「んっ……。うんっ……。」
睡眠から覚醒へ至る途中にある微睡みとは誰にとっても至福の時である。可能なら、いつまでも味わっていたいもの。
だが、魔王は骸の王。永遠の眠りの先へ至り、睡眠という欲求から解き放たれた存在。ベットの上、寝返りを打ちながら、それを感じているという異常性に気付き、上半身を飛び跳ね起こす。
「……な、何っ!?」
その興奮冷めやらず、更なる驚愕が魔王を襲う。
空腹を訴えて、低く鳴り響く腹の音。これもまた骸の王となった時に捨て去った筈の食欲を感じ、見開いた目を腹へと向け、その目をより見開ききった。
「こ、これは……。」
腹が鳴った時に行った反射行動だろう。そこに右手が置かれていた。
但し、その手は若々しい潤いを保った肉の手であり、見慣れた指先を曲げただけで耳障りな軋む音が鳴る骨の手とは違った。
魔王は両手をワナワナと震わせながら目線まで上げて、それをまじまじと凝視した後、もしやという期待を抱く一方で恐る恐る顔を触れる。
「おおっ!? おおっ!? おおぉぉ~~~っ!?」
指先と掌に感じる肉の温もりと感触。魔王は喜び勇んで思わずベットの上に立ち上がり、自分の顔を何度も何度も撫で回しては気色をあげる。
そして、辺りをキョロキョロと見渡して、ベット隣にある机の上にある小さな鏡を見つけると、すぐさまベットを飛び下りた。
その際、慌てるあまり足を踏み外して転び、床へ倒れた痛みに涙目となるが、その表情は笑顔のまま。すぐに立ち上がって、鏡を手に取って覗き込む。
「こ、これが……。お、俺かっ!?
悪くない! なかなかのイケメンじゃないか!」
鏡の中に写る紫色の瞳を持った黒髪の男性。
その者の口は魔王が喋るのに合わせて動き、魔王は鏡の中の男性が自分だと実感すると、口をニンマリと三日月型に形作って笑った。
******
「う~~~ん……。」
ベットの端に腰掛けて、腕を組みながら考え込む魔王。
興奮が収まって、冷静さを取り戻してみれば、疑問が当然の事ながら湧いてきた。
今現在、端的に言うなら、魔王の意識は人間種の男性と思しき身体に包まれているが、魔王は秘術を用い、人間の身体を捨てる代償として、永遠の命と強大な力を得た骸の王。それは有り得ない事実だった。
例えるなら、果物を定命ある生物だとすると、果物を搾った果汁がアンデット種となる。その果汁を搾りカスへかけようが、浸そうが、果物に二度と戻れない様にアンデット種は定命ある生物に戻れず、一方通行なのが世界の理。
もし、その世界の理を外す術が存在しているのなら、魔王は自身の魂を無機物に移そうという遠回りな企みを行わず、それを最初から行っている。
だからこそ、不可解が過ぎるのだが、魔王の記憶では秘術に成功していた。骨の肉体から魂が無事に分かれるところまでが記憶にきちんと存在しており、その後の記憶は無いが、そこからは自分が居らずとも秘術が自動的に成功する様になっていた筈がこの様である。
結果として、魔王は実際の肉体を手に入れ、企んでいたモノより嬉しい状況に有るのだが、叡智を極めた存在であるが故、狙った結果となっていないのはどうにも腑に落ちなかった。
また、ここが明らかに魔王城とは違うのが、更なる謎を呼んでいた。魔王自身が漏らして充満していた魔王城特有の腐気が全く感じられなかった。
「なら、まずはここが何処かだが……。」
幾ら考えても手掛かりすら掴めず、魔王は考える方向性自体を変える。
このまま思い悩んだところで苛立ちを覚えるばかり。まずは解り易い問題から解決する事によって、最終的な解を得ようという作戦。
そして、それは見事に功を奏する。
「これは……。手紙か?」
ベットから立ち上がると、部屋の中央に立って、辺りをキョロキョロと見渡す。
しかし、さして広くはない明らかな一人部屋。客を1人迎えたら窮屈になるほどであり、家具は粗末なベット、木の机、クローゼットのみ。
生活感を感じさせる私物も見当たらず、手掛かりは机の上にすぐ見つかった。魔王は手紙を手に取って読み上げる。
「拝啓、母上様。いかが御過ごすでしょうか?
