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第9話 薫風

5月も終わりが近い。


特別室の窓からは、病院の道沿いに植えてある大きな木がたくさん見える。


前の病院も、窓から桜の木が見えた。事故直後は頼りない若葉だった。


でも、ここから見える桜の木はすっかり濃い緑になっている。


風は新緑の薫り。私の大好きな匂い。この薫りが、毎年思い出させてくれる。


もうじき氷丸の誕生日だ。




私はゴールデンウィーク中、病院に付きっ切りだった。


学校が始まってからは、週末と氷丸が夜来られる日に面会に来ている。

2時間かけて電車で来て、帰りは氷丸の車で帰る生活だ。


今日は日曜日。

私は昼前に病院へついた。


氷丸は仕事を済ませ、午後お見舞いに来るそうだ。


父さまはだいぶ顔色もよくなり、食事もとれるようになっている。


「おいしい?」


「まずい」


「もう、そんなこと言って。怒られるよ」


「誰に。試しにちょっと食べてみるか?」


「え、いいの?」


「だめだろうがばれなきゃいいんだ」


「じゃあ、こっそりね」


なんかオートミールみたいな野菜の煮物を口に入れてみた。


「まずうい」


「だろう」


私は一口でやめた。


「父さますごい。よく食べられるね」


「ああ」


父さまは舌が肥えているし、まずいものを食べるくらいなら食べないような人だから、さぞかしつらいだろう。


「食べなきゃ体力がつかないからな」


「可哀そう。私、モエが作ってくれたお弁当持ってるからちょっと食べる?」


「誘惑するな。回復食なんだ、いやでもこれを食べなきゃならんのだ」


「えらいね、文句も言わないで」


「えらいとか言うな。親に向かって」


私は笑ってしまった。


失礼して、私もお弁当を広げる。

モエお手製のキッシュ・ロレーヌ、野菜とうずらのミートローフ、かぼちゃのグラッセ。デザートにあんずとライチのコンポート。


美味しすぎる。


美味しいと言うと可哀そうなので、黙食。

でもきっと顔に出てる。


食べ終わったので、父さまの薬を準備して飲むのを確認。


続いてガーグルベースンと歯磨きセットを父さまに渡し、コップに水をくむ。


父さまが歯磨きしている間に私も歯を磨き、父さまの歯磨きの処理をする。


片付けていると、看護助手がやってきた。


見覚えのあるお姉さんだ。30代後半くらいだろうか。


「あら、お嬢さんいらしてたんですね」


「こんにちは」


「トレイをお下げしますね。お薬はもうお済みですか?」


「うむ」


もう、偉そうに。


代わりに私が頭を下げた。


「ありがとうございます」


「いいえ、こちらこそ」


にっこり微笑むと目じりのしわが目立つけど、きれいな人だ。


お姉さんが出て行ったあと、私は父さまに言ってみた。


「きれいな人だね。マスク取った顔が見てみたいな」


「そうだな」


「でも、年寄りみたいな手をしてた。もう少し手の手入れをすればもっと若々しく見えるのに。もったいないなあ」


「お前はなにもわかってないな」


「えっ?」


「世間知らずで困ったもんだ」


父さまが呆れたようにため息をついたので、私はちょっとむくれた。


悪口じゃないのに。美人なのにもったいないって思っただけだもん。


片付けが済むと、もうやることはない。


私はいつものようにデスクに向かい、勉強道具を広げた。


「宿題か」


「うん」


「わからないところがあったら聞きなさい」


「うん」


本当は宿題じゃないんだけど。


だけど、病室で付き添っていてもやることもなく、話すこともない。


勉強している姿を見せれば一番喜ぶだろうと思い、テスト前でもないのに宿題以外の勉強をしている。


これじゃ成績が上がっちゃう。


父さまに勉強を教わったことなんてなかったけど、試しに質問してみると的確に教えてくれる。

なんなら氷丸よりわかりやすいかもしれない。


それもそうか。


40年も継承者をやっているんだ。

何十人って学生にエデュケイションをしてきたんだもの。


氷丸もそうだし、たくさんの子供に勉強を教えてきたんだ。

自分の子供以外の子供に。


胸がキューッと締め付けられた。


私も父さまに勉強を教われるくらい、優秀な子供だったらよかったな。


そうしたら、父さまは私のことを世間知らずなんてばかにしないで愛してくれたかもしれないな。




父さまの夕食が済み、日が傾くころ、ようやく氷丸がやってきた。


