸に気を遣わなくていいんだから。


でも……考えてみればみるほどおかしい。

私がこんなに困ることを知っているのに、なにも言わずに出ていくなんて。

やっぱりよほどのことがあったんだ。なにもかも放り出してしまいたくなるほどのつらいことが。

いったいなにがあったんだろう……


可哀そうな氷丸。誰も氷丸の気持ちをわかってくれない。

可哀そうな私。誰も私の気持ちをわかってくれない。


悲しい気持ちのまま、私は日曜日をゴロゴロして過ごした。

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