「和尚殿も、神主殿もこんな朝早くから済まんな」
武士と言ったら、チョンマゲ。
武士の全てがそうだった訳では無いが、武田晴信は月代と呼ばれる頭頂のハゲは無くてもチョンマゲを結っていたそうな。
だが、俺の髪型はごくごく普通の短髪。
チョンマゲを結えるほど髪は長くないし、チョンマゲを結えるだけの髪が伸びる時間も待ってはいられない。
だからと言って、そのままの頭で皆の前に出られない為、山本勘助が頭を捻って出した結論が仏門へ入るという荒業だった。
正直なところ、現代の感覚を持つ俺としては丸ハゲになるのは強い抵抗感が有る。
しかし、これも生きる為だ。影武者というただ居るだけで十分な存在、戦国時代における極上のニート生活と引き換えなのだから。
それに俺なりのケジメにもなる。
幸か、不幸か、俺が現代で行方不明になっても悲しむ者は一人も居ない。
両親と弟は大学の頃に交通事故で亡くしている。
それも俺の目の前でだ。喉が乾いたと弟が言い出して、たまたま目に付いた道路脇の自動販売機で俺が缶ジュースを買っている最中、居眠り運転のダンプカーが停車中の両親と弟が乗った車へ猛スピードで突っ込んできた。
俺が居て、両親が居た以上、日本の何処かに祖父母と親戚が存在するのだろうが、その場所を俺は知らない。
知っているのは母が実はお嬢様育ちで、実家が由緒正しい家らしい事のみ。父と母は大学で出会い、どちらの実家からも結婚を猛反対された末に駆け落ちをして、その後は完全に没交渉となったらしい。
知り合いはそれなりに居るが、友人と呼べる存在は居ない。
東京の大学を卒業した後は生まれ故郷へ戻ったせいか、大学の友人達とは自然と疎遠になり、連絡先はお互いに持っていても随分と音信不通になっている。
小中高の地元の友人とは買い物先などでばったりと会えば、久々の再会に話が弾んでもそれ止まり。全員が家庭を持っている要因もあって、一緒に遊んだり、酒を飲んだりはしなかった。
倒産した会社の先輩、後輩も似たようなもの。
倒産後の一ヶ月くらいは連絡を取り合っていたが、それが次第に少なくなり、最近はハローワークでしか顔を合わせていない。
勿論、彼女なんて素敵な存在も居ない。
居ないと言うか、居た過去が無い。所謂、年齡イコール彼女居ない歴である。
現代に未練を残すとしたら、三つ。
一つは、飼っていた熱帯魚達の餌やりとその水槽の管理。
一つは、両親が残してくれた一軒家に一人暮らしだった為、エロでアダルティーな品々が茶の間に平然と放置されている事。
一つは、これから武田晴信の影武者として生きてゆく以上、両親から貰った本当の名前をもう二度と名乗れない、名乗ってはいけない事。
それ故、この剃髪はそれ等三つの未練を捨てる為のケジメ。
俺はハゲになる事でこの戦国時代に生きる者へと生まれ変わるのだ。
「ふぉっふぉっふぉっ!
何を仰る。悩み迷える者を導くのが拙僧の役目なれば、朝でも、夜でも呼んでくだされ」
仏門に入るのだから、神社では駄目かと思いきや、お坊さんが偶然にも逗留していた。
それも恵林寺という甲斐の歴史あるお寺の和尚さんであり、善光寺への旅の途中、武田家と長尾家が合戦の真っ最中と聞いて、この生島足島神社で足止めを喰らっていた。
ちょっと心苦しくなる情報である。
和尚さんは朗らかに笑っているが、カミソリを砥石で研いでいるショリショリという音が怖い。
「そうですとも! 武田様ほどの方の入門に立ち会えるとは名誉な事! この目出度き日に憂うなど有り得ませぬ!」
その隣、生島足島神社の宮司さんもニコニコと笑っているが、俺は知っている。
仏門の入門儀式の為に神社の一室を借りたいと申し出たところ、とても面白くなさそうな顔をしたのを。
当然と言えば、当然だ。今は神仏混合の時代と言えども、生島足島神社は神社としての格が非常に高い。
仏教の儀式を行うなんて、フレンチの三ツ星レストランで蕎麦屋に出前を頼むようなもの。面白い筈が無い。
だが、地獄の沙汰も金次第。
武田信繁が懐から取り出した寄進という名の大金が神主さんに不満を飲み込ませている。
「そうか、そう言って貰えると気が楽だ」
それも儀式の場に舞を神様に奉納する神楽殿を貸してくれる大盤振る舞い。