「遅くなりました。いろいろゴタついていまして」


「無理して来ることないんだぞ。ユーナだって一人で帰れる。どうせろくに寝てないんだろう」


「プライベートな時間の使い方まで指示される覚えはありませんよ。それに、帰りに姫様とディナーの約束していますから」


そうだそうだ。モエにお休みをあげようって話になってるんだから。


「姫様、勉強がんばっているんですね」


「まあね」


「これじゃ成績が上がっちゃいますね」


読むな、人の心を。


「50位くらいになったら、内部進学はやめて少し上のランクの大学を目指してみてはどうですか? 受験するとなれば勉強のモチベーションが上がりますよ」


「えっ、やだやだ。受験なんてしたくないもん」


「はは、そうでしょうね」


氷丸が来ると急に場が明るくなる。父さまも嬉しそう。


「もう少し勉強していてください。炎丸様とお話があるので」


「はあい」


ふたりの間で難しい話が始まる。


もう勉強する気になれず、私はふたりの言葉を拾い聞きしてノートに落書きをしていた。


ポロポロ耳に入ってくる単語によると、ふたりは家の近くの病院へ転院を考えていて、候補の病院を検討しているようだ。


附属病院、きゅうせいき? 字がわからない。リハビリ、リフォーム、連合会、入院期間……気になる単語は書いておいて、後で氷丸に確認しよう。


私だって父さまの治療や病院のことは知りたい。

役には立てなくても知っておきたい。


父さまが声を潜めたので、勉強しいてるふりで耳をそばだたせる。


「あんまり強引なことをするな」


「いや、ちょうどキャンセルが出たそうです。運がよかったですね」


「そんなわけあるか」


「まあ、長年親交を温めてきた甲斐があったと言いますか。そこのところは任せてください」


「……まったく」


なるほど。


きっと、自分や父さまのお金持ちネットワークのことを言っているんだろう。


それを使って、父さまの入院手続きや事故の後始末をうまいことやるつもりらしい。


意外だった。


だって氷丸は縁故を使うのが嫌いだったはず。


以前怒っているのを聞いたことがある。

同窓会だの親戚筋だの、そんな縁故を使うのはプライドが許さない、コネを使っていい思いをしようとする人間は軽蔑する、と。


でも、父さまを守るためなら氷丸は手段を選ばないのだ。

プライドを捨て、信念を曲げることくらいなんでもないのだ。


それほど彼は父さまを愛している。

そして、父さまも氷丸のその思いに応えているのだ。


うらやましかった。


信頼しあっているふたりの姿は私の胸を温かくさせたけど、少し寂しかった。


やがて話がついたようだ。


「姫様、お待たせしました。帰りますよ」


「うん」


私は荷物を片付け、父さまにお休みを告げた。


「では、準備が整い次第転院ということで。そこに移ればもっとゆっくりできますからね」


「そうだな。ユーナにもずいぶん無理させているからな」


そんなこと言われるとなんだか照れ臭い。


たしかに今は週に3日か4日、2時間かけて通っている。体力的にかなりきつい。


でも、父さまを支えたくて、力づけたくて……会いたくて来ているのだ。


それなのに、こんな優しいことを言われるなんてなんだかドキドキしちゃう。


「ユーナ、こんなにしょっちゅう来なくていいんだぞ。ここは完全看護だし、本当に心配いらないんだからな」


「うん……でも」


私はモジモジした。


氷丸が私のバッグを持ち直して振り向いた。


「私、大丈夫だよ。だって……と、父さまに会いたいから。も、もちろん父さまが迷惑だって言うなら来ないけど」


「め……迷惑だなんて」


父さまは声を詰まらせた。


「そうですよ、どうしてそんな風に思うんですか」


氷丸が呆れたようにつぶやく。


私はいたたまれなくて赤面した。


「炎丸様は姫様の体を心配していらっしゃるんですよ。俺も心配です。もうすぐ近くに転院しますから、がんばりすぎないで……」


「わかった、もういい。とにかくユーナ、無理しないようにな」


私は赤面しながらうなずいた。

父さまも少し赤くなっていた。


氷丸はそんな私たちを見て少し笑った。


「行きましょうか」


「うん」


私は足早に病室を出ようとした。


「ちょっと待ってくれ」


父さまが声をかけてきたので、私たちは振り向いた。


「聞いてほしいことがある」



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