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第8話 吸血鬼ナルサス




「……えっ!?」


 突如、異常な現象の中、目を強烈な光に焼かれて、それがようやく治まると、アオイは見知らぬ場所に立っていた。

 かなり古びた石造りの広い建築物。コンクリートではなく、石である。そこは生まれてから一度たりとも感じた事の無い異質な場所であり、明らかに日本らしさを一欠片も感じさせない場所だった。

 左右の壁に列んでいる天井近くの高い位置にある窓にはガラスが入っておらず、左手側の窓から射し込む弱い光が滑り台を作って場内を照らしており、舞い上がっている埃をキラキラと輝かせていた。


「……えっ!?」


 アオイは混乱を極めて、異口同音の驚き声をもう一度。

 どうやら少し高い位置に立っているらしく、視線を下げてみると、左右の壁沿いに木製の朽ちかけた、または朽ちた長椅子が幾つも列び、アオイが立つ直線上が通り道となっていた。

 その直後、信じ難い光景が目に入ってくる。アオイは目をこれ以上なく見開き、息を飲みながら開いた大口を両手で塞ぐ。


「ひぃっ!?」


 アオイのすぐ目の前、長い白髭を蓄えた老人が息絶えていた。

 両膝を突いて座り、短剣を胸に両手で突き立て、灰色のローブを真っ赤に染めてながら、床の血溜まりを今も広げて息絶えていた。

 その表情に苦悶は見られない。まるで何かをやり遂げたかの様に穏やかな顔をしており、息絶える前に零したのか、瞑られた両目の脇には涙の跡があった。

 しかし、生前の老人の心境はどうあれ、まだ父方の祖父母も、母方の祖父母も健在なアオイにとって、それは初めて目の当たりにする明確な死。混乱と怯えを混ぜていたアオイの心は恐慌を極めて、その口から悲鳴となって溢れる。

 だが、その悲鳴を掻き消して上回るほどの轟音がアオイの目の前へ天空より舞い降り、それと同時に凄まじい衝撃波を放った。


「うぐっ!?」


 幸いにして、背後は壁。アオイは2メートルほど吹き飛ばされるが、背中を強かに打つだけに留まったが、場内はめちゃくちゃとなった。

 左右の壁沿いに列んでいた全ての長椅子はアオイとは逆側に吹き飛んで完全に壊れてしまい、この石造りで出来た建物自体も彼方此方が崩れて、半崩壊状態。

 しかも、埃が舞うほどに積もっていた場所である。今の衝撃によって、それ等が一斉に舞い上がり、まるで小麦粉を撒き散らした様に煙る。


「けほっ!? かほっ!? けほっ!? かほっ!?」


 冷たいヒヤリとした感触がある石の床に女の子座り、背を丸めて蹲りながら激しく咽せ込むアオイ。

 舞い散る埃を少しでも避けようと、口と鼻を両掌で覆い隠して、短く連続的に呼吸する。目はとても開けていられず、力強くギュッと瞑る。

 しかし、ただじっとしては居られなかった。何が起こっているのかがさっぱり解らない。その状況が恐怖心を駆り立てて、蹌踉めきながらもアオイを立ち上がらせる。

 そして、気付いた。瞼を閉じているにも関わらず、強烈な輝きが目の前に存在するのを。


「……えっ!?」


 もう何度目になるのかが解らない驚き。

 目を怖ず怖ずと開けると、先ほどアオイを恐慌に至らせた老人の死体は何処にもなく、その老人が居た場所に眩いばかりの光が降り注いでいた。

 釣られて天井を見上げると、直上にポッカリと空いた大きな穴。その中心に何かがキラリと輝いたかと思ったら、一本の剣がゆっくりと下りてきた。

 長さは1メートルと少し。握りは両手で握っても余るほど長く、赤い鱗状の革が巻かれており、無色の珠を柄尻に填め、翼を広げたドラゴンの装飾が柄にあしらわれている。

 だが、それ等以上に何と言っても特筆すべき点は黄金の刀身。天上よりの光を受けて輝く様は美しいの一言。アオイは何もかもを忘れて、その幻想的な美しさに目を奪われた。


「ううっ……。」


 やがて、降下を止めて、アオイの目の前に滞空して制止する黄金剣。

 正しく、それはアオイという主人が己を手に取るのを待っている様だった。

 アオイもまた剣に呼ばれた様な気がした。抗えない誘惑に呻きを小さく漏らしながら、ゆっくりと歩を近づけてゆく。

 ファンタジーを知る者なら誰もが知っているアーサー王伝説の一幕。それが頭に思い浮かび、アオイが喉を鳴らして生唾を飲み込み、右手を剣へ伸ばしたその時だった。


「駄目だ! ソレを手にしてはいけない!

