ルダは、石の寝台の上にいた。ローブに身を包んだ三人の老人が自分の身に何かを送り込むむず痒さを感じながらも、何もできない。
「メルキ、名前はどうする」
一人が問うた。
「ベルノーク……古い言葉で『抵抗』を意味する言葉だ。十分、相応しいだろう」
昼の魔力灯のような、ぼんやりとした意識の中では、その言葉の意味を精査できないでいる。ただ、頭に流れ込むエネルギーの流れが、彼を起きているのか寝ているのかも曖昧な状態に保っていた。
「まずい、イゼルハートが来る……」
イゼルハート。そう、イゼルハートだ。皆を殺した魔族だ。
「お前が!」
そう叫んだ時、彼は起き上がっていた。周りを見渡せば、梁から吊り下げられた魔力灯の光に照らされた屋根裏部屋だった。開け放たれた窓からは星空が見える。至って質素なその空間は、彼が乗っている寝台と灯り以外、机と椅子のワンセットしかなかった。
掌を見る。人の肌の色をしていた。甲殻はどこにもない。顔を触る。人の温かさだ。
「戻った、のか……」
胸元を見れば、青色の簡素な服のまま。
「服が破れたわけじゃない……僕は、カマキリみたいなやつを殺して、殺して、ころ、し……?」
手が震え出す。お前は一つの命を消し去ったのだ、とせせら笑うような声さえ聞こえる。
「仕方ないじゃないか、人間を食ったんだぞ、許せるはずがない」
誰に、ということもなく言い訳を始めた彼は、頭を抱えて悶えだし、ベッドから転がり落ちた。その音を聞きつけて、階段から住人が上がってきた。
「あの~……大丈夫ですか?」
声をかけたのは、なんてことのない少女だった。少し癖のあるアッシュブロンドの髪に、そばかす。だが、最も目を引くのは瑠璃の瞳だった。
「怪我とか、してないですか?」
彼女は水の入ったガラス瓶とグラスの乗った盆を持っていた。
「痛んだりは……してない」
ぶっきら棒な態度でルダはそう言って、ベッドに腰掛けた。
「びっくりしましたよ、森に薬草を取りに行ったら人が倒れてるんですもん」
「あのカマキリ男は……」
「とりあえず、森の中に埋めておきました。食べられた方も」
少女は水を注いだグラスを机に置いた。
「魔族、だったんですよね」
「……うん。人を食ってた。だから、殺した」
ルダは、どこか自分の言葉に拙さがあることを感じ取っていた。
「僕は、止められなかった。気が付いた時には体が動いてた。殴ったんだ。そしたら、殺し合いになった」
「武器もなしに魔族に勝てるなんて、何者なんですか? 魔法使いの方ですか? にしては若すぎますけど……」
どう答えるべきか迷った彼は、数十秒の沈黙の末、
「少し、魔法が使えるだけだよ」
とだけ言った。
「え⁉」
途端、少女は大声を挙げる。
「魔法教えてください! 私、修行中の魔法使いなんです!」
「いや、その、えっと……」
ラピスラズリのような瞳が憧れを孕んで、彼をまっすぐに見つめる。
「……嘘、なんだ。僕は、魔族に、されてしまったんだ」
少女の体が止まる。
「君を殺すつもりはないけれど……いつ、僕が暴れ出すか自分でもわからないんだ。心は人間だと言われても、僕自身怖いんだよ」
こう言って放り出されれば、それで全て解決するだろう。それが、彼の目論見だった。しかし、現実は違った。
「同じですね」
予想だにしなかった言葉が、彼を包む。
「私も、魔法を制御できなくて人を傷つけてしまったんです。怖くて、逃げ出したくなった。でも、どんな力も正しい使い方があるって、先生が言ってました。魔族の力だって、人のために使えると思います」
そこまで彼女が話したタイミングで、階段から一人の老婆が顔を出した。
「ウーケや、話し込むのもいいけど、そろそろ暖炉に火を入れてくれんかねえ」
「あ、先生! すみません、今やります!」
ウーケと呼ばれた少女が、急ぎ足で階段を下る──と思われた、一瞬。彼女は数段下ってから戻ってこう言った。
「暖かくするので、いつでも下りてきてくださいね」
静かになった空間で、彼は水を飲み干した。
(僕は、ここにいていいんだろうか)