暦の上では夏が過ぎたばかりだと言うのに、こちらはもう長袖を必要とします。
ですが、その寒さが身を引き締めさせて、いよいよ今日は入学式も済み、このレイモンドは決意を新たに益々……。」
それ以上は乱れた文字の単語が幾つか続いているだけ。
恐らくは練習稿。その文面からヒントを得ようと、魔王が考え込もうと首を傾げたその時だった。
「そうか……。この身体の主の名前は『レイモンド』と言うのか……。ぐぅっ!?」
その場に立っていられないほどの激しい頭痛。
魔王は両膝を落として、頭を両手で抱えながら蹲り、歯を食いしばって必死に耐える。
まるで万力で締め付けられるかの様な激痛が鼓動に合わせて、ズキリ、ズキリと生まれる度、魔王が時の彼方に風化させた記憶が今の身体が持つフレッシュな脳にフラッシュバック。断片的な映像となって蘇る。
それは10秒弱の短い時間だったが、全身の毛穴を開かせて、魔王は汗まみれ。顎先を伝う汗がポタリ、ポタリと床へ零れ落ちる。
「……違う! 俺の名前がレイモンドだ!
くっくっくっ……。全く度し難いな。俺は自分の名前すら忘れていたのか。
そして……。そう、そうだ! ここは魔術学院の寄宿舎で俺の部屋!
一昨日、このモテストへ着き、今日は午前中に魔術学院の入学式を終えたところだ!」
だが、その苦しみと引き換えに疑問が解決。
魔王は額の汗を右腕で拭って立ち上がり、立ち眩みに蹌踉めいて、ベットの端へ腰を落とすと、晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
もっとも、それも束の間。新たな疑問がすぐに湧き起こり、魔王は腕を組みながら顎を右手で支え持ち、笑顔を引き締めて、皺を眉間に刻む。
「だが、待てよ。……と言う事はだ。
魂が時を遡り、1000年前の身体に定着した。そう言うのか?
いや、そうとしか言えないが……。何故、何故だ? 確かに付与魔術と時魔術には通じるものは有る。
しかし、それは通じているだけであって、別物。魔法陣に刻んだ文字とて、基礎は同じでも根本が違う。
う~~~ん……。どうして、こうなったのかがまるで解らん。こうも手掛かりが何も無いのでは仕方が無いのだが……。」
しかし、ここは魔王が秘術を行った現場『魔王城』ではない。
魂が1000年の時を遡ったという荒唐無稽な話を証明するモノは自分自身の意識のみ。それ以外は時の彼方に全て消えてしまい、手を伸ばす事すらも出来ない。
魔王は知恵の探究者として、自分自身に起こった現象が全く解らないのがもどかしくも悔しかった。
また、どうしても思考を邪魔する存在もあった。
「ふぅ~~……。まあ、良い。
まずは飯にするか! 腹が減っては戦が出来ぬと言うしな!」
低い音を鳴らして、空腹を再び主張する腹。
魔王は思わず溜息を漏らして、1000年ぶりに味わう空腹感に苦笑を漏らした。
******
「美味い! 美味い! 美・味・いぞぉぉ~~~!」
パーンゲニア大陸北西の端にある『モテスト』は、大陸最大の権威を持つ最古の魔術学園が在る事で有名な大都市である。
北から南へ連なる長く険しい山脈が東西に在って、細長い盆地の中央に位置しており、海へ向かう東路と盆地の南北へ向かう三叉路の上に作られた街の為、栄える要素は元から存在したが、ここに魔術学院という存在が加わって大発展を遂げる。
魔術学院が建設されたのは、今から約850年ほど前の事。数々の活躍を大陸各地で成した偉大なる大賢者『ムツィオ』が終の地として腰を下ろして、魔術を教える私塾を開いた時から始まった。