 一度、ソレを手にしたが最後、戻れなくなるぞ! 今なら戻れる! 止めるんだ!」


 黄金の剣の向こう側、石造りの建物が微かに揺れるほどの爆発が起こり、出入口のドアに積み重なっていた瓦礫と化していた長椅子が吹き飛ぶ。

 新たに射し込む光と再び舞い上がった埃の中に霞む人影。若い男らしき者の必死な声がアオイへ制止を叫ぶ。

 アオイは身体をビクッと震わせて、剣へ伸ばしていた手を一瞬止めるが、その制止が皮肉にもアオイの決心を逆に促す。

 さすがのアオイも馬鹿では無い。ここまで至れば、自分に何が起きたのか、ここが何処なのか、もうはっきりと理解が出来ていた。

 即ち、パンゲーニア大陸への異世界召喚。昨日まで読んでいた6冊の主人公達と同様に7冊目の主人公として自分が選ばれたのだと悟る。

 勿論、未練が無かった訳ではない。父や母、弟の顔が頭に浮かんだが、その3人だけ。決別の時にたった3人の顔しか思い出せない自分が情けなかった。

 逆に言えば、自分と深い関わりが有る者はたった3人しか居ないと言う事。それも家族であり、自分が居なくなったところで他人へ影響を与えないのが悲しかった。

 勿論、不安が無かった訳ではない。積極性も無ければ、意気地も無い自分が6冊の主人公達の様に世界を救う英雄になるなんて、これっぽっちも思えなかった。

 逆に言えば、6冊の主人公達がそうであった様に7冊目の自分も英雄になれるのではないだろうかと自惚れた。英雄となる為、この積極性も、意気地も無い性格を変えられるのかもと期待した。

 今にしてみれば、なるほどと納得する。7冊目の副題となっていたのは臆病な勇者。なんと自分に相応しい称号なのだろうかと自虐的な笑みを漏らしながら黄金剣を握る。


「やあああああああああああああああああああああっ!?」


 その瞬間、天空より降り注いでいた光が黄金剣を包んで集まり、黄金剣はより美しく輝きながらアオイの手の中で激しく震えて暴れ始めた。

 今までの大人しい姿とは一転して、それはまるで気性の荒い馬だった。主人を初めて背に乗せて猛り、振り落とさんとする見事な暴れっぷり。

 その際、黄金剣の柄尻より紫電が走り、アオイの左太股の付け根内側を焼いて、ある模様を刻みながら痛みも与えていたが、この時のアオイは気付かなかった。

 アオイは黄金剣を手放すまいと懸命になっており、右手だけではなく、左手でも黄金剣を力一杯に握り締めて、こんな大声が自分に出せたのかと驚くほどの気合いを放ち、心の恐怖を勇気に塗り替えていた。

 この黄金剣こそが自分を変える為の最初の鍵だと信じて、絶対に手放せなかった。アオイは奥歯が砕けてしまうのではと思うほどに噛み締め、暴れる黄金剣を鎮めながら少しずつ、ゆっくりと頭上へと掲げてゆく。