イゼルハートが自分のことを追うのであれば、長居はできない。そう判断した彼は、馬鹿正直にそのことを伝えに向かった。
ギシリ、と軋む階段を一段一段下りていきながら、少し後悔もあった。窓から飛び出して走り去っても良かったのでは、と。だが、救ってくれた恩と、できることなら一食でも頂けないかという打算的な感情も合わさって、下へ進む脚を止められなかった。
ウーケの住まう家は、パン屋であった。この時代、誰もがパンを焼ける窯を持つことなど不可能であり、そして毎日新しいパンを食べる余裕もなかった。
だが、ウーケを含めたエレイオン家は、毎日柔らかいパンを食べることができた。豆のスープと、白パン、羊の干し肉が長方形の食卓に並んでいる。
「あ、食べます?」
ウーケがルダに気づいた。
「貰って、いいのなら」
「いいに決まってるじゃないですか。ね、シカイさん」
シカイと呼ばれたのは、母親らしき人物だ。その彼女は力強く頷き、
「まだ子供でしょう? たんとお食べなさい、えっと……」
「ルダ。ルダ・ファレスト」
「ルダくん。ようこそ、エレイオン家へ」
奥に父親らしい男性が座り、その斜め前の二つにシカイと祖母らしい女性が着いている。ウーケはさらにその隣にいて、ルダは彼女の向かいの席を勧められた。
彼は、ざっと家族の顔を見渡した時、誰も娘と似ていないことに気づく。灰色がかった髪も、宝石のように碧い瞳も、全く以て共通していない。
「……私、義理の娘なんです」
まじまじと顔を見ているのを悟り、ウーケが口にする。
「でも、住み込みの弟子なので、家族は家族ですよ」
「なんか……ごめん」
「そういうルダさんは、どうしてあんなところにいたんですか?」
豆のスープを口に運びながら、全ての真実を告げるべきか、彼は悩んでいた。あちらがオープンにしてくれるのなら、こちらばかりが黙っているわけにもいかない。家族の事情に踏み込むようなことをした負い目もある。だが、思い出したくなかった。
「色々、あって」
結局、言えたのはそれだけだった。
パンはふかふかとしていて、バターの風味さえある。それを作るための綺麗な水に、彼は自分の顔を映した。目が、赤い。
「どうしました?」
「僕の目、赤い?」
「そうですけど……」
ウーケがきょとんとして呟くように言う。だが、すぐに状況を理解した。
「もしかしたら──」
言葉は続かない。外で起きた爆発音に掻き消されたのだ。
「何⁉」
彼女は素早かった。慌てつつも立ち上がり、部屋の壁に立て掛けられた真っ黒な木の杖を取る。長さにして百二十センチほどだろう。持ち主の肩ほどまであるそれを握り、ウーケは家から駆けだした。
目にしたのは、消し飛んで滓同然に燃える、家だったもの。胴体を失って転がっている手足も見える。
だが、一番に目立つのは、空に浮く三本角の魔族──イゼルハートだった。
「出て来いよ、ベルノーク!」
空中から呼びかけられて、ルダも手を震わせながら外に出た。
「なんだ、擬態してんのか。見せな、お前の真の姿を」
「……まだ、殺し足りないのか」
「殺しってのはいくらやってもいいものだろ? 素直になれよ……魔族ってのは自由に生きていいんだぜ」
「そんな自由、僕はいらない」
イゼルハートはすっと降り立ち、崩れた家の瓦礫を蹴り飛ばす。そこに隠れていた五歳程度の子供が、持ち上げられた。
「俺はガキと女が好きでね」
と言うと、その首にかぶりついた。あふれ出る血の中で肉を貪り、投げ捨てる。
「今すぐ俺に下るのなら、このガキを食わせてやる」
「……さない」
「ア?」
「許さないと言ったんだ! この、クズが!」
燃え盛ったルダの心に呼応して、炎の中に放り込まれたような激痛や灼熱と共に肉体が変質していく。魔核が服の下から輝くと、疑似神経組織によって全身にいきわたった魔力が、黒い甲殻を生み出して体を覆っていく。次いで、真っ赤な目をしたマスクで顔が隠れた。怒った獣のような唸り声が、仮面の下から漏れ出る。
「そうだ、それでいい!」
二人の拳が、交わった。