1994年6月11日
「裏門にキザキ・リョータさんという方がいらしています。炎丸様のお見舞いとおっしゃっていますが、お断りしてよろしいですか?」
モエからの内線電話を受け、俺は動揺した。
キザキ・リョータが? ここに?
一瞬固まったが、一瞬だった。
「いや、俺が対応します。大事な方なので……そこで待っていてもらってください」
「あら、そうですか。わかりました。女の子と裏門で会ったとおっしゃっていますよ」
「女の子?」
姫様だろうか?
「今から中にご案内しますので、お茶の用意をお願いします」
「まあ。かしこまりました」
俺は急いでキザキ・リョータを迎えに行った。
そして今、俺と姫様とキザキ・リョータは一緒の食卓を囲んでいる。
お茶の用意をお願いしたが、俺の昼食がまだのことに気を遣ったモエが、キザキ・リョータにも昼食を勧めたのだ。
彼は快諾し、姫様は渋ったが、3人で昼食をとることになった。
「美味い、美味すぎる。これ、米で食いたいなあ。すいません、ご飯ないですか?」
キザキ・リョータが声を張り上げたので、モエが出てきた。
「あらあらごめんなさい、今日はライスはないんですよ。パンのお代わりお持ちしますね」
「あー、残念。でもこのパンもめっちゃ美味い。すげえなあ、金持ちって毎日こんな美味い飯食ってるんだ。うらやましい!」
俺は苦笑した。
「相当お腹が空いていたようだね。空腹の中来てくれてありがとう」
「いえ、弁当は10時ころ食ったんです。だから大丈夫だろうと思ったんだけど、こんな美味い飯出されちゃお代わりせずにいられませんよ。なんか図々しくてすみません」
「いや、気に入ってもらえてよかった」
姫様は顔をひきつらせている。ドン引きらしい。
モエがニコニコしながらパンを持ってきた。
「男の子の食欲は気持ちがいいですね。どんどん召し上がって」
「ありがとうございます! ぜんぶめっちゃ美味しいです!」
「食後はコーヒーでいいですか?」
「あ、俺コーヒー飲めないんで。水でいいです」
「あら、じゃあ紅茶はいかが?」
「あ、紅茶ならお願いします」
「はい、では紅茶をご用意しますね。皆さま一緒でよろしい?」
「ええ、もちろん」
姫様が少々不満げな顔をしたが、俺は目配せした。
「ところでキザキさん」
「はい」
「さっきも話したが、炎丸様はまだ入院中なんだ」
「そうなんですね。そしたら病院を教えてもらえますか?」
「いや……」
炎丸様から、俺と姫様以外の人間の見舞いは固く禁じられている。
病院でもそれは徹底されていて、親戚だろうが大口取引先だろうが、直接見舞いに行っても会えるわけじゃない。
だが、キザキ・リョータの見舞いを炎丸様が拒むだろうか?
最終審査であれだけ迷惑をかけたのだ。
仮に今日、俺が彼を病室へ連れて行ったとして、こうやって出向いてくれた彼を、炎丸様が無下に扱うとはとても思えない。
きっと、よく来てくれたな、と温かく迎えてくれるだろう。
「実は今日の午後、俺と姫様は炎丸様の見舞いに行く予定だったんだ。よかったら君も一緒に行かないか?」
「えっ?」
「えっ?」
姫様とキザキ・リョータが同時に声を発した。
「いいんですか? それは助かります」
キザキ・リョータは顔を輝かせた。
「氷丸」
姫様がいぶかしげな声で俺を呼んだ。
俺はうなずいた。大丈夫、問題ない、と目で伝える。
姫様が「私たち以外のお見舞いは禁じられているのよ」などと言いだしたら面倒だと思ったが、姫様はなにも言わなかった。
俺を信用してくれている。ありがたいことだ。
「よかった、これで父ちゃんに報告できます」
「お父さんは事故のことをご存じなのか?」
「はい、そうなんです。事故のこと、俺は知らなかったんだけど、親がニュースで知ってすぐにお見舞いに行けって命令されて」
「そうなのか」
「うちの両親、すっかり炎丸様のファンになっちゃって。テストがゴタついて俺に迷惑かけたからって、わざわざこんな僻地までお詫びのために足を運んでくれるなんて、只者じゃないって」
俺はうなずいた。
「それから……」
キザキ・リョータは口ごもった。
「ん?」
「い、いえ。炎丸様に……直接、お話ししたいことが」
「うん? そうか」
少し苦しい。
やはり、俺は信用がないようだ。
無理もない。
あれだけの無礼を働いたのだ。
