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~幕間~ 武田信繁、酒の味




「信繁様、勘助に御座います」

「ああ、入ってくれ」



 障子戸の向こう側から聞こえてきた声に手酌を止める。

 一拍の間の後、障子戸が開き、勘助がこちらを一瞥。バツの悪い顔を浮かべながら用意しておいた別の盃を真向かいに置く。


 当初、勘助を待ってからの腹づもりでいたが、酒を飲まずにはいられず飲んでしまっていた。

 それも結構な量をだ。もうとっくに酔っていてもおかしくない筈が今夜の酒はやけに辛さばかりを感じて、ちっとも酔えずにいた。



「それでどうだった?」



 勘助も似た心境なのか。腰を下ろすなり、盃を一気に煽った。

 その喉がゴクゴクと鳴り、それが止むのを待って、酒瓶の口を差し出しながら尋ねる。


 兄上と瓜二つなあの者との面談の後、勘助にはもう一仕事を引き受けて貰っていた。

 あの者が未来の品だと我々に見せてくれた品が三つ有る。恐ろしく精密な彫刻が彫られた銅銭や銀銭と『すまぁとふぉーん』なる摩訶不思議な小さな黒い板、御朱印帳なる馴染みのない小さな本だ。


 前者二つは真贋の判別すら出来ない。

 だが、最後の御朱印帳の中にはこの生島足島神社の朱印もあり、真贋の判別が出来るかもしれない。そう考えて、同じ朱印を所持しているだろう神主殿の元へ出向いて貰っていた。



「神主殿が仰るに多少の違いは有れども本物に間違いないと」

「そうか」



 その結果を勘助が二杯目を一口飲み、溜息を深々と吐き出しながら告げる。

 それを残念に感じている自分に気付いて驚き、盃に残っている酒を飲み干して、自分自身の気持ちを濁す。


 あの者と面談を交わして以来、感じていた胸の燻りの正体がようやく解った。

 もし、朱印が偽物であるなら、それを理由に我々を謀ったとして、あの者を殺す事が出来る。

 儂はあの者を殺したかったのだ。あの者が兄上の影武者と立てた場合、その代償に自分が兄上を殺すのと同義である気がして。


 酒の味が辛さから苦さに変わる。

 勘助が床に置いた盃に新たな一杯を注いでくれるも飲む気になれず、勘助が儂との間に置いたあの者の御朱印帳を手に取り、高僧が持つ経典のように蛇腹で綴られたソレを捲って眺める。



「特にお伊勢様の朱印についてはかなり驚かれていました」

「まあ、そうだろうな」



 勘助の言葉にさもありなんと頷く。

 この御朱印帳には伊勢神宮を筆頭に伊勢、美濃、尾張、三河、信濃の順に名だたる神社の朱印が揃い踏み。信心深い者なら万金を積んで欲しがり、絶対に手放さない子々孫々と伝える家宝にするだろう。



「そして、こうも言っておられました。

 神社における朱印とは朝廷より……。即ち、帝より授かった神社の正当性と由緒の証。

 当然、おいそれと用いられはしない。ただ参拝しただけで軽々しく朱印を授けたりはしないと」

「確かに……。兄上がご機嫌伺いに訪れた者達に朱印をいちいち押して渡しているようなものだからな」



 実を言ったら、儂も欲しい。譲ってくれると言うのなら是非とも欲しい。

 万金はさすがに積めないが、家の倉にある名剣、名槍の二本や三本くらいなら引き換えにしても惜しくはない。

 明日、あの者にこの御朱印帳を譲ってくれないかと交渉をしてみるか。特に伊勢神宮の内宮と外宮の二枚だけでもどうしても欲しい。



「考えますに、あの者は朝廷と関わりを持つ者ではないでしょうか?」

「朝廷だと?」



 そんな事を考えていたら、勘助がとんでもない事を言い出した。

 思わず見開いた目を御朱印帳から跳ね上げると、その真剣な顔は冗談を言っているようには見えなかった。



「はい、そう考えるとそうも数々の朱印を賜っている事実が腑に落ちます。

 全国各地の神社を渡り歩き、帝が朱印を授けた神社がお勤めをしっかりと果たしているかを調査、監視する。そういった役目を持っているのかと」

「なるほど……。つまり、これは合否の証か。

 確かに眉を顰めたくなる幾内の神社仏閣の乱行は儂も聞いている。有り得ない話では無いが、そうなるとあの者は公家の出という事か?」

「恐らくは……。信繁様もご覧になった筈です。

 出会った当初は別として、先ほどのあの者の立ち振舞いは堂々とした礼法に適ったもの。言葉遣いも申し分なかった。

 それに知識もです。あれだけ高度なものを持っていると言う事は幼少の頃から学んできた証。そこいらの民が持てるものでは有りません」



 そして、その言葉には大いに頷ける点があった。

 勘助が言う通り、あの者は自身の身分を庶民だと言ったが、それだけは絶対に違う。

 儂は兄上ほど名は知られていないが、室町幕府より畏れ多くも正六位下『左馬助』の官位に除された身である。

 農民は勿論の事、武田家の家臣どころか、他国の重臣でさえも儂と相対したら畏れるのが普通だが、あの者は緊張をしてはいても堂々とした態度だった。儂以上の官位を持つ殿上人と接する機会が多いとするのなら納得が出来てしまう。


