「ふぅ~~……。」
廊下を進む足取りは重く、隠せない疲労感から溜息が漏れた。
思い返せば、今日は長く辛い一日だった。あの者のように時を遡れるなら昨日に戻りたい。
今朝、腹ごしらえを済ませている最中、長尾景虎が率いる軍勢が鶴翼陣で布陣する我が軍の左翼を急襲。
本陣前の前衛が慌てふためき、左翼の救援へ勝手に向かったのが悪夢の始まり。その空いた隙間を狙い、長尾景虎自身が一心不乱の鏃と化した鋒矢の陣で突き刺さってきた。
もし、これが長尾景虎以外だったなら、敵の総大将を包囲殲滅する絶好の好機。
だが、長尾景虎は一騎当千の猛者である上、その傍らに鬼と称される小島弥太郎が居ては堪らない。
晴信様は味方が総崩れとなる前に退却をすぐさま決意した。
善光寺の南にある犀川を渡河して、茶臼山の麓に集結。長尾勢の動き次第によってはそこから再戦を望む予定だった。
しかし、犀川を渡河しようとした直前、にわかに立ち込め始めた霧がその予定を全て狂わした。
霧は瞬く間に濃くなって、まるで新月の夜の如く先が全く見えず、勘だけを頼りに進む内、味方は散り散りに。気付いたら、周囲に居るのは数人だけという有り様。
慌てて儂は晴信様の姿を探した。
声を張り上げて、霧の中を懸命に走って探した。
だが、これが大きな誤りだった。
声をお互いにかけ合い、儂が晴信様の姿を見つけた時、長尾景虎の刀は馬上より既に振り落とされており、信繁様を庇う晴信様の首を深々と斬り付けて、晴信様は真っ赤な鮮血を噴き出していた。
信繁様は自分が晴信様を殺したと自分自身を責めているが違う。晴信様を殺したのは儂だ。
濃霧の中、晴信様を虎視眈々と狙っていた長尾景虎を晴信様の元へまんまと呼び寄せてしまったのだから。
そして、悲嘆に暮れる間もなく、あの者が儂と信繁様の前に現れた。
晴信様と瓜二つの容姿を持つどころか、晴信様と同じ声で喋るあの者が。
「すまぁとふぉーん、だったか? あの欄干の朱は実に見事だった。
四百年後のこの地を統べる者はよっぽどの実力者とみえる。あれほどの朱となったら、どれほどの万金を積んだのやら」
ふと立ち止まって、廊下の欄干を撫でながら思い出す。
晴信様は北信濃を訪れる際はここ生島足島神社へ必ず立ち寄り、その度に『神域に相応しい見事な朱だ。これほど立派な社は京にも有るまい』と機嫌良く漏らしていた。
しかし、あの者が持つ『すまぁとふぉーん』なる小さな黒い板に写された生島足島神社の朱は、比較にならないほどの見事な朱だった。
目の前の欄干のように朱が薄れたところも無ければ、掠れたところも無い。色そのものがもっと鮮やかな朱が満遍なく塗られていた。
『三年、我が死を隠せ』
武田家を存続させる為、あの者を晴信様の影武者に仕立て上げる。
晴信様が最後の力を振り絞って言い残した遺命の意味はすぐに解った。
晴信様が亡き今、その後継者は嫡子たる義信様を置いて他に居ないが、今の義信様に甲斐信濃の支配者は務まらない。
これは義信様に問題が有るのではなくて、晴信様があまりにも偉大すぎたからである。信濃は当然として、下手すると甲斐の家臣達も離反する可能性が有る。
そうなったら、武田家は終わりだ。
もう芽が出る事は二度と無い。信濃は長尾景虎の手に落ち、やがては国力差から服従を余儀なくされるか、滅びの道を歩むしかない。
今現在の強固な武田家を維持しながらも更なる高みを目指すには晴信様の死を隠す必要が有る。
だが、あの者がどんなに晴信様と瓜二つでも、それは表面だけに過ぎない。人目に触れれば、触れるほどボロが出る可能性が高まる。
つまり、晴信様の影武者は家督を義信様に譲って隠居する。
これこそ、最上策だ。これで晴信様ありきで仕えている家臣達に対する睨みは十分に効く。
しかし、それもこれもあの者が立場を弁えた者であるのが大前提。
