ゴールデンウィークを目の前にして、風はもう初夏の訪れを告げていた。
もうすぐ3時間目が終わろうというころ、廊下に呼ばれ、行ってみると青い顔をしたハルトが立っていた。
出張先で事故に巻き込まれ、父さまが重体だと言う。
「近くの病院へ運ばれたそうです。すぐに行きましょう」
わけがわからなかった。
まわりがなにか話しかけてきたけど耳に入らない。
父さまが死ぬかもしれない。
事態が飲み込めず、なんの感情もわかない。
私はハルトに手を引かれてタクシーに乗り込んだ。
ハルトの手はじっとりと汗ばんでいた。
シートに身を沈め、スカートのすそを伸ばす。
涙も出なかった。
「姫様、大丈夫ですか?」
小さくしわがれた声だった。
泣いているのかと思ってそっと顔をうかがうと、泣いてはいなかった。
「うん……」
うなずくと、ハルトもうなずいた。
「氷丸は?」
「先に病院へ向かわれました」
氷丸のことを考えていたわけじゃないのに、自然と口に出た。
氷丸は? と聞くのが習慣になっているらしい。
私はもう一度スカートのすそを伸ばした。
タクシーは高速道路に乗ろうとしていた。
2時間ほど走り、車は病院へ着いた。
ハルトに急かされながら車を降りたけど、手も足も膜に包まれたように重く、うまく動かせない。
救急病院の中は、あわただしく切羽詰まった匂いに満ちていた。
受付で話すハルトの後ろ姿を見ていると、次第に心臓がドクドクと波打ち始めた。
この建物のどこかに、父さまはいるのだ。
「姫様、こっちです。今手術中だそうです」
胸がキュッと痛くなる。
ハルトは速足で歩き始めている。
後を追おうとしたけどうまく歩けない。
振り向いたハルトが戻ってきて、私の手を引いて歩きだした。
まるで赤ちゃんみたいだ。
通路を曲がると、日差しが目に飛び込んできた。
窓下のベンチに氷丸が座っている。
ひざにひじを付き、顔を覆っていた。
「氷丸様!」
ハルトが駆け寄って声をかけると、半分だけ手を放してこっちを見た。
涙で顔中が濡れていた。
右手にハンカチを握りしめている。目が真っ赤だ。
「う……」
氷丸はうめくようになにか言いかけたけど、声にならなかった。
目が合った瞬間、氷丸は顔を覆って激しく嗚咽した。
近寄ることができなかった。
怖かった。
私はそのとき、怖くて氷丸に近寄れなかった。
私の足は根が生えたようにその場から動くことができなかった。
「手術中」のランプがぼんやり光っている。
今、この中に父さまがいるのだ。
氷丸は泣き続けている。
……小さくて、子供みたい。
私はゆっくりと氷丸に近づき、横に座った。
足に手を置いてそっとなでる。
可哀そうで、なんとか慰めてあげたかった。
私自身はこの状況にまったく実感がわかず、体中ぼんやりしていたけど「悲しい」という状態ではない。
いつまでも泣き続ける氷丸が可哀そうで、力づけてあげたかった。
でも、氷丸は泣き止まなかった。
どれくらい時間がたっただろう。
手術が終わり、父さまはICUに移動した。
私たちも家族控室へ案内された。
控室に入る前に、窓越しにICUの中の様子を見せてもらった。
父さまは身体にいろいろな機械をつながれている。
氷丸は窓に張り付き、泣きながら炎丸様、とつぶやいた。
現実のこととは思えない。
違う世界の出来事のようだ。
薄暗い空間の中、父さまは身体からたくさんのつるをはやした生き物のよう。
緑や赤の光があちこちに点滅し、父さまをオレンジ色に照らしている……
家族控室で、私はハルトに隅のベンチに追いやられた。
そこで少しお待ちを、とぶどうの缶ジュースを渡される。
ハルトと氷丸は、体の大きなドクターとソファーセットで向かい合った。