 そして、それを遂にやり遂げた時、黄金剣を包んでいた光は黄金剣を包む鞘に変わり、石造りの場内に溢れていた光も消える。


「うっ……。」

「アオイっ!?」


 同時にアオイも限界に達する。立ち眩みにフラリと蹌踉めいたかと思ったら意識を失い、その場へ両膝を折って崩れ落ちる。

 しかし、前のめりに床へ倒れる直前、先ほどアオイを制止した若い男が駆け寄り、正面から優しく抱き留め、アオイは危うく難を逃れた。




 ******




「う、う~~~ん……。」


 微睡みの名残惜しさを感じながらも上半身を起こして、握り拳を作った両腕を目一杯に掲げて伸びをするアオイ。

 それが済むと欠伸が自然と出たが、気分は驚くほどにスッキリとしていた。いつ以来かと思うくらいに日々溜まっていた疲労が完全に抜けている。

 意識がはっきりしてくると、今度は空腹と頭の痒さを感じ、食事とシャワー。そのどちらをまずは済まそうかと、ベットから下りる。

 物音すら聞こえない真っ暗闇だが、自分の部屋である。何も見えなくても不安は無い。有るのは家族を起こさないかという心配。恐らく、現在の時刻は深夜過ぎ。


「えっ!? ……そ、そうだ! わ、私!」


 ところが、有ると思った筈のベットと床の段差が無かった。

 その上、裸足の足の裏に感じるのはひんやりと冷たくて、ざらざらとした固い感触。踏み慣れた自分の部屋の絨毯の感触とは程遠かった。

 それがトリガーとなって、意識を失う前の記憶が次々と蘇り、慌ててアオイが現状確認に立ち上がろうと、腰を浮かせたその時だった。


「どうやら、目が覚めた様だね」

「だ、誰っ!?」


 遠くでもなく、近くでもない距離で若い男の声がした。

 見知らぬ地、目がまだ慣れない暗闇の中、若い男と二人っきり。

 当然、アオイは怯えた。すぐさま浮かせた腰を落として、声がした方向から後退り、寝ていた時に身体の上にかけていたモノを胸に掻き抱く。


「フフ……。大丈夫だよ。その気があるなら、とっくにそうしている」

「そ、その気って!」


 真っ暗闇でありながら、男は見えているのか、アオイの反応に苦笑を漏らす。

 だが、ますますアオイは焦るばかり。若い男の言葉に一瞬だけ凍り付いた後、慌てて胸とお尻を両手で確かめ、下着をちゃんと着けているのを確認。胸をホッと撫で下ろす。


「くっくっくっ……。落ち着けと言っても、この暗さでは無理か」

「だ、誰なんですかっ!?」


 その様子がツボに入ったのか、肩を振るわせて笑う若い男。

 アオイは自分が何も見えていないのに対して、相手は此方を丸解りという状況に怯え、せめてもの抵抗に虚勢を張って怒鳴る。


「万物に糧を恵む光よ。我が行く先に灯明を示せ。ライト」

「わぁ……。」


 しかし、男が何やら言葉を連ねて紡ぎ、暗闇の中にソレが唐突に生まれた瞬間、アオイは息を飲みながら怯えも、恐怖も忘れて感動した。

 蛍光灯の明るさには及ばないが、蝋燭の明るさよりは遙かに明るい玉。若い男が差し出した右掌の上に発生したテニスボールほどのソレは上空へゆっくりと浮遊してゆき、天井付近に滞空して周囲を照らすと影を淡く踊らせた。

 明かりなど、アオイが住んでいた世界では誰もがスイッチ1つで簡単に得られるものだが、ファンタジー小説の大半には付き物の『魔法』と思しきソレを初めて目の当たりにして、アオイは目をキラキラと輝かす。


「簡単な生活魔術だよ。君も覚えようと思えば、覚えられる」

「本当ですか!」

「いや、これからを考えると、覚えて貰わないと困るかな?

 だが、その前にまずは自己紹介をしよう。私の名前は……。」


 その様子を眺めて、若い男は何やら大事なモノを懐かしむ様に微笑む。

 一方、アオイは自分も魔法が使えると聞き、更に輝かせた目を若い男へ向けて気付いた。意識を失う前に居た石造りの建物の中、石像が建てられている台の縁に立てた右足を抱えながら座っている若い男が誰なのかを。

 白くて長い髪と白すぎる肌。それとは対照的に額から目元の顔の半分を隠す黒いマスク。草色を主体とした衣装。もう1つの特徴とも言える内側が血の様な深紅に染められた黒い外套は羽織っていなかったが、それは自分の手元に今有り、胸に掻き抱いて、先ほどまで布団代わりにしていたモノだと知る。

 なかなか有り得ない特徴が全て合致しており若い男が名乗るのを先んじて、その名前がアオイの口をついで出てくる。


「……吸血鬼のナルサス」

「何故、私の名をっ!? しかも、吸血鬼だとどうやって見破ったっ!?」


 若い男、ナルサスは仮面の奥で目をこれ以上なく見開く。興奮のあまり両手で抱えていた膝を解いて、石像の台座から飛び下りる。

 そして、アオイへ足早に歩み寄るが、アオイが身体をビクッと震わせて、再び怯えを見せたのを合図に慌てて立ち止まる。

 アオイは一安心しながらも自分の失敗を知って顔を俯かせる。どう考えても、お互いが初対面にも関わらず、名前を知っているなんて怪しすぎる。ナルサスの反応は当然だと深く後悔した。

