「戦国時代にタイムスリップとか、マジかよ……。
でも、でも……。やっぱり、そう認めるしかないんだよなぁ~~……。」
灯明の淡い明かりが揺れる部屋に一人。
障子戸を少し開けた窓辺に立って、外の景色を眺めながら独り言を呟く。
今、俺は半日前に訪れたばかりの長野の上田にある生島足島神社に再び居た。
それも只の参拝客としてではない。賓客として迎えられて、本殿裏に建つ神主さん宅の奥座敷を今夜の宿に借りて。
何故、一般人の俺がこうも高待遇を受けているのか。
それは俺があの戦国時代に甲斐と信濃の二国を支配した英雄『武田信玄』だからである。
お前は何を言っている。気でも触れたのかと言われたくないので結論から先に言おう。
川中島古戦場跡地で出会ったあの俺と瓜二つの男こそ、実は『武田信玄』だった。より正確に言うなら、仏門に入ると共に名前を『武田信玄』と改める前の『武田晴信』だった。
俺が想像に抱いていた華々しさなど欠片も無い戦場という名の地獄で嘔吐に苦しんでいたところ。
二枚目の男『武田信繁』に頬を張られて、正気を無理矢理に取り戻させられると、眼帯の男『山本勘助』に有無を言わさずに武田晴信が身に付けていた着物や鎧を着せられて、その後は全力疾走する馬の背に小一時間ほど激しく揺られた末、この部屋で大人しくしていろと閉じ込められてしまった。
武田信繁と言ったら、武田信玄の実弟。山本勘助と言ったら、武田信玄の軍師。
両者ともに武田家を代表する武将であり、武田信玄に詳しい者なら誰もが知っている有名な武将である。
改めて、お前は何を言っている。気でも触れたのかと言いたくなるだろうが、そんな言葉なんて障子戸の隙間から外の景色を見ただけで言えなくなる。
現代の象徴、電柱と電線が見当たらない。
溢れる自然だけがそこに有り、電気を用いた明かりは存在せず、晴れ渡った夜空を見上げれば数多の星が輝いている。
馬から落とされないようにしがみついていたここまでの道中も同様だった。
永きに渡る数多の往来で造られただけの道は土を剥き出しにしており、道幅がまちまちなら、雨後の水たまりもあちこちに有り、コンクリート、アスファルトに舗装されていなかった。
背の高い建物も見つけられなかった。
道中、幾つかの集落を通過したが、そこに建つ家々は刺し敷き詰めたカヤを屋根にする小さな家ばかり。二階建てと呼べる家は一軒も無かった。
集落の外にある人工物は田畑のみ。
それも現代日本の国道を走っていて見かける田畑と比べたら圧倒的に狭い範囲であり、それ以外は雑草が生い茂る原っぱ、森、川という圧倒的な大自然。
今、滞在している生島足島神社も半日前に訪れた生島足島神社と似て非なるもの。
ここ、生島足島神社には境内が神池と呼ばれる池に囲まれている点と鳥居や本殿の柱などが稲荷神社のように朱色で染められている二つの大きな特徴が有り、そのまるで水堀に守られた平城の様な景観を持った前者に関しては同じだが、後者が決定的に違う。
半日前に訪れた生島足島神社の朱色は実に色鮮やかだった。
だが、ここの生島足島神社の朱色は経年劣化が著しくて、木肌を見せている箇所が到るところに見える。
ところが、四方を取り囲む山々の姿は半日前の記憶のまま。
即ち、人間が営む景色だけが古びて、大自然は姿を変えていない。これはもう過去に来たとしか考えられない。
もし、これが俺一人を驚かせる為のドッキリだとしたら手が込みすぎている。
最初は夢かと思ったが、夢にしては長すぎるし、この部屋で暇を数時間も持て余して、ただただボーっとしているだけの夢なんて有り得ない。
もっとも、それが冷静に考える時間にもなったのだが、今はその暇が辛い。