休暇から帰り、俺はすぐにキザキ・リョータの家に詫びに行った。
彼は不在だったが、彼の兄が対応してくれた。
「リョータはもう、ライエに関わりたくないって言っていました。すみませんが、お帰りください。謝罪に押しかけられるなんて、かえって迷惑です。お気持ちは弟にも伝えますから」
物静かで理知的な青年だった。
年齢も俺と同じか少し上くらいかもしれない。
そこまで拒絶されると、それ以上訪ねることは諦めざるをえなかった。
もう一度、直接会って詫びたかった。
その気持ちがずっとあった。
千載一遇のチャンスだ。
このあと一緒に見舞いに行き、適当なところで姫様は病室に残し、彼と話をしよう。
姫様は食事の間、ほぼ無言だった。
無理もない。人見知りなうえ、生粋の女子校育ちだ。
男の子とダンス教室で話をすることはあっても、食卓を囲むなんて初めての経験だろう。
いつもだったらもっと食べるのに、パンも1個しか食べていない。
緊張している様子が微笑ましかった。
キザキ・リョータをいったんナースステーションで待たせ、俺は先に炎丸様に彼の来訪を告げた。
もし炎丸様が面会を拒否するようなら、適当な理由をつけて帰ってもらわねばと思っていたが……
炎丸様は目を見開き「驚いたな。もちろん通してくれ」と言った。
思った通りだ。
俺は彼を呼びに行った。
キザキ・リョータは緊張の面持ちだ。
炎丸様は、最大限の笑顔で彼を迎えた。
「キザキくん、よく来てくれたね」
「あの、お久しぶりです。お体の具合は……」
「ああ、足は膝からなくなったが問題ないよ」
キザキ・リョータが息をのむ気配がする。
事故のことは隠しようがなく、ニュースにもなってしまったが、両足切断の情報は世間に出ていないはずだ。
「今どきはいい義足があるからな。パラリンピックでも義肢ランナーが驚くほどいい成績を出すだろう? かえって足腰が強くなるくらいだ」
「そ、そうですか。それはよかっ……、いえ、うん」
こんなことを言っているが、実際は骨盤にもダメージがあり、義足をつけても普通歩行がやっとだろうと言われている。
車椅子を使いながらの日常になることは間違いない。
気を遣わせまいと明るく対応する炎丸様の姿にまぶたが熱くなる。
ふと気づくと、姫様がベッドサイドに椅子を持ってきていた。
「あの、どうぞ」
「あっ、どうも」
なんとキザキ・リョータに椅子をすすめている。
なんて気が利くんだろう。これは驚きだ。成長したものだ。
炎丸様も感無量といった顔をしている。
感動をかみしめていると、キザキ・リョータは学生カバンをゴソゴソし始めた。
「あの、これ」
彼は水引が折れた金封を取り出した。
お見舞と書かれている。
「うちの親からです」
炎丸様は首を振った。
「いやいや、受け取れないよ。気持ちだけで十分だ」
「いえ、そんな。すみませんけど受け取ってください」
「とんでもない。君にあれだけ迷惑をかけておいて、こんな……」
「いえ、もうお願いします。受け取ってもらえないと、俺が親にぶん殴られるんで」
「……」
炎丸様は苦笑した。
「あのお父さんに殴られたら効きそうだな」
「はい。父ちゃんだけじゃないんです。お見舞いも渡せないなんて、ガキの使いかって母ちゃんも怒るに決まってます。うちの母ちゃん、容赦ないんです」
炎丸様は手を伸ばして金封を受け取った。
「ありがたく頂戴するよ。ご両親によろしく伝えてくれ」
「はい、よかった」
キザキ・リョータは心からホッとしたようだった。
「あの……それから、実は、その……」
「なんだい?」
キザキ・リョータはモジモジと口ごもった。
炎丸様に直接話したい、と言っていた件だろうか?
俺は彼をのぞき込んだ。
「俺と姫様は席を外そうか?」
「え? あ、いえべつに。大丈夫です」
「ん? そうか」
炎丸様だけに話したいというわけでもないのか?
なにを言うつもりなのだろう。
「じ、実はその。親からめちゃくちゃ怒られた件がもうひとつあって」
「うん」
「せっかくリサーチ・テストに合格したのに、エデュケイションを断ったこと、なに考えてんだって……なんのために大金払って都会の私立に行かせたと思ってる、って」
「……ほう」
「それでですね」
キザキ・リョータは大きく息を吸った。
「エデュケイションを受けたいんですけど。まだ、合格は活きているでしょうか」