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第6話 窓越しの父さま

ゴールデンウィークを目の前にして、風はもう初夏の訪れを告げていた。


もうすぐ3時間目が終わろうというころ、廊下に呼ばれ、行ってみると青い顔をしたハルトが立っていた。


出張先で事故に巻き込まれ、父さまが重体だと言う。


「近くの病院へ運ばれたそうです。すぐに行きましょう」




わけがわからなかった。


まわりがなにか話しかけてきたけど耳に入らない。


父さまが死ぬかもしれない。


事態が飲み込めず、なんの感情もわかない。


私はハルトに手を引かれてタクシーに乗り込んだ。

ハルトの手はじっとりと汗ばんでいた。


シートに身を沈め、スカートのすそを伸ばす。

涙も出なかった。


「姫様、大丈夫ですか?」


小さくしわがれた声だった。


泣いているのかと思ってそっと顔をうかがうと、泣いてはいなかった。


「うん……」


うなずくと、ハルトもうなずいた。


「氷丸は?」


「先に病院へ向かわれました」


氷丸のことを考えていたわけじゃないのに、自然と口に出た。

氷丸は? と聞くのが習慣になっているらしい。


私はもう一度スカートのすそを伸ばした。


タクシーは高速道路に乗ろうとしていた。




2時間ほど走り、車は病院へ着いた。


ハルトに急かされながら車を降りたけど、手も足も膜に包まれたように重く、うまく動かせない。


救急病院の中は、あわただしく切羽詰まった匂いに満ちていた。


受付で話すハルトの後ろ姿を見ていると、次第に心臓がドクドクと波打ち始めた。


この建物のどこかに、父さまはいるのだ。


「姫様、こっちです。今手術中だそうです」


胸がキュッと痛くなる。


ハルトは速足で歩き始めている。

後を追おうとしたけどうまく歩けない。


振り向いたハルトが戻ってきて、私の手を引いて歩きだした。


まるで赤ちゃんみたいだ。


通路を曲がると、日差しが目に飛び込んできた。


窓下のベンチに氷丸が座っている。


ひざにひじを付き、顔を覆っていた。


「氷丸様!」


ハルトが駆け寄って声をかけると、半分だけ手を放してこっちを見た。


涙で顔中が濡れていた。

右手にハンカチを握りしめている。目が真っ赤だ。


「う……」


氷丸はうめくようになにか言いかけたけど、声にならなかった。


目が合った瞬間、氷丸は顔を覆って激しく嗚咽した。


近寄ることができなかった。


怖かった。


私はそのとき、怖くて氷丸に近寄れなかった。


私の足は根が生えたようにその場から動くことができなかった。


「手術中」のランプがぼんやり光っている。


今、この中に父さまがいるのだ。


氷丸は泣き続けている。


……小さくて、子供みたい。


私はゆっくりと氷丸に近づき、横に座った。


足に手を置いてそっとなでる。


可哀そうで、なんとか慰めてあげたかった。


私自身はこの状況にまったく実感がわかず、体中ぼんやりしていたけど「悲しい」という状態ではない。


いつまでも泣き続ける氷丸が可哀そうで、力づけてあげたかった。


でも、氷丸は泣き止まなかった。




どれくらい時間がたっただろう。


手術が終わり、父さまはICUに移動した。


私たちも家族控室へ案内された。


控室に入る前に、窓越しにICUの中の様子を見せてもらった。


父さまは身体にいろいろな機械をつながれている。


氷丸は窓に張り付き、泣きながら炎丸様、とつぶやいた。


現実のこととは思えない。


違う世界の出来事のようだ。


薄暗い空間の中、父さまは身体からたくさんのつるをはやした生き物のよう。


緑や赤の光があちこちに点滅し、父さまをオレンジ色に照らしている……




家族控室で、私はハルトに隅のベンチに追いやられた。


そこで少しお待ちを、とぶどうの缶ジュースを渡される。


ハルトと氷丸は、体の大きなドクターとソファーセットで向かい合った。


