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第3話 社畜OLの戦い(私視点)

 目覚ましの音で目を覚ます。

 午前6時。

 しっかりと閉じたカーテンの隙間からまだ寒さの残る日差しが差し込んでいた。

 春はまだ遠い。

 上半身を起こしてしばし布団の上でぼーっとする。

 あくびを噛み締め、布団から出た。

「ふあ~……あ?」

 私はようやく部屋の惨状に気がついた。

 開け放たれた寝室の向こう側――リビングの至る所に蜘蛛の巣のように張り巡らされる黒い糸が! 

 一番手近な箪笥をぐるぐる巻きにしていた黒い糸をひと房掴む。

さらさらつやつやのそれは女性の黒髪だった。

 気持ち悪……!

 部屋中を飾っているこれ全部……。

「……夢じゃなかったの?」

 私は軽く眩暈を覚えた。

 昨夜、地震の揺れで目覚めて、空中に浮く捨てたはずの雛人形を見た。

 若干面食らったけれど、おそらくアレはお酒が見せた悪夢で、寝なおせばいい夢に変わるかな……なんて思って窓からその雛人形を投げ捨てた。

 実際その後見たのはすごくいい夢だった気が――ハワイのビーチで架空の彼とキャッキャするような燃え上がる恋の……。

 現実が不気味な黒髪塗れの部屋なせいで夢の余韻は台無しだった。

「くそぅ……これ掃除すんの私? あの占い師何が川に流せばいいよ! 帰ってきちゃったじゃない! どうすんのよ! もしかして私不運なまま!? 三万円の犠牲はなんだったの!?」

 頭をかきむしりながら、部屋中の黒髪をゴミ袋に集める。

 朝っぱらからの掃除機は左右下の隣人にも迷惑なので掛けられなかった。

 おまけに昨夜の地震の影響か、割れた食器類も散乱している。

 なんて不運……おかげさまで三十分は片付けに費やすことになった。

 今は6時40分。

「ああもう! ご飯食べる時間も無いじゃない!」

 私は急いで鏡台の前に。

 髪とお肌を整える。

 化粧は女の命だ。

 お隣さんたちの部屋からも目覚まし時計やテレビの音が微かに聞こえてくる。

「行ってきます!」

 スーツを身に纏った私は仕上げに薄く口紅を塗って家を出る。

 さて、今日も始まる私の一日。

 満員電車に揺られて30分。

 都心の、妙にスーツが高そうな人たちが行き交う街角。

 画一的なビル街のにある一つのオフィスビルが、私の勤務する会社だった。

 本当、見てくれは立派だ。

 見てくれだけは……ね。

「よーし、今日も残業がんばるぞ!」

 私は自分を鼓舞する為の呪文を呟いて、他の社員に混じって元気よく自動ドアを抜けた。

                ***

「七草さん、ちょっと」

「はい、落合課長」

 私は上司――落合優尾おちあいやさお(35歳・妻子持ち)に呼ばれた。

 時刻は19時を回り、窓の外は夕闇に沈んでいる。既に残業1時間目に突入済みだった。

 ……やっぱり最初から残業があると思って仕事をすると、不幸だとか不運だとか考えずに仕事ができる。

 感覚がしっかりマヒしている気がするけど……気にしたら負け!!

 落合課長は私の提出したデータをパソコン上で確認して、頷く。

「うん、よくできている。一つのズレもないし、報告が読みやすい。更にスピーディときたものだ。本当に君は素晴らしい」

「あ、ありがとうございます」

 突然褒められて、私は頭を下げる。

 ……もしかして、もう帰って良いとか言ってくれる流れでは?

「で、まだ佐藤さんと鈴木さん、それから新井さんのデータが未納入なんだけど……もし良かったら七草さん彼女らを手伝えるかな?」

 私は笑顔が引きつらないように顔全体の筋肉を締めた。

(いやいやいや! ちょっと待って? 一人分じゃないの? 三人分!? なんで? 今日も22時過ぎ上がり!? どーして!?)

 心の中で私が叫んでいる。

 お願いという名の強制命令に屈するなと。

 たまには早く帰らせろと。

 だけど、私は心の中でスパン!と私をひっぱたいた。

(やるしかないの! これが社会人よ。辛くても不幸でも不運でも! 戦うのよOL……いえ、キャリアウーマン!)

