翌朝、マキナは晴れやかな気持ちで屋敷を出た。
聖女様に嫌がらせをした悪役令嬢の見送りなど、当然あるはずがないとわかっている。
侍従たちにも見送りはしなくてもいいと告げておいた。
無実の罪とはいえ、聖女に無礼を働いた犯罪者に寄り添えば、その者も罪に問われかねない。
見送りはないのかと御者に問われ、マキナはこのまま出発するように告げると遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「マキナ様! 私もお供いたします!」
「クラスト様、どうして……」
近衛騎士団の団長が城塞都市を離れることなど、あるはずがない。
それでも最後に彼の顔を見ることができてホッとしていたマキナだったが、まさか彼が自分と一緒に前線基地へ行くことになるとは全く予想していなかった。
「クラスト様は城塞都市を守る義務がございます! どうしてそうまでしてついて来てくれるのですか」
「あの聖女の言葉には引っかかる部分が多々あったにも関わらず、最後まで国王陛下を納得させることができなかった私の不徳の致すところなのです。マキナ様は誰かを貶めるような令嬢ではない。それなのにあなただけを前線基地に向かわせるわけにはいかないのです」
「そのお気持ちはとても嬉しいですが、それでは国民を守る貴重な人材が失われることになりますのよ」
「最前線で魔物を全て食い止めればいいだけの話です」
「それが不可能だから、今まで戦争が終結しないんじゃないですか!」
「だが今回は聖女がいる。そうでしょう? いくら王子と婚約を交わしたとはいえ、聖女としての責務を全うしないわけにはいかない。近い内に聖女様も最前線へ送られることでしょう。楽しみですね」
そう言って微笑む彼の顔は、マキナの心を安心させた。
愛する人に裏切られ、謂れもない罪を着せられて、断罪として死地に送られることになり、マキナの心はずっと悲鳴を上げていた。
誰にも相談出来ず、誰にも信じてもらえず、反論することさえ出来ずにいたマキナにとって、クラストの存在はこの上ない救いだった。
(強がることが魔法の発動条件ですって? なんて意地の悪い魔法なのかしら)
優しく理解してくれるクラストに、こんなにも弱さを見せてしまっている自分が強いわけがない。
昨日、心の奥にあったわだかまりは全てなくなったと思っていたのに。
(攻撃に対して強くなる魔法なんだったら、わたくしのこの弱すぎる心も強くしてくださらないかしら)
自分は他人が思っているほど強くなんてなかった。
難しい勉強が嫌で堪らなくて、何度も投げ出しそうになっていたのだから。
それでもやって退けたのは愛する人が信じてくれたからだ。
その人の為なら頑張れた。
もっと頑張ろうと思えた。
いつしか弱さを見せることがなくなり、涙も見せなくなる。
か弱い王妃など必要とされないから。
(でも本当はずっと、ずっと……辛かった! 泣きたかった! 剣を振るう才能も、攻撃魔法も、補助魔法も、回復魔法も、魔法道具を作る才能も何もないわたくしが弱さなんて見せたら、リカルド様に捨てられると思ったから!)
だからずっと笑顔でいようと思った。
気丈に振る舞い、自信に満ち溢れ、強気に振る舞うことで自分の弱い心をひた隠していただけだ。
「大丈夫ですか、マキナ様」
クラストの心配する声が、心に深く沁み渡っていく。
いつの間にか泣いてしまっていた。
涙が止まらない。
ずっと張り詰めていた何かが、とうとう決壊してしまった。
「ごめんなさい、今だけ……今だけ許してください」
クラストの優しさが、心に沁みる。
吹っ切れたと思っていたのに、心のどこかでクラストと別れたくなかったのかもしれない。
だからこうしてクラストが自分と一緒に来てくれると言ってくれた瞬間、崩壊してしまった。
自分はもしかしたら彼のことを――。
***
前線基地、魔族の王が住んでいるとされる魔王城が目視で確認できるほどの距離にそれは作られた。
周囲は激戦に激戦を重ねた証拠だろう、瓦礫と岩だらけの焼け野原には戦いで倒れていった魔物の死骸が転がっているだけだ。
血と肉や瓦礫が焦げた臭い、そして腐臭が混じる風で胃の中に入ったものを全部吐き出してしまいそうになる。
こんな場所でずっと戦いが続いているのかと思うと気が狂いそうになった。
早く終わらせなければ、という思いが一層強くなる。
拠点となる場所まで移動すると、疲れ切った騎士たちが出迎えた。
戦況は芳しくないようで、日に日に魔物の襲撃回数が増えているとのことだ。
このままでは前線基地は突破され、街が襲撃された時と同じように。いや、それ以上の魔物が押し寄せ被害は甚大なものになるだろう。
「聖女様が現れたと聞きました。聖女様はいらっしゃってないのですか」
希望に満ちた彼らの顔に、絶望を貼り付ける答えしか持ち合わせていなかった。
しかし終わりを告げるわけではない。
「今は王城で聖女としての力を高めているところです。それが終われば聖女様も前線基地まで足を運んでくださいますわ。そうすれば聖なる力で魔物を一掃してくださいます。それまでわたくしたちでここを守っていきましょう!」
正直自分で言ってて悲しくなる。
あの聖女がそこまで考えて行動しているだろうか?