格好の暇潰しになるスマートフォンはジーンズのポケットに入っているが、今はその手段が使えない。
この後、スマートフォンは重要な役割を担う事になる。
バッテリーの充電ケーブルどころか、コンセントそのものが存在しない今、バッテリーの無駄遣いは絶対に出来なかった。
「そりゃぁ~~……。その手の漫画や小説は幾つも読んだし……。
俺だったらこうするって感じで憧れた事は何度も有ったけどさ。
でも、でもさ……。実際にそうなってみるとかなりきついな。これ……。あはははは……。」
神池の向こう側に弛み無く張られた白地に黒い武田菱が描かれた陣幕。
この向こう側に幾つも焚かれた篝火に照らされて、槍を持つ兵士達の影が等間隔に列んでおり、それを見る度に現実感を突き付けられて、乾いた笑みが零れてしまう。
恐らくと言うか、明らかにタイムスリップした要因はあの川中島古戦場跡での濃霧。
どういう原理かは解らないが、鳥居を潜るまでは現代だった。足元が舗装されていない剥き出しの地面に変わったのは鳥居を潜ってからであり、鳥居が現代と戦国時代の境目だったに違いない。
そして、場所が川中島。武田信繁と山本勘助の二人が存命。
この条件からタイムスリップしたタイミングは第四次川中島の戦いの以前と確定が出来る。
では、第一次と第二次と第三次のどれかと言ったら、まず間違いなく第三次だろう。
これは先ほど貴重なバッテリーを使って、スマートフォンで調べた結果だ。昨夜、川中島古戦場跡へ訪れるにあたり、川中島の戦いをネットで調べたwebのキャッシュがまだ残っていた。
第一次は川中島よりもっと西で行われており、第二次は場所的に最も近いがこの時の戦いは犀川を間に挟んだ対陣だけで終わっている。俺が目の当たりにしたような地獄絵図を作る激戦は行われていない。
ネットの解説によると、第三次川中島の戦いは善光寺北の上野原で行われたが、武田晴信は決戦を避けて決着は付けなかったとあるが、現代に伝わる文献を元にした研究結果のもの。
真実は違った可能性があり、そうだとするのなら武田晴信が退却したまでは正しくて、それを上杉謙信と名乗る前の『長尾景虎』は逆に決着を着けようと追撃。あの川中島の濃霧の中、遂に武田晴信の打倒に成功したのではなかろうか。
「はぁぁ~~~……。」
大地に零れ落ちる水音が止まり、窓の外に差し出していた花瓶を戻す。
人間、数時間も経てば、用を足したくなるのは自然の摂理。今、捨てていた花瓶の中身を語るまでもないだろう。
無論、最初は激しく悩んだ。
素人目にも床の間に桔梗を挿して飾られていた花瓶はいかにも価値が高そうな品だっただけに。
だが、この部屋からの外出は許されていない。
まさかまさか、部屋の隅に開放する事は出来ない。この花瓶を用いるしか術は無かった。
実をいうと、既に三回目。慣れたもの。
障子戸を閉めて、床の間に置いた桔梗を花瓶に再び挿してから、床の間の柱に背をもたれながら用を足す前と同じように胡座をかく。
「はぁぁ~~~……。」
二度も連続で溜息が漏れた。
前方の縄わらを組んで作られた座布団の隣には夕飯の膳が置かれており、まだ半分以上を残しているが食べる気がしない。
食が異常事態に細くなっているのも理由の一つだが、それ以上に不味い。
山盛りを超えた富士山盛りの白米は甘みが薄く、その反対に味噌汁と大根の漬物はこれでもかと塩辛い。
川魚特有の臭みがどうしても苦手な俺はメインデッシュのニジマスっぽい川魚を三口目でギブアップ。箸を口に運ぶのさえも身体が拒んでいる。
しかし、これが戦国時代における最高の御馳走だと俺は知識で知っている。
