氷丸の胸で泣き疲れ、私はぼんやりしていた。
目の前のネクタイが、私の涙で染みができている。
「大丈夫。炎丸様は死んだりしません。大丈夫ですよ」
「……本当?」
「本当です」
「本当? ……うそ?」
「本当です。俺が本当だと言って、本当じゃなかったことがありますか?」
「……」
考えていると「だから本当なんです」と勝手に返事をされた。
「炎丸様は大丈夫ですよ」
私はようやくうなずいた。
そこまで言うなら大丈夫なんだろうという気がしたから。
「ただ……けががひどいので、当分入院することになります。姫様も寂しいでしょうが、しばらくは我慢なさってください」
私はもう一度うなずいた。
氷丸もうなずき、安心したように大きく息をついて腕を放し、私の顔をのぞきこんだ。
そして上着のポケットからハンカチを出し、私の顔と鼻を拭いた。
ハンカチはしっとりと湿っていて、氷丸の匂いがした。
顔を拭くともう一度私を椅子に座らせ、私の頭をなでた。
私の頭はボサボサになっていたらしく、氷丸は私の顔を向こうに向けさせ、バレッタを外して指で髪をすき、もう一度まとめて留めた。
ありがとう、と言うと少し笑った。
不意に氷丸がかがんだ。
そして、足元からぶどうの缶ジュースを拾ってくれた。
いつのまにか落としていたんだ。
ぶどう味は私が一番好きな味だ。
そういえば喉が渇いた。
「飲む」
「これはぬるいですよ。そこに自動販売機があるので新しいのを買いましょう。なにがいいですか?」
なんだか安心して、飲み物を選ぼうとふたりで立ち上がったとき。
ハルトが帰ってきた。
「氷丸様」
氷丸は私に財布を渡し、ハルトに近寄った。
ハルトは少し息を切らせている。
「本部が大変なことになっているようです。警察も事情を聞きに来ているそうで、家の方にも問い合わせがひっきりなしで」
氷丸は顔を曇らせ、大きくため息をついた。
「事故のことやら、今日するはずだった契約のことやら……なにやら、とても重要な契約だそうですね。先方様が今日中に結論を出さないとまずい、なんとかしろと息巻いているそうで」
「なにを……! こんなときに!」
「とにかく、なんとかしなければ」
「この契約は炎丸様が進めていたものだ。俺も詳しいことは分からないし、俺の判断で勝手にどうこうすることはできない!」
「とりあえず、先方にご説明を」
「でも……! 俺は……」
氷丸は頭を振ってきつく目を閉じた。
声が上ずっている。
「ここは大丈夫ですから、先方の対応をなさってください。もう、夕方になりますし、あちらがお待ちですし、急いでいらっしゃるので」
氷丸は首を振って顔をゆがめた。
「炎丸様がこんなときに! 俺は……炎丸様のそばを離れたくない……」
「氷丸様……!」
氷丸はハルトに背を向け、腕を組んで目を伏せた。
私は落ち着きかけた気持ちがまたザワザワしてきた。
「お気持ちはわかりますが、どうか」
「……」
「氷丸様」
「だめだ」
「こお……」
「自信がない……」
氷丸は強く唇をかんだ。
「難しい契約なんだ。先方だけでなく、ライエにとっても今後の運営に大きな影響を与える契約なんだ」
「そ、それならばなおさら……」
「それを……俺が対応するなんて。俺には無理だ。……俺には」
震えていた。
声も泣き声になっていた。
氷丸はまた、さっきの可哀そうな氷丸に戻ってしまっていた。
胸が痛い。息が苦しい。
こんな、こんな不安そうな、自信なさそうな氷丸は氷丸じゃない。
氷丸は、私の氷丸はいつも強くて、冷静で、自信たっぷりで……
こんなの違う。私の氷丸じゃない。
こんな氷丸じゃ安心できない。甘えられない。
また涙があふれてきた。
そのとき。
ハルトが見たこともない形相で氷丸に声を上げた。
