首都オバルからレソトに渡る航路は、少し長い。海峡を西に進み、その後オッサロセア共和国との国境に当たるこれまた海峡を北上、回り込むような形で港に入る。
海上にいるうちはあまり感じなかった寒さも、夜の桟橋に降り立つと何故だか一層強く少年少女に当たった。
「まず宿に行くぞ」
ディアルクは何も感じていないような表情で先を進む。念のため上着を持ってこい、と事前に言われていた新人たちは、その指示に感謝するばかりだ。
既に季節は春となった。それでも、山から吹き下ろす冷たい風に晒されたこの街は、静かな冷酷さと共に家路を急ぐ者たちを殴っていた。
夕暮れの真っ赤な光の中を歩き、四人は街中に構えているホテルを訪れた。四階建ての、飾らないものだ。木製のフレームが露出し、漆喰で外壁が作られていた。
「軍の宿舎使えばいいのに」
台帳に名前を書くディアルクに、ルダが言った。
「ここの主人とは顔馴染みでな。頼るのが礼儀だろう」
受付をしているのは主人の娘。柔らかな顔で少年少女を見回した後、鍵をディアルクに渡した。
「先にお食事はどうですか」
娘が言うので、彼は辺りを見渡す。酒場となっている一階は、週末の癒しに賑わっていた。エール片手にローストビーフや白身魚のフライを口に運び、時折下品なジョークで笑う。そんな、大して珍しくもない場所だ。
「そうしよう。酒以外の飲み物を出してくれ」
背嚢を床に置いて座ったルダに、無精髭の壮年が近づく。
「坊や、ディアルクさんの弟子かい」
壮年は白髪混じりの髪を後ろで纏めている、疲れを滲ませた顔の男だった。
「そうだよ。これでも魔族を倒してるんだ」
「にしちゃあ金があるようにゃ見えねえな。訳アリか?」
酒の臭いを漂わせながら、男はルダに顔を近づける。だが、少年はじっと堪えていた。
「ま、何でもいいか。お前さんがこの街にいる魔物を追っ払ってくれるなら、どんなワケがあろうが、俺には関係ない」
そう言うと、男はエールビールを少し飲んだ。広口のグラスから立つ馨しさ。
「坊ちゃん、幾つだ」
「十七」
「うちのガキとは大違いだな。あいつ、大学に行ったはずが毎晩歓楽街で遊んでやがる。坊ちゃんはそうなるなよ」
「ダイガクって何さ」
その飛び出た疑問に、男は何かを察したようにグラスを置いた。
「まず連邦学府に行くだろ? そこから更に勉強するために行くところだ」
「勉強好きな人もいるもんだなあ」
呆れたかのような声音でルダが零した。
「単に勉強するだけじゃねえ。世のため人のため、魔法や科学を研究するのさ。坊ちゃんが使う魔法だって、そういう人が作ってんのさ。うちのガキだってそういう仕事をするもんだと思ってたが……」
息子への愚痴を呟く男から目を逸らす。聞いたって仕方がない。それに、黒魔法について触れられればぼろを出す自信があった。
そっと立ち上がって、ウーケの方に向かう。格好のいい女と話していた。マフラーを椅子の背にかけ、林檎酒片手に脚を組んでいる。だが、その背丈はウーケよりも低い。もう片手には五本弦の楽器が握られていた。
「君は小さいねえ。私たちタルカに紛れることもできるかもしれないねえ」
「アハ、アハハ……」
困って笑うしかない彼女の隣に、ルダは腰掛けた。
「お姉さん、タルカって種族?」
「ああ。こうも小さいと音楽くらいしか生きる道がなくてね。一曲歌ってあげようか?」
返事を待たず、タルカの女はグラスを置いて楽器を腿の上に乗せる。
「若き戦士たちに、一曲」
タルカ族は、マナ不感と呼ばれる特殊な性質を有している。その名の通りマナを感じ取ることも取り込むこともできない。従って、行使できる魔法はオドで補える分だけ、とアシェリスの正反対とも言える存在だ。
そこに小さな体が相まって、就ける仕事は限られてくる。オドによる身体強化を使ったとしても絶対的な筋力量の不足から、重労働は不可能だ。
「だが、職人や芸術家として名を残す者も少なくない」