なにしろ、モテストの魔術学院が出来る以前の魔術と言えば、その存在は大陸各地に存在はしていたが、学問としての形を成しておらず、そもそも当時は魔術とは呼ばれずに呪術と呼ばれ、呪術師が豊作祈願や邪気払いの儀式として用いる為のもの、基本的に師から弟子へと受け継がれる門外不出のものだった。
その上、地方や街、村によって、同じ豊作祈願を祈るにしても、その対象が火だったり、水だったりして、同じ火であったとしても、それが小さな火だったり、巨大な炎だったり。祈願に唱われる呪文に至っては完全に違っていた。
即ち、大陸各地に存在する千差万別な呪術が実は同一なモノと見抜き、それ等を一つの学問としての大系に纏めて、誰でも学べる『魔術』と名付けたのが偉大なる大賢者『ムツィオ』であり、このモテストの街は勿論の事、魔術の祖として今でも広く讃えられていた。
そして、魔術を学んだ者達が大陸中へ散らばってゆくと、魔術が便利なモノと急速に知れ渡り、魔術学院はモテストの大きな産業となって隆盛の階段を駆け足で上って行く。
何の材料も要らず、火が起こせて、水が飲める。それは人類の最前線へ赴く探検を生業とする冒険者達にとったら垂涎の技。
ましてや、その火や水が攻撃手段となるなら、これを放っておく手は無かった。冒険者達はモテストの街へ自然と集った。才能溢れる優秀な魔術師を仲間に加えようと。
今は8つの魔術学院が大陸に存在して、大陸唯一だった頃ほどの隆盛はさすがに無いが、モテストの街は今も十分に栄え続けており、夕飯時を間近に迎えて、大通りにあるどの宿も、飯屋も冒険者達で賑わっていた。
その中の一軒、宿屋と飯屋を兼ねる『けろろん亭』のカウンター席にて、魔王は1000年ぶりの味に狂喜乱舞していた。
「食いっぷりもだが、嬉しい事を言ってくれるねぇ~~!
そう、美味い、美味いと何度も言われたら、料理人冥利に尽きるってもんだ! ほれ、これはサービスだ!」
この店の一押しメニューである肉の分厚さと柔らかさが売りのステーキセット。
戦いの前線を駆ける戦士が食べても満腹になるソレを猛烈な勢いで平らげて、現在はおかわりの2セット目。
しかも、食べる勢いが全く衰えていない。鉄皿の上をジュウジュウと音を立てるステーキすら、少しは冷ませよと言いたくなる勢いで口へ次々と放り込む。
だが、魔王にとって、熱さも1000年ぶりに味わう嬉しさのスパイス。涙を目尻に溜めながらも、それを敢えて味わっていた。
おかげで、店の主人である中年の髯親父はご機嫌のニコニコ笑顔。魔王が座るカウンターの対面に腕を組みながら立ち、魔王が喝采をあげる度、嬉しそうにウンウンと頷いていた。
「むっ!? ……こ、これはっ!?」
魔王が2セット目を完食したタイミングを見計らい、魔王の前へ差し出された一品。
それは今までの熱々とは打って変わり、気化熱が水蒸気を上げて冷え冷えとしているにも関わらず、ガラス皿に盛られたソレは揚げ物と思しき不思議な品だった。
魔王は相反する見た目に首を傾げながら、ソレをスプーンで食べやすい一口サイズに切り分けてから口へ運ぶなり、目を勢い良くクワッと見開かせたまま、動きを止めて固まった。
そして、間を空ける事暫し。右手に持つスプーンと左手に持つガラス皿をテーブルへ静かに置き、首を左右にゆっくりと振る。
「……えっ!?」
その様子に何か手違いがあったかと、髯親父が笑顔を氷らせて息を飲む。
慌てて視線をガラス皿の上に残るデザートへ向けるが、見た目に失敗は見つからず、手元に残っているデザートへかけたフルーツソースを人差し指で掬って舐めてもみるが、やはり異常は感じられない。
「エクセレント……。美味すぎる!
口当たりはしゃっきりぽん! しかし、その味わいは甘くてまったり!