 だが、躊躇いは数秒。アオイは意を決して、最初は顔を伏せたまま。途中から顔を上げて、ナルサスへ逆に問い返した。


「6代目勇者、ファンベルト……。

 名前こそ、英雄王の仲間に連ねていませんが、いつも彼を影ながら助けていましたよね?」

「んっ!? ああ……。彼は人間だから、とうの昔に逝ってしまっているが今も友人だよ」


 そう、夢中になって読んだ『臆病な勇者』シリーズの6冊目。乞食の王様、その物語で登場する重要なキャラクターとして、アオイはナルサスを知っていた。

 主人公を見守り、成長させる為、時に意味深な事を告げては惑わして、時に難解な事を告げては導き、最後は見極める為に敢えて立ち塞がる二枚目の吸血鬼。

 その行動理念は遂に明かされないまま物語から消えてしまい、初登場から最後まで謎多きキャラクターではあったが、決して悪では無かった。

 そんなナルサスの数々の行動、言葉を知っているアオイは異世界へ召喚されて誰も頼れない今、そのナルサスなら頼れる筈とナルサス本人の確認の為により踏み込んでゆく。


「そして、最後は魔王を打ち倒す為、四至宝剣を彼へ与えた」

「失伝させた筈の四至宝剣の存在を知っているのか!

 確認に聞きたい! 四至宝剣とは何だ? どんなモノかを知っているのか?」

「四至宝剣は魔王が常に張っている四重の防御結界を破る為の剣です。

 但し、剣と言っても、その形は斧槍、杖、弓、盾の4つ。剣と銘打たれているのは、どれも刃が付いているから」

「その通りだ。……間違いない。

 しかし、それだけでは無い筈だ。その様子だと、私が犯した罪の大きさも知っているんだろ?」

「それぞれの刃に火、水、風、土の精霊王が封じ込められていて……。

 魔王を倒すのと引き換えに大地から精霊力が完全に失われてしまい、ファンベルトが守った国土は今、砂漠化が急速に広がっています」


 ナルサスは平静を装うとしたが、それに失敗して驚く他無かった。

 今、話題となっている『四至宝剣』とは、ナルサス自身が造り、6代目勇者へ与え、6代目勇者の仲間4人が使った武器である。

 そして、6代目勇者とその仲間達がとうの昔に天寿を全うしている今、その存在を知っているのはナルサス1人しか居ない筈だった。

 挙げ句の果て、6代目勇者とその仲間達が知らないまま逝ってしまった秘密すらもアオイが知っていると知り、ナルサスは顔を伏せながら酷く疲れた様な溜息を深々と漏らすと、視線をアオイへと戻して問わずにはおれず問いた。


「改めて、聞きたい。何故、私を知っているんだ?」


 アオイは数瞬だけ口籠もって逡巡した。真実を語っても良いのだろうかと。

 しかし、ここまで話しておきながら口を噤むのは不審を生むだけであり、信用を得る為に真実を明かすべきだと改めて決意して口を開く。


「読んだんです。本で……。」

「読んだ? 本?」

「そう、本です。

 私自身、未だ信じられない話で……。少し長くなりますが……。」


 だが、アオイの言っている意味が解らず、口元を訝しげに曲げて、首も傾げるナルサス。

 アオイは心の中で『やっぱり、そうなるよね』と呟いて、苦笑を堪えて頷くと、7冊の本との出会いから語り出した。




 ******




「なら、書いてあるのか! 俺の旅の結末も!

 俺はどうなった! 成功したのか! 助ける事は出来たのか!」


 少し長くなると言ったアオイの話は休憩を二度も途中で挟むほどに長くなったが、ナルサスはたまに質問を挟みながら、その話を真剣に聞き入った。

 特に1代目と2代目の勇者の冒険譚は遺跡などの壁画で現世に伝えられているのみ。それをまるで見てきたかの様に語るアオイの話は実に興味深く、面白いものだった。

 しかし、それが6代目の勇者の冒険譚。ナルサス自身が関わってくる話へ及ぶと、まるで見てきたかの様に語っているだけに恐ろしくなってきた。

 そして、6冊目の話が終わり、7冊目へ至った時、もう黙って聞いていられず、ナルサスは気付くと、座っている状態から右足を立てて、アオイへ身を乗り出しながら怒鳴り尋ねていた。

 何故ならば、今から10年前後の未来、この大陸に魔王が現れる事をナルサスは知っていた。即ち、7冊目とはこれから起こりえる予言書に他ならないのだから、その内容が気になるのは当然と言えた。

 ただ、ナルサスは興奮するあまり気付いていなかった。その口調が乱暴なものとなっており、一人称も『私』から『俺』に変わっているのを。


「ご、ごめんなさい!