食事ですら、これだ。この先、俺の好みに合わない事や不便な事、不都合な事が多々有る筈であり、それを考えると不安になってくる。
唯一の幸運材料は俺が武田晴信と瓜二つの容姿を持っている点。
武田信繁と山本勘助の二人は俺を武田晴信の影武者に仕立て上げようと企んでいるのは想像に難くない。
だから、武田晴信が着ていた甲冑を俺に着せた。
ここまでの道中、痛み苦しむ演技をしろと、口を絶対に開くなと厳命して、この生島足島神社へ到着するなり、この奥座敷に閉じ込めたのもその思惑が有るからに違いない。
事実、武田晴信が討ち死にした事実は隠されている様子。
障子戸を閉めていても酒盛りをしているだろう兵士達の陽気な声が聞こえてくる。もし、公表されていたら、そんな余裕は許されない。
つまり、武田晴信の影武者として、俺は殿様待遇が今後は許される筈だ。
川中島からここまでの道中で実感したが、戦国時代に生きる人々は日常の不便さの中で体力が自然と培われて、足腰が丈夫なのだろう。
川中島からここまでの距離はバイクで走っても小一時間はかかる上、それ以前にも前哨戦が行われた場所を考えたら更に倍の距離は走っているにも関わらず、兵士達は息を切らしながらも走りきっている。
その姿を目の当たりにして、漫画や小説のように立身出世の野望を抱くほど俺は馬鹿ではない。
どんなスポーツも比較的に優秀な部類に入る実力を持っていたが、それは学生時代の話であり、社会人になってからは運動らしい運動を行ってこなかった俺が武勲を挙げるなんて出来る筈が無い。戦場へ辿り着く前に脱落するし、辿り着いたとしても真っ先に殺される。
だったら、現代知識による先取りで内政革命、技術革命を狙うのはどうかといったら、それも駄目。
高校は普通科、大学は文学部を卒業した俺に専門知識は無い。持っている専門知識は趣味の熱帯魚飼育に関するものと家具会社工場で七年培った木工に関するものであり、役立つとは思えない。
戦国時代は現代の文明社会に生きてきた俺にとって辛すぎる。
殿様待遇でさえ、最低限の環境だと断言が出来る。まず間違いなく、これ以下は耐えられない。
だが、予想通りに殿様待遇が許されたとしても、それだけでは駄目だ。
武田家は平安時代から続く由緒正しき清和源氏の末裔であり、その当主が一時でも実は偽物でしたと知られたら、数百年に渡って受け継がれてきた血の重みは薄れて、権威もまた失われる。用が済み次第、後ろからブスリと刺されては堪らない。
いずれ、武田信繁と山本勘助の二人がこの部屋を訪れるだろう。
その時、交渉をしっかりと行い、約束を取り付けて、将来の自分を守る必要が有る。
殿様待遇と命の保証。この二つを約束して貰えたら、俺は二人の立派な傀儡になってみせる。
それともう一つ、俺は天寿を全うしたい。
俺の記憶が確かなら、武田信玄は五十歳くらいで病死。それが契機となり、武田家は坂を転げ落ちるように間もなく滅亡した。
それでは絶対に駄目だ。健康第一の生活を心掛けて、武田家の滅亡は絶対に阻止する。
只の戦国時代好きの知識がどこまで通用するかは解らないが、それを用いるのを俺は躊躇わないし、それが俺の価値になると共に命の保証に筈だ。
「うん? この頃の武田信玄って、もう結構な歳だったような……。
高校の頃から老け顔、老け顔って言われてきたけどさ。そんなに老けてるかなぁ~~?」
そんな事を考えていたら、板張りの廊下をドスドスと歩く音がこちらへと近づいてきた。
俺の将来を決める面接がいよいよ始まる。慌てて縄わらの座布団に正座で座り直して、頭を出入口の引き戸に向かって深々と下げた。