この火照った身体の芯まで春の谷風が吹き抜けてゆく様な涼感ときたら……。店主、出来るな!」
しかし、それは髯親父の杞憂に過ぎなかった。
魔王は口の中の香りを惜しみ、感嘆の溜息を鼻で漏らすと、その味わいを褒め称えて吠えまくり。最後に口の端を吊り上げて、髯親父へニヤリとした笑みを向けた。
「へへっ……。正直、何を言っているのかはさっぱりだが……。
あんたがそう言ってくれるなら、正式なメニューに出せそうだな。そいつ、実は試作品なんだ」
髯親父は胸をホッと撫で下ろして一安心。鼻の下を照れ臭そうに人差し指で擦って喜ぶ。
これほどの絶賛である。髯親父の言う通り、その表現は意味不明でも釣られて食べたくなるのが人というもの。特に試作品という名前は人の心を擽る。
ところが、カウンター席からも、店内に12ある5人掛けのテーブル席からも注文の声は無いどころか、夕飯時を間近に控えて、着席率は80%を超えているにも関わらず、店内は静まり返っていた。
「なら、太鼓判を押そう。これは街の名物になるぞ」
「ははっ! 名物か! 本当にそうなったら嬉しいねぇ~!」
その原因は言うまでもない。魔王、その人に有る。
どちらかと言えば、この店は治安が悪い下町近くの大通り端に位置しており、その立地条件からか、冒険者の中でもガラの悪い荒くれ共が自然と集まる場所であった。
それ故、この店へ魔王が入店した時、店内はピタリと一瞬だけ静まり返り、すぐに客達は魔王を盗み見ながらザワザワとざわめき始めた。
なにせ、魔王の格好と言えば、ほつれも無ければ、汚れも無く、布地からして高級品。見るからに貴族の若様といった身なり。どう考えても、場違い勘が甚だしかった。
しかし、魔王は集った数多の視線に怯むどころか、目もくれずに店内を真っ直ぐに堂々と横断。カウンター席へ着席して、ミルクを注文すると、お約束とも言える合いの手が入り、店内は魔王を馬鹿にした粗野な笑いで溢れた。
だが、無知とは罪であり、恐ろしいもの。あわよくば、小金をせしめようと、調子に乗った強面の大男が許しを得ずに魔王の隣へ座った瞬間、この店は魔王の支配地となった。
魔王が放った無言の裏拳によって、強面の大男は身体を『コ』の字に曲げながら店内を横断して吹き飛び、開きっぱなしの出入口から店外へ放り出された挙げ句、路上をゴロゴロと転がりまくり、真向かいの店の壁に激突して昏倒した。
それは魔王の細腕を考えると、有り得なすぎる光景だった。店内は一瞬にして静まり返り、一呼吸を置いて、強面の大男の仲間と思しき4人が魔王へ向かって息巻くが、カウンター席に座ったままの魔王が無言で振り返り、4人を次々と指を差した途端、その指先から放たれた放電を浴びて、4人はあっさりと沈黙。
その後、店内の誰もが魔王の意識に入るのを恐れて、息をするのさえも潜め、店から出て行く事もままならず、今は嵐を過ぎ去るのをひたすらに待っていた。
時たま、そんな事情を知らない新たな客が来店するが、いずれも足を一歩踏み入れるなり、只ならぬ張り詰めきった店の空気を冒険者の勘で感じ取り、踏み入れた足を即座に戻して、後ろ歩きに店を立ち去っている。
ちなみに、魔王が数ある店の中からこの店を選んだ理由は簡単。店の前を通りがかった際、呼び込みをしていたウェイトレスのデカメロンな胸に釣られただけ。
「世辞など言わん。なんなら、すぐにでも試してみると良い」
「なら、早速と言いたいところだが、あくまで試作品だからな。仕込みも、材料も、それっきりなんだ」
「それは残念だ。なら、また明日来るとしよう」
「おう! 用意して、待ってるぜ!」
魔王は再びスプーンを右手に、ガラス皿を左手に持つと、一口、二口、三口と頬張る毎に速度をあげてゆく。