ひそひそと話をしている。
ハルトは何度もうなずき、氷丸はまた顔を覆った。
ふたりとも震えている。
氷丸の押し殺した泣き声がここまで聞こえてくる。
どうしたのだろう。
もしかしたら、とても悪いのだろうか。
手術はうまくいかなかったのだろうか。
缶ジュースを握りしめたまま、私はその様子を見ていた。
やがてドクターが立ち上がり、ハルトは立ち上がってドクターに頭を下げた。
ドクターが出て行っても氷丸はソファーから立ち上がらなかった。
ハルトはもう一度座り、氷丸になにか話しかけている。
やがて氷丸はゆっくりと顔を上げ、深く息をついた。
ずっと握りしめていたハンカチで、乱暴に顔を拭いている。
ハルトはうなずき、立ち上がって私に近寄ってきた。
「姫様、ここで氷丸様とお待ちください。私は家の方に連絡してきますので」
私は黙ったままうなずいた。
「どうぞ、氷丸様のとなりへ」
そう言われたけど。
私は首を振った。
怖くて動けなかった。
「手術は成功したのですよ。心配ありません」
「!……」
「氷丸様が詳しいことをお話ししてくださいますので。どうぞ……」
そう言われても動けなかった。
ハルトは小さくため息をつき、離れて行った。
氷丸に近づき、小声で話しかけている。
氷丸がこっちを見た気配がしたけど、私は顔を伏せて目を合わせないようにした。
手の中の缶ジュースがすっかり温くなっている。
どうしよう、これ……
鼻をかむ音がして、私は驚いて顔を上げた。
ドア横の洗面台の前で、氷丸が鼻をかんでいる。めったに見ない姿だ。
いつ見たっけ? たしか去年、風邪気味のとき? いや、お風呂あがりにかんでいるのもみたような……
ティッシュを捨てて手を洗うと、氷丸はゆっくりと近づいてきた。
静かに私のとなりに座る。
氷丸は落ち着いていた。
さっきまでの混乱がうそのように鎮まり、まるでいつもの氷丸のようだった。
「姫様」
「!」
「驚かれたでしょう。……大丈夫ですか?」
「……」
私はうなずいた。
「手術は無事終わったそうです。命に別状もありません。炎丸様は驚異的な体力と気力の持ち主ですから……大丈夫。すぐに元気になりますよ」
「……」
なんだか空々しく聞こえた。
あんなに身体からコードが生えていたのに、「すぐに元気になる」? ……信じられない。
「ただ……」
「父さま死んじゃうの?」
言葉が飛び出てしまった。
さっきからずっと、のどの手前まで出かかっていた言葉が。
いつもの氷丸に戻った彼がそばにいると、もう押さえていられなかった。
「ひめさ……」
「父さま死んじゃうの? ねえ、どうなの? 父さま、本当に、本当に……!」
「姫様、姫様、大丈夫ですよ。炎丸様は死んだりしません。手術は成功したんです。心配いらないですよ」
「うそ! だって、だってあんなにコードが! か、身体中……!」
氷丸は私を引き寄せ、強く抱きしめた。
「いや!」
言葉がどんどんあふれてきて、不安がどんどん言葉になってあふれてきて、私は氷丸を引きはがしてしゃべろうとした。
「だって、あんなに、あんなに包帯が! 身体中! だって!」
氷丸は立ち上がり、引きはがそうとする私を抱き寄せて強く押さえつけた。
引きずられるようにして立ち上がり、なおもしゃべろうとする私を両腕でしっかり抱きしめ「大丈夫、大丈夫ですよ」と繰り返した。
その胸に抱かれていると、懐かしさと安心感で気が緩み、胸の奥から涙が込み上げてきた。
氷丸に抱かれながら、私は初めて涙が出た。
もう止められなかった。
私は氷丸にしがみついて、声をあげて泣いた。
氷丸は私をしっかり抱いて、頭をなでていた。
私は涙が枯れるまで泣いた。
大きな手が、ずっと頭をなでてくれていた。