「えっ!? ……えっ!?」
鳥居を潜り抜けて、すぐにおかしいと気づいた。
駐車場から鳥居までの間はアスファルトで舗装されていた筈だが、足元は剥き出しの大地。雨に濡れて泥濘んでいる。
それに俺がバイクを駐車した場所から鳥居までの距離は五十メートルほどだったにも関わらず、既にその倍は感覚的に走っていた。
しかし、一寸先は闇ならぬ、一寸先は霧の視界。
ひょっとしたら、真っ直ぐに走っていたつもりが実は斜めに走っていたのかも知れない。
足を止めて、来た道を戻るべきかと右足を下がらせて、背後を振り返ろうとしたその時だった。
「んっ!? ……何だ?」
右手側から二つの声が聞こえてきた。
はっきりと聞こえないが、誰かを何度も、何度も呼びかける切羽詰まったものであり、涙に濡れているようにも感じる。
もしや、この濃霧が原因で川中島古戦場前を通る国道で事故が起こったのだろうか。
そうだとするなら一大事だ。交通事故において、初動の応急処置が明暗を大きく分ける。
負傷者が頭を打っているようなら下手に動かしてはならず、出血が酷いようなら迅速な止血が必要で、呼吸が止まっているようなら正しい人工呼吸を行わなければならない。
だが、大抵の当事者達はパニックに陥って何も出来ない。
過去、凄惨な交通事故を目の前で目の当たりにした経験を持つ俺が言うのだから間違いない。冷静な判断を下せる第三者の一刻も早い到着が重要となる。
「待ってろ! 今、行くぞ!」
俺は考えるよりも早く、二つの声が聞こえてくる方角へと向かって走り出した。
******
「へっ!?」
俺は走った。全速力で走った。息が上がっても、顎が上がっても、濃霧の中を懸命に走った。
叫び声が聞こえてくる先に俺の助けを待っている者が居るなら立ち止まる事はおろか、歩いてなどいられなかった。
しかし、いざ現場に到着した時、思わず茫然と間抜けな声を漏らして立ち止まった。
「兄上、しっかりして下さい! 今、医者が来ます!」
「殿、心を緩めてはなりませぬ! 生きる事を諦めてはなりませぬ!」
大きく広がった血溜まりの中、三人の男が居た。
一人は血溜まりの中心に仰向けとなって倒れ、その両脇には二人が膝を突きながら倒れている男の身体を懸命に揺すり、今にも輝きが失われそうな男の目に光を再び灯そうと必死に呼びかけていた。
一目で解る凄惨な光景。一刻の猶予も無い。
救急車を今すぐ呼び、それを待つ間の応急処置を施す必要が有るが、そのどちらも必要は無かった。
なにしろ、三人の出で立ちは所謂『当世具足』と呼ばれる戦国時代以降に流行った鎧姿。
目の前の光景がお芝居である可能性が非常に高い。きっと川中島の戦いを模したイベントの真っ最中なのだろう。
観光客が川中島古戦場に一人も見当たらなかったのも、このイベントを見学する為にこちらへ集まっていた為に違いない。
そうとは知らずに勘違いをして、ここまで慌てて走ってきた俺はとんだ間抜け者だが、今はそんな事よりもこの場を一刻も早く去らねばならない。
革ジャンにジーンズという現代の服を着た俺がここに居たら興冷めは甚だしい。
濃霧の中、俺という乱入者のハプニングが有りながらも寸劇を止めなかった三人の役者魂を讃えつつ足音を立てない様にゆっくりと後退る。
「えっ!? お、俺っ!?」
だが、倒れている男の顔を良く見て、ビックリ仰天。
そっくりさんのレベルを超えて、双子といってもおかしくないくらいに俺と瓜二つ。思わず声をあげてしまう
「なっ!?」
「むっ!?」
「ぬっ!?」
そして、それは向こう側も同じだった。俺の声に反応して、視線をこちらに向けるなり、ビックリ仰天。
特に倒れている俺と瓜二つの男に至っては今さっきまで閉じかけていた目をこれ以上ないくらいに見開かせて、全身をブルブルと震わせてさえもいる。
「す、すいません! お、俺、交通事故で御朱印帳が!