最後はガラス皿を反らした顎の上に持ちながら口を直接付けてかきこみ、ソースの一滴まで余すところなく食べ終え、ガラス皿をカウンターへ下ろすと共に至福をたっぷりと感じさせる溜息をついた。
そして、1000年ぶりの満腹感に大満足。汚れた口をハンカチで拭い、席から立ち上がる。
「さて、馳走になった。店主、お代は幾らだ?」
「へい! 大ブロンズ、27枚になりまさ!」
髯親父は『また明日来る』と言う魔王の言葉が嬉しく、早くも今から明日が待ちきれなかった。
若い頃、髯親父はこの店を父親から継ぐに辺り、大陸全土は無理だったが、大陸の半分を料理修行に食べ歩き、その腕には自信を持っていた。
しかし、この店ときたら、父親の代から既にガラの悪い荒くれ共が集う巣窟となっており、まず求められるのが酒の美味さ。次に満腹感と来て、三番目に安さが来る。所詮、味は酔った舌では二の次、三の次の扱いだった。
幸いにして、店は繁盛して儲かっている為、文句は無かったが、やはり多少の不満はあった。毎日の仕込みに他店が持たない隠し味を加えている際など、それを誰が求めているのだろうかと溜息をつく事が多々あった。
それだけに滅多に無いが味を純粋に楽しみ、味を解ってくれる魔王の様な客が来ると嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、またの来店を願い、通常の料金から密かに1割引きのサービスを行っていた。
「ふっ……。安いな。釣りは取っておけ」
「な゛っ!? ……こ、こんなにっ!?」
だが、次の瞬間。髯親父は驚愕に目を見開ききり、身体を仰け反らせて息を飲んだ。
魔王が懐の革袋から取り出して、カウンターに置いた1枚の硬貨。それは店内のランプの照明を浴びて燦然と輝いていた。
店を経営している髯親父ですら、実物を見るのは数年ぶり。流通量が少なく、ヒトの手垢がなかなか付かない故に美しい輝きを持つそれは発行した国々によって意匠の違いはあるが、大陸共通の最大価値貨幣『金貨』だった。
それぞれの国によって、貨幣は発行されており、その価値は上下するが、戦争や飢饉さえ発生しなければ、大凡の大陸共通貨幣レートは以下の通り。
最も流通しているのが銅貨。小銅貨と大銅貨が有り、小銅貨10枚と大銅貨1枚が同価値。大銅貨100枚と銀貨1枚が同価値。銀貨10枚と金貨1枚が同価値となっている。
つまり、魔王が支払った金貨1枚を大銅貨に換算すると、なんと1000枚分。髯親父が驚くのは無理もなかった。
「今日は1000年ぶりの祝いだ。遠慮は要らん。
もし、貰い過ぎたと思うのなら、その金でもっと腕を磨くと良い」
「あ、ありがとうございます! せ、席を作って、明日もお待ちしています!」
慌ててカウンターから駆け出て、店を出て行く魔王の後を追い、その背中へ頭を深々と下げる髯親父。
しかし、魔王は振り向かない。その眼は次なる目的地『歓楽街』のみを既に捉えており、その頭はいよいよ女体の神秘を解き明かすべく『おっぱい』だけしか考えられなくなっていた。
「さあ、出陣だ! 往くとするか!」
魔王は自分自身に渇を入れて吠える。負けられない戦がすぐそこに迫っていると知って。
******
「ほうわっ!? ……何だ。これは? 何と表現したら良い!
何とも温かくて……。いや、温かいではない! これは温いと書いて『ぬくい』だ!
そう、こうしていると日溜まりのポカポカ陽気を……。いやいや、違う! 違うぞ!
遠い昔、これと似たのを……。そうか! 母上だ! 母上の温もりだ!
なるほど! これこそ、正に原点回帰と言える神秘!
ヒトは女体から出でて、女体へと帰る! これこそが生命の営み! 俺の小宇宙がビックバン!」
「……変な客」
この日、魔王は約1000年という長き時を経て、大人の階段を遂に上った。