「無理でもなんでもあなたがやっていただかなくては! 炎丸様の代理に立てるのは、玉の継承者であるあなたしかいないのですから! 第四代氷丸様、あなたしかいないのですよ!」
氷丸の肩がビクン、と揺れた。
私もビクン、とした。
ハルトが、ハルトじゃないみたいだ。
いつもの優しいおじいちゃんじゃない。
みんなおかしくなっていく。みんな、みんないつものみんなと違う。
果てしない不安と恐怖が広がっていく。
喉から震えが上がってきて、涙がこぼれた。歯がガチガチ震えた。
私が泣き出したのに気づき、氷丸がこっちを見た。
私は目を伏せ、泣くまいとこらえた。
でも涙はポトポト落ちて止まらない。
泣いている私を氷丸はじっと見ている。
目は合わなかったけど、氷丸はずっと私を見ていた。
その視線を痛いほど感じた。
我慢しなくちゃ、と思ったけど、洟をすする音が響いてしまった。
氷丸が腕をほどいたのが、視界の隅に映る。
そして……
「わかった。……行ってくる」
ゆっくりとそう言った。
そっと様子をうかがうと、氷丸は苦しそうな顔でハルトに対していた。
ハルトはうなずいて氷丸に頭を下げた。
ハルトの目も潤んでいた。
氷丸はドア横にある洗面台に向かい、上着を脱いで顔を洗った。何度も何度も。
ハルトは氷丸の上着を受け取って、潤んだ目で氷丸を見つめていた。
顔をハンカチで乱暴に拭き、手で髪をなでつける。
氷丸は鏡に映った自分の顔を怖い顔でにらみつけた。
切れ長のその目が、力を取り戻しつつある。
「ひどい顔だな」
そう言って彼は目をこすった。
さっきまで大泣きしていたせいで、赤く腫れあがっている。
「困りましたね……そうだ、これをお使いになったら?」
ハルトは自分のジャケットのポケットからサングラスを取り出した。
お天気の日に庭仕事でしている、グレーレンズのサングラス。
氷丸は受け取ってサングラスをかけた。
鼻はまだ赤かったけど、泣きはらしたまぶたは隠された。
「お似合いですねえ、氷丸様」
ハルトは少し明るい声を出した。
「ほら、姫様。どうですか?」
「……かっこいい」
私がそう答えると、氷丸は薄く笑った。
彼は鏡でサングラスをかけた自分の姿を確認し、たっぷり5秒はみつめた。
まんざらでもないらしい。
正直、本当にちょっとかっこよかった。
氷丸は振り向き、上着を受け取って袖を通した。
「ハルト、……姫様。炎丸様をお願いします」
張りのある声で氷丸は言った。
「わかりました。どうぞお気をつけて」
氷丸はうなずき、私に近寄ってきた。
胸がキュッとなる。
氷丸は手を出した。
ハッとして、私は握りしめていた財布を彼の手に載せた。
「がんばってね」
氷丸はうなずいた。
「行ってきます」
氷丸が遠ざかっていくのを、私たちは廊下で見守った。
氷丸は背筋をピンと伸ばし、いつものように大股で歩いていく。
その後ろ姿は、もういつもの氷丸だった。
私はハルトと手をつなぎ、その姿を見送った。
見えなくなるまで見送った。
「……大丈夫だよね」
「もちろん。氷丸様ですから」
「ハルト、さっきちょっと怖かったよ。私びっくりした」
「そうですか……いやあ」
「私……なんだか不思議な気持ち……」
「そうですか……」
「父さまも……きっと大丈夫だよね。氷丸がついてるんだもん」
「そうですよ。それに姫様もね。……炎丸様は大丈夫です。あの方は心身ともに超人的な強さをお持ちですから。こんなことで参ったりしませんよ」
「氷丸とおんなじこと言ってる」
「はは、そうですか。みんなそう思っているんですよ」
私はうなずいた。
「さあ、炎丸様のそばについていましょう。氷丸様のためにも、氷丸様の分までね。しっかり看病するんですよ、姫様」