 そ、その……。な、7冊目は主人公は……。た、多分、私だと思うんですけど……。

 しょ、召喚された先のページは真っ白で何も書いていなくって……。そ、その後は何も……。」


 その結果、アオイはすっかり怯えきった。

 アオイは両掌をナルサスへ突き出しながら、座ったまま身体を仰け反らせる。その見開ききった目は今にも零れ落ちそうなほどに涙をじんわりと溜めて、前歯をカタカタと小さく鳴らして言葉を振るわせた。


「くっ……。そうか……。

 いや、済まない。つい声を荒げてしまって……。」

「い、いえ……。」


 ナルサスは自分の失敗に気付き、落ち着きを取り戻して体勢も戻すが、2人の間に出来た気まずい雰囲気は解けない。

 7冊の物語について語る。アオイにとって、それはいつ以来かも解らない他人との長時間の会話だったが、それが趣味に通じるものだったからだろう。最初こそ、ぎこちなかったが、その口はゆっくりと滑らかになり、最後は楽しそうに、嬉しそうに同好者を見つけたかの様に語っていた。

 だからこそ、ナルサスの欲望を露わにした豹変はショックだった。アオイの緊張が解けて、せっかく打ち解けかけていたものが全て水の泡。ナルサスへ向ける警戒心は初対面時より後退して深まってしまった。

 これ以上の会話は難しいと判断して、ナルサスは後頭部を掻きながら天を仰ぐと、天井に空いた大穴から見える夜空はいつの間にか白み始めていた。


「さて、そろそろ夜が明けてきた。

 今度は私が眠らないといけない。知っての通り、吸血鬼だからね」

「えっ!? ……あっ!? は、はい、そうですよね」


 なんともタイミングの良すぎるタイムアップ。

 ナルサスが失笑を漏らして立ち上がると、アオイも慌てて立ち上がった。その際、アオイが抱える不安と警戒を表して、思わず右手がナルサスへ中途半端に伸びる。

 言うまでもなく、ナルサスはこの世界の住人。何処かに自宅を持っている筈であり、その言葉が自宅へ帰ると言う意味に取れたからである。

 物語を語る途中、二度あった休憩の際、アオイは用を足しに外へ行き、ここが木の生えていない山の中腹にある建物だと満月の月明かりを頼りに知っていた。

 その上、地平線に見える遠く離れた人里と思われる明かりへ辿り着く為、眼下に広がる圧倒的な山裾の森を越えて行かなくてはならない事も知っていた。

 つまり、人里へ独力で向かうのも無理なら、こんな寂しい場所に1人で居るのも無理。今さっき、ナルサスを拒絶していながら、アオイは利己的な理由でナルサスを絶対に必要としていた。


「んっ!? ……ああ、安心して良いよ。

 乗りかかった船だからね。暫くは……。そう、君が独り立ちを出来るくらいまでは一緒に居てあげるから」

「ううっ……。あ、ありがとうございます」


 そんなアオイの不安を察して、口元に微笑みを描くナルサス。

 その言葉が心に染み入り、アオイは卑怯な自分を自覚して嫌悪しながらも、不安に張っていた気を緩ませて涙腺も緩ませる。


「但し、私の指導は厳しいよ? 付いてこれるかな?」

「私、頑張ります! 何でも言って下さい!」

「なら、第一歩目。とても重要な事だ」

「はい!」


 だが、アオイは鼻を思いっ切り啜り、次から次へと零れ落ちてくる涙を右腕で拭い去って、涙を懸命に堪える。

 それでも、身体はまだ嗚咽を込み上げさせていたが、ナルサスを失望させてはいけないと、泣き顔のままでナルサスを真っ直ぐに見据えた。


「私の名前はナルサス。夜の支配者、吸血鬼にして、神秘の探究者に御座います。

 さて、異世界からの来訪者にして、7代目の勇者よ。貴女の御尊名をお教え願えませんか?」

「……あっ!?」


 ナルサスが開いた右手を胸に当て、左手は体と水平に伸ばして、右足を引きながら頭をゆっくりと下げる。

 そのやや芝居じみたお辞儀を捧げられ、アオイは今更ながらに気付く。知り合ってから、もう数時間は経っているにも関わらず、自分が未だ名乗っていなかったのを。




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