ひそひそと話をしている。

ハルトは何度もうなずき、氷丸はまた顔を覆った。


ふたりとも震えている。

氷丸の押し殺した泣き声がここまで聞こえてくる。


どうしたのだろう。


もしかしたら、とても悪いのだろうか。

手術はうまくいかなかったのだろうか。


缶ジュースを握りしめたまま、私はその様子を見ていた。


やがてドクターが立ち上がり、ハルトは立ち上がってドクターに頭を下げた。


ドクターが出て行っても氷丸はソファーから立ち上がらなかった。


ハルトはもう一度座り、氷丸になにか話しかけている。


やがて氷丸はゆっくりと顔を上げ、深く息をついた。


ずっと握りしめていたハンカチで、乱暴に顔を拭いている。


ハルトはうなずき、立ち上がって私に近寄ってきた。


「姫様、ここで氷丸様とお待ちください。私は家の方に連絡してきますので」


私は黙ったままうなずいた。


「どうぞ、氷丸様のとなりへ」


そう言われたけど。


私は首を振った。


怖くて動けなかった。


「手術は成功したのですよ。心配ありません」


「!……」


「氷丸様が詳しいことをお話ししてくださいますので。どうぞ……」


そう言われても動けなかった。


ハルトは小さくため息をつき、離れて行った。


氷丸に近づき、小声で話しかけている。


氷丸がこっちを見た気配がしたけど、私は顔を伏せて目を合わせないようにした。


手の中の缶ジュースがすっかり温くなっている。


どうしよう、これ……


鼻をかむ音がして、私は驚いて顔を上げた。


ドア横の洗面台の前で、氷丸が鼻をかんでいる。めったに見ない姿だ。


いつ見たっけ? たしか去年、風邪気味のとき? いや、お風呂あがりにかんでいるのもみたような……


ティッシュを捨てて手を洗うと、氷丸はゆっくりと近づいてきた。


静かに私のとなりに座る。


氷丸は落ち着いていた。


さっきまでの混乱がうそのように鎮まり、まるでいつもの氷丸のようだった。


「姫様」


「!」


「驚かれたでしょう。……大丈夫ですか?」


「……」


私はうなずいた。


「手術は無事終わったそうです。命に別状もありません。炎丸様は驚異的な体力と気力の持ち主ですから……大丈夫。すぐに元気になりますよ」


「……」


なんだか空々しく聞こえた。


あんなに身体からコードが生えていたのに、「すぐに元気になる」? ……信じられない。


「ただ……」


「父さま死んじゃうの?」


言葉が飛び出てしまった。


さっきからずっと、のどの手前まで出かかっていた言葉が。


いつもの氷丸に戻った彼がそばにいると、もう押さえていられなかった。


「ひめさ……」


「父さま死んじゃうの? ねえ、どうなの? 父さま、本当に、本当に……!」


「姫様、姫様、大丈夫ですよ。炎丸様は死んだりしません。手術は成功したんです。心配いらないですよ」


「うそ! だって、だってあんなにコードが! か、身体中……!」


氷丸は私を引き寄せ、強く抱きしめた。


「いや!」


言葉がどんどんあふれてきて、不安がどんどん言葉になってあふれてきて、私は氷丸を引きはがしてしゃべろうとした。


「だって、あんなに、あんなに包帯が! 身体中! だって!」


氷丸は立ち上がり、引きはがそうとする私を抱き寄せて強く押さえつけた。


引きずられるようにして立ち上がり、なおもしゃべろうとする私を両腕でしっかり抱きしめ「大丈夫、大丈夫ですよ」と繰り返した。


その胸に抱かれていると、懐かしさと安心感で気が緩み、胸の奥から涙が込み上げてきた。


氷丸に抱かれながら、私は初めて涙が出た。


もう止められなかった。


私は氷丸にしがみついて、声をあげて泣いた。


氷丸は私をしっかり抱いて、頭をなでていた。


私は涙が枯れるまで泣いた。


大きな手が、ずっと頭をなでてくれていた。




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