 同時に勘助のあの者に対する心証が明らかに変わっているのが解った。

 あの者と面談する以前は兄上の遺命がある故にそれと口に出してはいなかったが、勘助はあの者の存在を気に入ってはいなかった。

 もし、あの者が嘗て多く現れた親父殿の子を名乗るタカリの類なら即座に斬って捨てるとまで言い放ち、儂の方が勘助に自制を求めたほど。


 兄上と勘助の二人だけが胸の内に秘めていた善光寺平を巡る長尾景虎に対する必勝策。

 それを披露する前に暴露された上、否定もされたのだから勘助に与えた衝撃は計り知れないものがあったに違いない。


 しかし、勘助はあの兄上が認めた男。甲が駄目なら乙の、乙が駄目なら丙の軍略を百出可能な男。

 それ程度で腐るほど決して小さな男では無い。あの者に対する心証をガラリと変えた決定的な何かがあった筈だ。



「なあ、勘助。あの者が未来から来たという話。真だと思うか?」

「まあ、あの『すまぁとふぉーん』なる板を見せられては」

「ああ、あれは驚いたな。しかし……。」



 あの者が未来の証明だと真っ先に見せてくれた『すまぁとふぉーん』なる小さな黒い板。

 あれには本当に驚かされた。あの小さな黒い板の中に儂と勘助の姿が鮮明に映り、その切り取った時間を何度も、何度も繰り返す様子を初めて見た時は文字通りに腰を抜かして驚いた。


 いや、驚いたのはそれだけでは無い。

 あの小さな黒い板の中に詰まった数多の未来の姿は想像を絶するものばかりであり、儂達の何度も驚く声に居ても居られなくなったのだろう。部屋に近づくなと厳命してあった筈の近習が戸の向こう側から怖ず怖ずと声をかけてきたほどだ。


 だが、時間が経って冷静になってみると、あれは噂に聞く妖術ではなかろうかと疑う心が儂の中に湧いてきていた。

 この神域ですら平然としていられる大妖となったら、武田家にどんな災いが起こるかが想像も付かない。それが発覚してからでは遅い。



「ならば、信繁様。その御朱印帳なる書を良くご覧になって下さい」

「んっ!?」

「私には『すまぁとふぉーん』なる板の説明は出来ません。

 しかし、その御朱印帳なら説明が出来ます。……と言うのも、その御朱印帳は今の世には有り得ません。

 そうも薄いのに丈夫であるばかりか、皺が一つも無い上に満遍ない白さ。

 それほど見事な紙が作れたなら、武田家は日の本全ての富を金蔵に収める事が出来ます。

 だが、無理です。天下に名高い美濃紙ですら、その紙と比べたら遥かに劣ります。同じ物は絶対に作れません」



 しかし、勘助の言葉は手の中の御朱印帳を食い入るように見つめて愕然とした。

 名だたる神社が名を連ねている事実に驚きが勝って気付けなかったが、正に勘助の言う通りだ。これほど見事な出来栄えの紙を儂は今まで一度たりとも見た事が無い。



「信繁様、裏返しにしてみて下さい。もっと驚きますよ」

「何っ!? ……あっ!?」



 その上、更なる驚きが飛び出す。

 言われるがままに御朱印帳の朱印が押されている面から裏返しにしてみると、真っ白。最初から最後まで何処を見ても表に書かれた墨が裏写りしていない。


「そう、それほどの薄い紙でありながら墨が裏写りしていません。

 それもその筈です。調べてみたところ、一枚に見えて、実は懐紙を間に挟み、三枚で一組になっているのです。

 その巧みな仕掛けを保ちつつも一枚の長い紙を全て均一に折り、それを重ねると書の形になる。

 途方もない技術です。その御朱印帳を再現するとなったら、どれだけの紙が犠牲になるのか……。

 しかし、あの者は『すまぁとふぉーん』なる板を我々に預けるのは断固として拒否しましたが、この御朱印帳はあっさりと渡した。

 それは即ち、我々にとったら値千金の品でも、あの者にとったら望みさえしたら幾らでも手に入る有り触れた品の証ではありませんか?」



 いつしか、御朱印帳を持つ手が震えていた。

 最早、あの者が未来から来たという与太話を信じるしか無かった。

 今の我々にこの御朱印帳は作れないが、時を重ねてゆき、あの者が生きていた約400年後の未来なら作れるのかも知れないと思ってしまっただけに。



「だが、しかし……。しかしだ。我が武田家が尾張の織田家に……。

 織田家と言ったら、アレだぞ? 当主がうつけと評判で、それが甲斐にまで届く家だぞ? その織田家が天下を握るなど……。」



 それでも、反論する。

 その理由はあの者が語った我が武田家の未来。

 我が武田家を滅ぼす相手が不倶戴天の敵である長尾家や今は拮抗した国力と利害の一致で同盟を組んでいる今川家、北条家ならまだ解るが、織田家は有り得ない。

 先代の織田信秀は戦上手だったらしいが、当代の織田信長はうつけと評判で家督を得てから暫くが経つのに尾張一国を纏めきれておらず、逆に領土を接する今川家にいずれは滅ぼされるだろうというのが兄上の見解だ。