「……あ、はい、わかりました!」

 学生時代コンビニバイトで鍛えた営業スマイル。

 落合課長は安心したように微笑んだ。

「君ならそう言ってくれると思っていたよ……その、よかったらどうだろうか? 今度一緒に食事でも」

「…………えーっと?」

 ん? んん?

 私は落合課長の紳士なスマイルの意味がわからなかった。

 落合課長と言えば妻子持ちで有名だ。

 お昼はよく愛妻弁当をつついているし、スマホの待ち受けにはお子さんが写っている。

 ……その落合課長が私と食事?

 固まっていると、彼は私の肩を優しく叩いた。

「いや、冗談だよ冗談、はっはっは」

「あ、そ、そうですよね。課長ご家族がいますよね。あはは、ははは……」

 課長のスマートな笑い声に合わせるが、彼の目は妙に熱っぽくって、ちょっと……うん。

 これは本気なんじゃないかという不穏な考えが一瞬頭をよぎった。

「じゃあ、頑張って七草さん……これ、私のプライベート連絡先だから、気が向いたら連絡して」

 後半はぼそぼそっと耳打ち、私の掌に紙きれを一枚握らせる課長。

 更にウインクまでついてくる始末。

 これは嫌な事を知ってしまった……。

「……し、仕事、が、頑張りますね課長!」

 私は笑顔だったが、

(この不倫野郎! 女の敵め! だ~れが連絡するか! てかあんたが三人分仕事片付けろ! それで私を帰らせろ!)

 と、心中穏やかではなかったわけで……。


                ***


 ノブを捻ると水が渦を巻く。

「……よし」

 落合課長のプライベートの連絡先が、トイレの闇の向こう側へとしっかり流されるのを確認する。

 詰まるかもしれないけど、こういうのは水に流すのが一番安全だ。

 下水道に追いかけに行かない限り誰かに見られることなんてない。

 個室から出て手を洗っていると、姦しく三人娘が入ってきた。

「あら、ひな子さんじゃないですか~」

「さっき、課長となに話してたんですかぁ?」

「課長は私達のモノですから、近づかないでくださいよ~、お・ば・さ・ん?」

 彼女らは社内で有名なお茶くみ女子である。

 佐藤鈴木新井の三セットで現れる。

 名前と顔が一致しない。

 面倒なので私はまとめて姦しガールズと呼んでいる。

 一応同期扱いだ。

 特に仕事をするわけでもなく毎回居残り、残業代はきっちりともらっていく謎の生体をしている。

 私の残業はこの子たちの仕事の後始末なことが多い。

 もちろん、私とは気が合わないどころの話じゃない。

 言葉の通り彼女らは落合課長を狙っている。

 彼はエリート大学出の昇進組という肩書を持ち、甘いマスクに、30歳にして鍛え上げられたスマートボディ……。

 そりゃまあ社内の女性からすれば憧れの的だろう。

 愛人関係でも構わないと考える女子がいても不思議ではない。

 だが、私は不倫男NGだ。

 不潔よ不潔!

「あー、水気持ちいいな~目が覚めるな~」

 彼女らにメモをもらった事がバレれば面倒くさいこと間違いなし。

 ここは顔を洗うフリで乗り切ろう。

「あ~、無視ですかぁ? またお茶かけちゃいますよ~?」

「仕事ができるから私たちの事下に見てるんでしょ~? 手元が狂ってお茶がこぼれちゃうかも~」

「課長に仕事出来る出来るアピールしても無駄ですよ? 私達のお茶があなたの書類をダメにしますからね? お・ば・さ・ん?」

 笑い出す姦し娘たち。

(お茶かけることしかできないのかあんた達は……)

「…………」

 私は無言で彼女らの隣を通り抜ける。

 廊下に出てもまだ笑い声が聞こえてきた。

 私は笑い声が届かない自販機コーナーまで歩いて、誰もいないのを確認してから、壁を殴りつける。

「お茶は仕事の邪魔をする道具じゃないし、私はまだ27歳よ! 5歳くらいしか違わないじゃない! ばかァ!!」

 あーむかつく! 何度あの子たちのお茶に完成した書類をダメにされた事か……。

「いつか絶対ぎゃふんと言わせてやるんだから!」

 私は自販機でいつものお水……ではなく若者が好みそうなペプシを買って一気に煽った。

「げっほごっほ! げ~っほっほ! なにこれ炭酸キッツ!! 今の若い子達はこんなん飲んでるの!?」

 分かり切っていたことだけど、今日もやっぱり22時過ぎまで残業だった。

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