神社を巡り、御朱印を頂く趣味を持つ俺にとって、本当なら飛び上がって喜ぶところがとても微妙な気持ちだった。
******
「信繁殿、殿はまだなのか!」
「今に来る! もう少し待て!」
「信繁殿は先ほどからそればかりだ! 殿は本当に大丈夫なのか!」
「うむ、昨日はここへ来るなり奥に引っ込んだとか!」
「兄上、無事だ! 何度も同じ事を言わせるな!」
騒がしい声が戸板の向こう側から聞こえてくる。
それ等を抑えるのに武田信繁は随分と苦労している様子。張り上げている声にうんざり感が見て取れる。
だが、武田家の家臣達が騒ぐのも無理は無い。
俺と武田信繁と山本勘助の三人は霧の中を迷い、この生島足島神社まで千曲川を三度渡る遠回りの道を辿ったが、それが運良く戦場からいち早く逃れる結果を生んだが、多くの者達は違った。
只でさえ、濃霧による混乱の中、長尾軍が武田晴信の戦死を意味する『大膳大夫、討ち死に!』と叫んで触れ回ったものだから武田軍は大パニック。
足軽達は命惜しさに当然の事ながら我先に逃げ出す一方、それを指揮する者達は信じるな、逃げるな、止まれと叫んだ結果、同士討ちが随所で頻発。昨日の今日の為、正確な数字はまだ出ていなくても、国力がガクンと落ちるのは間違いないと先ほど武田信繁が肩を落として語っていた。
ともあれ、俺達三人がこの生島足島神社へ到着したのは夕方頃だったが、武田家の重臣達が揃ったのは深夜過ぎだったとか。
その頃、俺は差し入れて貰った酒と慣れない緊張の連続からの疲れでとっくに高いびき。深夜に起きていた大騒ぎにちっとも気づかなかった。
「よろしいか?」
戸板の前に跪く山本勘助が声を潜めながら目線を送ってくる。
すっかり涼しくなった禿頭を一撫で。俺が力強く頷いたのを合図にして、山本勘助が戸板を勢い良く開け放つ。
「騒々しいぞ! ここを何処だと思っている!
生島大神も、足島大神も朝っぱらから迷惑をしておるわ!」
武田信繁と山本勘助の二人が作ってくれた台本は頭の中にちゃんと詰め込んである。
昨日のような桜島級の大根っぷりは晒さない。武田晴信としての仮面を被り、喝を堂々と轟かす。
「と、殿っ!? ……そ、その頭は?」
場が静まり返り、数多の息を飲む音が聞こえた。
俺の姿を見た瞬間に感じる当然の疑問が即座に発せられて、その第一声の主へ視線を向けて驚いた。
眉を跳ね上げてしまうくらいの美青年がそこに居た。
数多に集った家臣達の最前列に居るのだから重臣中の重臣と考えられる。それなりに武田家重臣の名前を知っているつもりだったが、これほどの美青年が存在したという逸話を俺は知らない。
嫉妬すら飲み込んでしまう美青年に名前をつい問い質したくなるが、今は我慢の二文字。
俺が与えられているのは台本のみ。予備知識を持たない今、アドリブを効かせたらボロが出る可能性は高い為、台本に沿って進める。
「此度の戦……。儂の不甲斐ない采配のせいで多くの命を失ってしまった。
よって、儂はその多くの命の魂を慰める為と……。今後の己自身を諌めて、自制を促す為に仏門へ入ったのだ!」
ポイントは今日の晴れた青空を眩しそうに目を細めて見上げて、感情のボルテージをゆっくりと上げてゆくところ。
胸の前に置いた右拳をちょっと大袈裟なくらい力強く握り締めて、肩を微かに震わせながら喋りきった口の中で欠伸。涙を瞳に滲ませる。
「なんと……。なんと慈悲深きお言葉!
この真田幸隆、感服を致しました! 真田庄の者は悉く散れども、殿のその一言に全てが報われました!」
「そうか! そう言ってくれるか! 儂は果報者よ!」
その直後、ダンディーな髭のおじ様が涙ながらに吠えた。
さすがは武田家である。いきなり戦国時代のビックネーム登場に感動していると、それに続けと同様の名乗りが次々と挙がる。
穿った見方をするのなら忠誠を示すポーズだろうが、その熱気は本物。
武田晴信の高いカリスマ性を感じる。俺が知っている歴史において、武田信玄が亡き後の武田家を継いだ武田勝頼が家臣達を纏めきれず、武田家が滅亡へ一直線に進んだ理由が少し解ったような気がする。
「皆の心は嬉しい!
だが、仏門に入った。ただそれだけでは此度の戦で散った者達に申し訳が立たん!
そして、武田家は誰にとっても信賞必罰は絶対! そう、儂が定めた法を儂自身が破る訳にはいかん!