い、いや、それは勘違いで声がしたから! ま、間違っていたんです! だ、だから、えっと……。ええっと……。」
寸劇を中断してしまった失態を慌てて謝罪するも焦るばかりで言葉が上手く出てこない。
その結果、言葉を詰まらせて喘ぎ、俺と三者の間に沈黙が漂いかけるが、それを俺と瓜二つの男が俺を指差して打ち破る。
「さ、三年……。わ、我が死を隠せ……。」
思わず顔を左右に素早く向けた後、背後を振り向くが誰も居ない。
明らかにその震える指先は俺を指していたが、意味が解らない。焦りを通り越して混乱する。
「なんとっ!? いや、しかし……。珍妙な身なりはしているが……。
見れば、見るほど……。顔も、背丈も、体格も……。声まで似ているとなれば……。」
しかし、俺と瓜二つの男の両脇に膝を突く二人の片方、眼帯を左目に着けた男は意味を悟ったらしい。
健在の右目をこちらに向けると、俺を上から下へ、下から上へと眺めて、何やら何度もウンウンと頷きまくり。
遠慮が無いその品定めする視線に憤りを感じるが、それが逆に余裕を生む結果となって、はたと気付く。
これは勘違いから寸劇に乱入してしまった愚かな俺に対するフォロー。寸劇を続行する為のアドリブだ。
素人参加型のイベントと思いきや、この冷静な対応力はプロに違いない。
良く観察してみれば、三人が身に纏っている衣装や当世具足、小物に至るまでの全てがリアリティーに溢れており、とても模造品とは思えない出来栄え。
「まさかっ!? 兄上、それは真ですか?」
続いて、もう片方の二枚目の男もアドリブに乗ってきた。
胸が早鐘を打ち始め、全身の毛穴という毛穴が一斉に開いて、冷や汗が溢れ出てくる。
自分の不始末を自分で拭くのは当然だが、俺に出来るのかと不安が先立つ。
だが、演劇の経験を持たない俺でも確実に解る。次に求められているのは気の利いた俺のアドリブだ。その証拠に三人が視線をこちらに揃って向け、俺の一言を今か、今かと期待して待ちわびている。
喉が勝手に音をゴクリと鳴った。
幸いにして、合戦の最中に誰かが討ち死に寸前というシチュエーションは推測が出来る。
無理をする必要は無い。今まで観た、読んだ漫画、小説、ゲーム、映画で似たようなシチュエーションは幾らでも有った筈だと頭を必死に巡らす。
「て、て、敵は本能寺に有り!」
そして、永遠にも感じた一瞬後に解き放った台詞がこれだった。
戦国時代を知る者なら誰もが知っている有名な言葉だが、本能寺は京都に在った寺。ここは長野県の川中島古戦場跡であり、場違いが過ぎる。
やっちまった感が半端ない。
どうリアクションを取ったら良いのかが解らないのだろう。三人共に茫然と言葉を失い、目をパチパチと瞬きさせている。
冷や汗がますます溢れ出して止まらない。
せっかく土砂降りの雨をやり過ごしたにも関わらず、Tシャツがべっとりと濡れ張り付いて気持ちが悪い。
恥も外聞も投げ捨てて、大声をわんわんと泣きなくなってきた。それが駄目なら頭を抱えてのたうち回りたい。
「ぐはっ!?」
「あ、兄上ぇぇ~~~っ!?」
「と、殿ぉぉ~~~っ!?」
しかし、プロの三人は優しかった。とても優しかった。
まるで何事も無かったかのように寸劇を続行してくれて、胸をほっと撫で下ろす。
これで俺の役目は終わった。
あとはこっそりと気付かれないようにフェードアウトするだけ。
「うわわっ!?」
そう考えて、そろりそろりと後退するが、三歩目に足を何かに躓かせて尻餅を付いてしまう。
プロの三人がいかに優しくても『仏の顔も三度まで』だ。四度目の失態となったら許してはくれないだろう。
それでも、謝らずにはいられない。
すぐさま謝罪をしようと立ち上がりかけるが、大地に突いた右手がぬるりとした生温かい感触を感じて、思わず動きを止める。
「えっ!? ……えっ!?」
一呼吸の間を置き、右手を目の前に持ってくれば、手首まで真っ赤に濡れていた。
人間としての本能が一目で理解させる。それがペンキや絵の具を溶いたモノに非ず、本物の血だと。
胸が今まで以上に早鐘を打ちまくる。
そんな馬鹿なと口の中で呟き、これはプロ仕様の擬似的な血だと自分自身に言い聞かせながら確かめずにはおれずに右手を突いていた場所に視線を恐る恐る向ける。
「えっ!?」
プロの三人が身に纏う立派な当世具足と違った粗末な胴鎧を着けた死体が転がっていた。
それも只の死体とは違う。身体をピクピクと痙攣させながらおびただしい鮮血を斬り裂かれた肩口から溢れさせているばかりか、とても重い何かに踏みつけられたと思しき顔を歪に凹ませて、頭頂からピンク色の謎の物体を飛び散らせていた。
作り物にしてはリアリティが有り過ぎる。
理解が追いつかず、気が遠くなりかけた次の瞬間。
「ひぃっ!?」
一陣の風が吹いた。
立ち込めていた濃霧を浚ってゆく共にむせ返るような血臭が鼻を擽り、地獄絵図が間もなくして周囲に広がった。
死体、死体、死体。どこを見ても死体が転がっていた。
先ほどまで濃霧の先に感じていた観客の全てが死体であり、そのどれもが無残な死に様で綺麗なものは一つとして無かった。
「おげえええええええええええええっ!?」
何かが自分の中でブチリと断ち切られるような音が聞こえた。
今度こそ、気を完全に失って倒れるが、その直後にこみ上げてきた猛烈な嘔吐が喉を詰まらせて、呼吸困難の苦しさが意識を強制的に覚醒させた。