本当にここまで来るつもりはあるのだろうか。
言ってる自分が一番疑っていた。
騎士や兵士たちに言葉をかけていき勇気づけていく。
死と隣り合わせの場所で戦い続けて、精神の方が先に参っている者が多かった。
実際、聖女の力が本物ならば今すぐにでもここへ来て魔物を一掃して欲しいくらいだ。
だがそんな悠長なことも言ってられなかった。
襲撃を知らせる警戒音が鳴り響く。
マキナたちがテントから出ていくと、激しい地響きが足を震わせるようだった。
遠くから大小様々な魔物が突撃してくる。彼らはあんなものと毎日のように戦っていたのだろうか。
「こんな大群で押し寄せてくるのはもう何年もなかったのに、どうして」
「もしかして、聖女が現れたことが向こうにも知られたのか!?」
「それで総攻撃を!? 無茶だ、勝てるわけがない!」
陣形が崩れていく。恐怖が彼らの心を支配していく。
このままではきっと全滅だ。
マキナが戦場に出るのは初めてだった。
恐怖で体の震えが止まらない。
マキナも泣いて逃げ出したかった。
「下がっていてください、マキナ様」
「クラスト様! あんな大群、無茶です! 怪我では済みませんわ!」
(あんなものを相手にしたら、クラスト様が死んでしまう!)
「私はあなたを守る為にここまで来たんです!」
「ど、どうしてそこまでして、わたくしなんかの為に……」
胸が張り裂けそうだった。
今さら気付いてしまう自分が呆れるほどバカだ。
「どうやらいつの間にか、あなたのことがどうしようもなく好きになってしまったようです」
「クラスト様!」
しかし伸ばした手は届かない。
戦いに向かっていく彼の背中を、この動かない足は追いかけてはくれなかった。
迫り来る巨体、鋭い牙、野蛮な武器が自分たちを容赦なく襲ってくる。
「わ、わたくしはまだ……っ! あなたのことを全て知ったわけではありませんわーー!!」
腹の底から声を張り上げることで恐怖を払い除けたマキナは、自分のことを好きだと言ってくれた男の背中を追いかけた。
追いかける最中、右手方向から騎士の呻き声が聞こえて振り向く。
魔物はすでにこんなにも接近していたことに驚き、マキナは身構えた。
「あなたなんかに! 私の歩みを止めることなんて! 出来ませんわ!!」
振りかぶった棍棒はマキナの頭部を直撃するも、粉砕したのは棍棒の方だった。
何が起きたのか混乱したトロルは棍棒を投げ捨て自らの拳でマキナを叩き潰そうと振りかざす。
これがマキナの左半身を直撃するが、びくともしない。打撃どころかその衝撃すらもマキナには通用しなかった。
その隙に背後から走り出た数名の兵士がトロルに斬りつけ、重傷を負わせる。反撃に出たトロルであったが、マキナが兵士の盾となって払った腕を受け止めた。
「お嬢さん、あんた一体何者なんだ!?」
「いいからとどめを刺してくださいませ! わたくしは攻撃を受けることしか出来ませんの! 敵を倒す術は持ち合わせておりませんので、後はよろしくお願いいたしますわ!」
「わかったぜ勝利の女神さん!」
「お前ら、戦場の乙女について行け!」
「おお!!」
「は、恥ずかしいからその呼び方はやめて欲しいですわね……」
襲い来る魔物の攻撃をマキナが受け止め、その隙を突いて味方が攻撃する。これを一通り繰り返しマキナは前に進んで行くことが出来た。
(まだわたくしからは何も伝えていませんわ! 自分だけ思ったことを先に言って、すっきりさせるなんて許しませんわよ! わたくしだってクラスト様にお伝えしたい気持ちがあるんですもの!)