いつの間にか近くに来ていたソウマが言う。
「レソトの水道は、タルカ族が設計したそうだぞ?」
「そんなこと調べる時間あった?」
「そこの飲んだくれが言っていたよ。今じゃ潰れてしまったが」
彼が親指で指した先に、酒瓶の前で突っ伏している大男。呆れたオルメアの女に背中を叩かれている。
「オレたちは、何か残せるだろうか」
ゆったりとしたリズムの曲の中、ソウマが呟く。
「あと何年生きるのかもわからないのにね」
ルダの返しに、セリアードの少年は優しく微笑んだ。この先、楽な人生は待っていないと、誰も理解していた。それでも、まだ何か、明るいものが存在することを願ってもいた。
◆
真っ暗な闇の中を、黒い狼が走っていた。レソト近傍、緩やかな傾斜に位置する畦道の上だ。その口は真っ赤に染まり、肉が端から垂れていた。
今しがた、人を食った帰り道。不用意にも出歩いた農夫が、腹を開かれて、傍の畑で内臓を零しながら死んでいた。
狼は黒い炎のようで、その輪郭は一定ではない。そう、魔物だ。
魔物はひたひたと舗装されていない道を進む。山にある住処へ戻らんとしているのだ。新月が夜闇のどこかに隠れ、星々の僅かな灯だけが道路を照らす。
だが、民家の前を通り過ぎた所で、目の前に男を認めた。
「何人食った」
蒼い甲殻に身を包み、右手に黒い電を纏った剣を握りしめる、男。その名はディアルク。
「聞いても栓無きことか……」
呟いた彼の前で、狼が後ろ足で立ち上がる。すると、全身の筋肉が高波が襲う海のように盛り上がって、その様相は狼というよりも熊に近いものとなった。
魔物が右腕を大きく振るって、パンチを繰り出す。素人丸出しの、見え透いた一撃だ。それをディアルクは片手で受け止めた。そのまま手を引いて、投げ飛ばす。
それでも、熊は怯まない。軽業師のように着地し、一気に駆け出す。爪を剣のように伸ばして、乱暴に襲い掛かった。
二、三度斬り結ぶ。熊の斬撃は容易く地面に埋まった岩を裂くも、ディアルクの甲殻を断つには至らない。
彼は爪を受け流しつつ、踏み込む。左拳で顔を打ち、嫌がった魔物の左脇腹に剣を突き刺した。噴き出す黒い体液。深く、鍔が肉に食い込むまで差し込み、一気に引き抜く。
魔物が蹌踉としたのを確認し、彼は跳び上がる。回し蹴りが顎骨を叩き割り、尖った牙が散った。
魔物は、獣的本能によって、それがすぐ治ると思っていた。しかし、そうもいかない。黒魔法を極めたディアルクの一撃は魂に響き、再生を無効化していたのだ。
「次生まれることがあれば、まともな動物になれるといいな」
彼の剣が両足を払う。落ちた胸に、刺突。心臓を貫かれた魔物は倒れ伏して、灰となった。
「このレベルの魔物が発生しているのか……あいつらは街から出さない方がいいな」
僅かに残った、赤黒い八面体を彼は拾う。核だ。それを口に運び、飲み込んだ。口腔に広がる、苦い味。生きた虫をそのまま食らっているような感覚。不快だが、力をつけるためには必要な過程だった。
剣を納める。甲殻は消え、人に戻る。その時、ガタリと物音がした。振り向けば、食事処の看板が倒れて、少女が姿を現していた。
「君、こんな時間に何をしている」
物怖じすることもなく彼女に近づく。亜麻色の髪を揺らし、少女は逃げ出そうとした。
「軍のものだ。逃げない方が得策だぞ」
「……チグルハ。チグルハ・オベスです」
そんな彼とは対照的に、ことの一時始終を見届けたチグルハは怯えて目を合わせられなかった。
「実は、家族に内緒で動物育ててるんです。食べ物をあげようと思って、こっそり」
「全く……子供が夜中に出歩くんじゃない。とっとと帰れ」
「アハハ……すみません。それでは」
チグルハが走り出す。その背中から、ディアルクは何か嫌な臭いを感じ取った。魔だ。だが、声をかけようと思った頃には、曲がり角の向こうに消えていた。
「チグルハ、オベス……」
監視対象に加えることを、彼は決めた。