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第11話 上洛の旅




「大殿! ほら、あれ! あれ、あれ! あれが美濃ですか?」



 諏訪湖の西と繋がる天竜川を船でのんびりと川下り。

 天竜峡からは陸路を西へ進み、狭い山間の道と幾つかの峠を越えて辿り着いた美濃平野。

 先ほどまで険しい上り道に息を切らしていたのは何処へやら。桃が眼下に広がる巨大な平野を指さしながらはしゃぐ。



「ああ、そうだ。あれが美濃だ」



 その愛らしさに頬がたまらず緩む。

 桃が興奮するのは当然だ。桃が知る信濃の平野はどんなに広くても山間地の平野である。

 山脈という壁が近い、遠いの違いはあっても四方に必ず立ち塞がっているが、眼下の美濃平野は違う。


 小山や大地の起伏は有っても山脈の壁が見当たらない。

 平野は遥か彼方まで広がって、地球の丸さを実感するほどに地平線へと続いており、この光景を信濃で絶対に見る事が出来ない。


 では、その信濃では絶対に見る事が出来ない光景を俺達が今見ているのは何故か。

 それが義信に全ての原因が有る。俺がのらりくらりと煙に巻いた末に押し付けた藤孝殿の巧みな弁舌に根負けして、上洛の要請に応じてしまったのだ。


 何故ならば、今の武田家には上洛する余裕が幸いにして有る。

 武田家当主の義信は甲斐から動けなくても、気楽な隠居暮らしの俺には自由気ままに動ける余裕が有った。


 それに加えて、義信と晴信の知名度を比べたら、晴信の方が圧倒的に上。

 隠居した俺『武田信玄』でも上洛したら、武田家と将軍『足利義輝』の面目は十分に立つ。


 そう泣き落としされて、義信はどうしても断りきれなかったらしい。

 正直なところ、可能性の一つとして考えていたが、上洛要請を携えた早馬が届いた時、溜息がこれでもかと漏れた。


 現代なら車や鉄道などを利用して、京都は半日で済む旅。

 だが、ここは戦国時代。基本的な移動手段は自分の足になる。京都までの長い道のりを考えたら億劫で、億劫で仕方が無かった。


 ところが、いざ出発してみると違った。自分の足で行く旅はなかなか良いものだ。

 さすがに最初の数日は疲労と足の筋肉痛で完全なお荷物状態だったが、それに慣れてくると景色を愛でる余裕が出来てきた。ゆっくり、ゆっくりと歩んで行く旅は情緒に溢れていた。



「それにしても、雨が降り止んで本当に良かった。これ以上、道が泥濘んでは堪らんからな」



 但し、厄介なのが雨。

 こればかりはどうする事も出来ない。


 後の世に中山道と名付けられる道は古来よりの人の往来で確立している。

 だが、それだけだ。今の戦国時代、道は敵の侵略を防いで遅らせる為に整備を怠った道ばかり。

 雨が降れば、到るところが水溜まりになって泥濘み、場所と雨量によっては通行が難しい小川と化す。


 その結果、どうしても足元が濡れて汚れる。

 イネ科の植物の茎を編んで作った雨合羽代わりの蓑だって、とても蒸れる為に着心地はお世辞にも良くない。


 しかも、戦国時代の者達は逞しい。

 現代人の感覚なら諦める雨の中の歩き旅を諦めない。

 強い風が一緒に吹いていたり、よほどの大雨でない限り、当然のように受け止めて動じない。


 例えば、今朝が正にそうだ。

 屋根を叩く雨音に目が醒めて、その音の強さから『この山小屋にもう一泊だな』と二度寝を決め込もうとしたが、桃に『何をもたもたしているんですか! 早く出発の準備をして下さい!』と叩き起こされている。



「今朝、この先に沢が有ると聞きました。そこで草鞋の泥を落としましょう。

 このままでは歩き難いですし、いざという時に滑ってしまうかも知れません」



 もっとも、感覚は違っても同じ人間。雨の中、歩くのをしんどいと感じるのは一緒。

 立ち止まった俺の背後から話しかけてきたのは、槍を杖代わりにして歩きながら旅の荷物を背負った馬を牽く『穴山信君』である。


 彼は晴信の次女を娶り、俺が知る歴史では武田二十四将の一人に数えられている武田家の重臣だが、今はまだ家督を継ぐ前の十七歳の若武者に過ぎない。

 父『穴山信友』が仏門に入っての隠居を俺に倣って強く希望しており、そういう事情が有るなら家督を継ぐ前の気楽な身分の内に見聞を広めてはどうかと俺が今回の旅の同行者に誘った。


 なにしろ、上洛とは京都へただ行くだけでは無い。

 今上天皇と室町幕府の征夷大将軍、この二人との拝謁を目的にしており、その権威は全盛より薄れたと言えども大変に名誉な事である。

 無論、実際に拝謁するのは従四位下の官職『大膳大夫』を持つ俺『武田信玄』一人だけだが、同行を担っただけでも末代まで語れるほどの名誉だ。


 それだけに当然と言うべきか、俺の上洛が決定すると、誰が護衛として同行するかの一悶着が起きた。

 屋敷に詰めかけて、用を足している最中でも戸の向こう側から私が、俺が、儂が、某が、拙者がと喚き立てる始末。

 鬱陶しさで我慢が出来なくなり、逆に名乗りを挙げていなかった今年の春から屋敷の警備隊長となった穴山信君に白羽の矢を立てた。


 また、影武者と言えども、俺が旅の途中で命を落としたら武田家の一大事。

 常日頃、屋敷を守っている兵士達の中から選抜された約二十人が護衛に同行している。


 しかし、護衛をぞろぞろと連れて歩くのは堅苦しいし、自分が重要人物だと対外的に告げているようなもの。

 山賊に狙われてしまう危険度を逆に高め、武田家の支配下から離れるここから先の国主達に要らぬ緊張を与える可能性が有る。

 その為、陰ながらの護衛を行っており、翌日に行く道の安全と今夜の宿の選定する先行組と付かず離れずに俺達を間に挟んで前後を行く現場組に分かれている。



「ですが、この景色は雨が降ってこそですよ?

 こうも遠くまで澄み渡って見えるのは雨が降った後の晴れ間だけですからね」



 もう一人の同行者は、上洛を武田家に要請してきた当人の藤孝殿。

 その声に振り向くと、さすがは当代一の文化人。俺が着込むと正しく蓑虫状態の蓑ですら見事に着こなして、麗しい容貌をちっとも損なわせていない。

 これで武芸、和歌、茶道、蹴鞠、囲碁、料理と何でもござれのリアルチートであり、それを決してひけらかそうとしない好感が持てる性格なのだから嫉妬を抱く以前に尊敬の念しか湧かない。


 それに藤孝殿が持つ豊富な知識は旅をする上で大いに役立っていた。

 各地の名所、名物から行く道の傍らに茂っている雑草まで何でも知っており、ガイドさん要らず。



「おっ!? さすがだな。藤孝殿は考え方が実に雅だ」

「そうだ! 細川様、ここで一句を是非!」

「えっ!? いや、しかし……。」

「儂からも頼む。桃の願いを聞いてやってはくれないか?」

「勉強になります! うちの父は教養を知れと五月蝿いですから!」

「皆さんがそこまで仰るのでしたら……。」



 おかげで、俺達はご覧の通りに退屈とは無縁の旅を満喫。京都へのんびりと向かっていた。




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