今言った通り、晴信様の影響力は巨大。下手な野心を持っていたり、性根が腐っているような者なら、悪手であろうと晴信様の死を公表した方がよっぽど良い。
そう信繁様を説き、あの者を探る面談に臨んだが、結果は予想を遥かに越えていた。
まさかまさか、約400年もの未来から訪れた者とは考えてもいなかったし、あの者が語った戦国乱世の結末も、『すまぁとふぉーん』なる小さな黒い板にも度肝を抜かされっぱなしだった。
「晴信様……。あの日、共に誓った夢。必ずや果たしてみせまする」
魚でも跳ねたのか。神社を囲む池で水音が鳴った。
篝火は絶やされておらず、明かりは煌々と灯されているが、不寝番の者達を除いて寝静まったのだろう。辺りは静まり返っている。
この際だから、心の内を正直に明かそう。
儂は晴信様が討ち死にした時、全てが何もかも終わった気がした。
儂もまた晴信様だから武田家に仕えていた一人。武田家に忠誠は無い。
晴信様の遺命に従い、影武者に関する問題が一段落したら武田家から出奔する腹づもりを持っていた。東北にでも流れた後は隠遁して、晴信様の冥福を祈りながら田畑を耕すつもりでいた。
だが、あの者の話を聞いている内にその考えが変わった。
あの者が持つ知識は儂と晴信様が共に抱いた夢を実現させる為の大きな武器となる。
あの者が語った戦国乱世は晴信様が討ち死にした時点で既に相違が生じているが、あの者が持つ知識はそれを差し引いて余るものが有る。
そう、儂と晴信様が抱いだ夢はまだ決して途切れてはいない。
途切れていないどころか、あの者が持つ知識のおかげで目的地までの道はグンと縮まった。この上はあの者を助ける事こそ、儂の晴信様に対する忠義だ。
それにあの者が時を遡った原因と仮説する八幡神社の八幡様は我ら武家にとっては武運の神である。
晴信様が亡くなる寸前に晴信様と瓜二つのあの者が現れた。これを神のお導きと言わずして何と言う。
「そう、必ずや……。
今はそちらへ参るのをまだお待ち下さい」
水面に映って揺らめく月を暫く眺めていた後、止めていた足を動かす。
床に今すぐ就いて、疲れきった心も、身体も休めたいが、それはもう一仕事を終えてから。
信繁様はあの者を影武者に仕立て上げる覚悟を決めたが、完全に納得はしきれていない。
その理由が晴信様亡き後の権力を握る為の野心だったなら、儂も楽だった。いかに晴信様の弟と言えども、獅子身中の虫は斬って捨てるだけの事。
甲斐の本拠地『躑躅ヶ崎館』では困難でも、ここは遠く離れた戦地。
長尾景虎の軍勢とつい数刻前まで激戦を実際に行っていた事実もあり、理由を作るのは造作も無い。
しかし、信繁様は野心を全く持っていない。
もし、武田家当主となる野心を持っていたなら、その意思を武田家先代の信虎様の時に示している。
今、駿河に追放されている信虎様は晴信様より信繁様を可愛がり、長子を嫡子とする古来からの習わしを無視して、信繁様を嫡子とする思惑を周囲に隠そうとすらしなかったとか。
信繁様が納得しきれていない理由は晴信様を慕うあまりのもの。
晴信様の死を隠す。それは詰まるところ、葬儀を挙げられず、墓すらも隠さなければならない事を意味する。
本当なら武田家当主に相応しい盛大な葬儀を挙げて、平安の世から続く歴代の当主達が眠る墓と並び、武田家中興の祖として眠る筈が。
しかも、晴信様のご遺体は今もあの戦場に放置されたまま。
急場だった為、持ち帰られたのは晴信様の首とあの者に纏わせた甲冑のみ。残されたご遺体は明日には鳥や獣に啄まれるだろう未来を考えたら悲しすぎる末期と言うしかない。
だが、儂も信繁様も後戻りは出来ない。
晴信様への謝罪は武田家が今以上に栄えて、その名を揺るがないものにしてから。儂は武田家が滅ぶ未来を断じて許さない。
「信繁様、勘助に御座います」
「ああ、入ってくれ」
そう堅く決意して、信繁様が待つ部屋の戸を開けた。