 どうして、そのような小物が我が武田家を滅ぼすというのか。

 あの者は鉄砲なる新兵器が戦を変えると豪語していたが、武名を遠い京まで轟かす我等が武田の騎馬隊を打ち負かすほどのものなのか。そうはとても思えない。



「では、信繁様は晴信様が家督を継がれる以前、武田家が今のような強大な力を持つとお考えでしたか?」

「そ、それは……。」



 しかし、勘助の問いかけが儂の口を噤ませた。

 口には出せないが、本心を語るなら『考えるどころか、思ってさえもいなかった』である。


 儂は物事を満遍なくそれなりにこなす事は出来るが、所詮はそれなりだ。

 兄上が武田家の当主となる以前、親父殿が武田家の次期当主に儂を据えようとしているのを承知していても、儂は自分が当主になるよりも聡明な兄上が武田家の当主になった方が武田家は栄える確信があった。


 だが、兄上は儂の想像以上だった。

 親父殿の苛烈な残虐性と圧政で不満の種が幾つも芽吹いていた甲斐を瞬く間に治めたばかりか、信濃へと侵攻。今や、善光寺平より北を以外の信濃を治め、儂の選択が正しかった事と違いすぎる器の大きさを見せつけてくれた。



「晴信様だけでは有りません。

 近くに北条、西国に尼子と毛利。今は戦国乱世、当主の才覚次第で幾らでも巨大な勢力となり得るのです。

 尾張のうつけ、その評判は儂も耳にしていましたが、実際は違うのかも知れません。家督相続に絡んだ謀略、或いは本人がそう振る舞っていた可能性が有ります」



 挙げ句の果て、痛いところまで突かれてしまう。

 親父殿が儂に武田家の家督を継がせようと、ことさらに持ち上げた儂の評判とこれでもかと罵った兄上の悪評を家臣達や領民達にバラまいていたのは有名な話だ。



「信繁様、過ちは正さなばなりません」

「過ち、だと?」



 ぐうの音も出ないとは正にこの事を言うのだろう。

 肩を落として、眼差しも落としていると、勘助が膝立ちになって詰め寄り、儂の肩に両手を置いた。



「晴信様を失ってしまったのは我々の過ち。これは揺るがない事実。

 だったら、その過ちを補って余るほどの行いをせねば、我々は黄泉路で晴信様に申し訳が立ちません。

 なら、何を以って申し訳が立つか。それは武田家の名を天下に轟かせて不動のものとする。それ以外に有りません」



 勘助ほどの男が隠そうとせずに号泣していた。

 家臣達からやっかみが噴出するくらいに互いを深く信頼し合っていた兄上と勘助の二人である。

 そんな勘助が兄上を亡くして悲しくない筈が無い。それを儂は自分の事ばかりを考えて気付く余裕すら持てていなかった。


 また、儂と勘助が同志であるのも気付かされた。

 二人だけが同じ後悔を背負い、これからは同じ嘘で他者を欺き続けて、同じ未来を進んでゆく。



「そして、不甲斐ない我々の為に八幡様はあの者を遣わせてくれました。

 あの者が持つ知識はこれからの武田家が進む大きな道標となり得ます。間違っても、滅亡などという未来へ向かわせてはなりません」


 眼帯に隠されていない勘助の右目の色が兄上を喪った悲しみから燃え上がるような闘志へと変わる。

 その熱が伝わり、この先にどんな苦難が待ち受けていようと、自分一人では無理でも勘助と二人なら共に歩んで行けると心が奮い立つ。



「そう、そうだ。その通りだ。

 だが、勘助よ。儂は兄上のような才覚は持っていない。

 人と人の和を取り持つのが得意なだけの平凡な男。そんな儂を兄上のように助けてくれるか?」

「無論です。今の武田は信繁様無くして成り立ちません」



 もう躊躇いは無い。覚悟は決まった。

 酒の入った盃を持って問いかけると、勘助が身を戻して自分の盃を持つ。



「では、共に行こうではないか。後悔と慚悔にまみれた道を」

「はっ! この命、果てる時までお供をさせて頂きます」



 お互いに頷き合い、盃同士を軽くぶつけ合わせて、それを一気に呷る。その味は辛くも、苦くもなく、とても美味かった。




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