よって、儂は家督を今は甲斐で留守居役を務めている嫡男の義信に譲り、隠居する事をここに宣言する!」
名乗りはまだまだ続いていたが、右掌を突き出して止める。
この場に集った家臣達の数は百人を軽く越える。全てを聞いていたらキリがない。
しかし、静まるのを待って、突き出した右掌を握って見せながら吠えた途端、ざわめきにたちまち溢れた。
今先ほどの名乗り合いなど比較にならないほどの騒がしさであり、誰もが手近な者達と顔を見合わせている。
「兄上……。本気ですか?」
やがて、それ等の視線が俺の隣に、武田信繁に救いを求めるように集う。
俺と武田信繁は台本通りの展開に目が合うと口が思わず緩みかけるが、お互いに我慢、我慢。真剣な眼差しで見合う。
「みなまで言うな。安心しろ……。
儂はまだ生きている。家督を譲ると言っても、義信が完全に独り立ちするまでの間は後見をする」
「しかし……。いえ、そう言う事でしたら……。」
傍目には兄弟の睨み合い。その実はただのにらめっこ。
一呼吸、二呼吸と重ねて、五呼吸目。武田信繁が絡ませていた視線を落として、深呼吸を吐き出すように溜息を漏らす。
その渋々ながらの様子に新たな反対を出してくる者は居なかった。
公私共において、武田晴信の補佐を行っている武田家ナンバー2の武田信繁が納得したのだから当然だ。
だが、やはりと言うべきか。目の前に居並ぶ大半の顔に不安の色が見て取れる。
口には出せないが、武田家の後継者となったまだ二十歳を数えたばかりの若い武田義信に色々な面での不満が有るのだろう。
「しかし……。しかしだ。親とは愚かな存在よ。
儂はお前達の忠誠を疑った事は一度たりとも無いが、家督を譲るとなった途端、たちまち不安が襲ってきた。
なあ、信繁よ。お前達は儂と変わらぬ忠誠を義信に捧げて、義信が作る新たな武田を一緒に盛り立ててはくれるか?」
「御屋形様、そう言う事でしたら拙者は誓紙をお書き致します。
ここ、生島足島神社は朝廷とも繋がりが深い場所。誓いを立てるのにここほど相応しい地は有りません」
「おお、勘助! そこまで言ってくれるか! 儂は嬉しい! 嬉しいぞ!」
そこへ正に災い転じて福となす一計。
迷信がまかり通る今の時代、神仏に対する誓いはとても尊い。
生島足島神社の主神に武田晴信個人ではなくて、武田家に忠誠を誓約させる事によって、将来の禍根を絶とうという荒業。
ここでの大きなポイントは俺が武田信繁と話しているにも関わらず、山本勘助が許可を待たずに割り入ってきたところ。
聞けば、山本勘助は武田晴信から全幅の信頼を置かれて、家臣の中でも特に重用されていたのに加えて、甲斐の出身でも、信濃の出身でもない余所者の為、家臣達の間でやっかまれており、その山本勘助が横紙破りを行ったら家臣達も対抗心から誓約を申し出てくるだろうという思惑だ。
「静まれ! 誰か、神主殿を呼びに! あと墨と筆、紙もだ!」
そして、それが思惑通りになる。
さすがは戦国時代を代表する山本勘助の策である。凄いと言うしかない。
すぐさま俺へと家臣達が俺も、俺もと詰めかけて、その熱狂を武田信繁が一喝して鎮める。
熱狂が渦巻く中、山本勘助が俺にだけ聞こえる小声で『退くな!』と鋭く戒めなかったら確実に後退っていた。正直に言うと、初めて締めた褌の中がちょっぴり生温かくなっているのは俺だけの秘密である。
その場に堂々とした振る舞いで腰を下ろして胡座をかく。
武田信繁が指示をてきぱきと与えて、家臣達が長い列を俺の前に作ってゆく。この統率力も凄いと言うしかない。
「ところで、殿……。いえ、大殿。
仏門に入られたとなれば、新たな名を授かった筈。それをお聞かせ願えませんか?」
さて、その長蛇の列の先頭に立つのは先ほどの美青年。こいつは本当に誰なのだろうか。
言い換えるなら、目の前の列は武田家における序列も同然であり、その先頭に立つのだから俗にいう武田四天王の一人であるのは間違いない。
これほどの美青年で武田四天王となったら、絶対に何かしらの逸話が残っていそうだが、やっぱり記憶に無い。
逆に名前を問いたい猛烈な欲求を駆られながらも、美青年の問いかけに心の中で『よくぞ、聞いてくれた』と笑みをニンマリと零す。
「ふっ……。信玄」
「しんげん、に御座いますか?」
そう、偶然か、奇跡か。それとも、これが所謂『歴史の修正力』というものか。
剃髪した後、和尚さんから頂いた仏門へ入った証の名前は『来々軒信玄』であり、来々軒に関しては思わず『俺はラーメン屋か!』とツッコみたくなったが、まさかまさかの信玄に関しては心の底から驚いた。
「恵林寺の和尚殿が仏門に入る理由と家督を譲る件を話したら、えらく絶賛してくれてな。
武田家の証たる『信』と凡人には考え及ばぬという意味の『玄』を足して、信玄! 今日から儂の名は武田信玄だ!」
影武者に過ぎない俺が奇しくも戦国時代に名を馳せた武田信玄と同じ名前になった。
だったら、その名に恥じない人生を送らなければならない。まだまだ先行きに不安は有れども俺の心は高揚していた。