「う~~~ん……。」
現代における城は数十年どころか、数百年の時を経た遺跡であり、文化財である。
現代以降に復元された城は別として、用いられている木材は煤などを表面に付着させて黒ずんでおり、永い時の積み重ねを目で感じ取れる。
しかし、戦国の世では現役バリバリの防衛施設。
新しい城は木材が若々しくて、鼻を近づけてみれば塗られた防腐剤の臭いを感じ、遺跡と呼べるような古い城も利便性と防御力を高める為の改築が加えられて、古さと新しさが混在している。
ここ、二条城は特に真新しい。
新築独特の香りを仄かに感じる評定の間に一人。俺は将軍『足利義輝』の到着を待っていた。
それも既に結構な時間を。
だが、非はこちらにある。寄り道をしないで訪れた為、午後からの謁見予定を午前に変更して貰ったのだから仕方がない。
俺達一行が二条城へ到着した時、将軍は剣の鍛錬中だったらしい。
せっかく遠路遥々来てくれたのに薄汚れた姿では会えない。一風呂を浴びて、身綺麗にするのを待って貰えないかと頼まれては待つしかない。
「う~~~ん……。」
そうした理由から待っている内、祇園神社で感じた憤りは鎮火していた。
幕臣達が俺の訪問を歓迎する中、俺は怒ってますよと鼻息をフンフンと荒くさせて、二条城の廊下をドシドシと踏み鳴らして歩いたアピールが今は恥ずかしくてたまらない。
恐らく、この待ち時間は俺に冷静さを取り戻させる藤孝殿の策だ。
そうでなかったら、幾らなんでも待たせ過ぎ。先ほど結構な時間をと言ったが、現代の時間単位でいうなら二時間は経っている。
おかげで、お代わりが定期的に運ばれてくるお茶で満腹。
身体を左右に揺すってみると、腹の中から音がたぷん、たぷんと聞こえてくるし、厠は既に三度も往復している。
「う~~~ん……。」
相手の意図が解りさえしたら、あとは容易い。
向こうが望む通り、こちらは憤りを収めて、今は退屈を持て余していますよと素直にアピールするだけ。
それで姿は見えなくても何処からか俺の様子を窺っている者が準備が整ったと判断して、将軍が姿を現すに違いない。
冒頭でも言ったが、ここは評定の間。
畳を暇潰しに数えたら三十。俺の為にたった一枚だけ用意された来客用の座布団と二枚の畳を間に挟み、その先にある上座の高さが一段高くなっているところからそれが解る。
そして、上座の奥にある床の間。
現代では建築様式の洋風化が著しく進み、古い家でしか見かけなくなったそれは一見すると無駄なスペースにしか思えないが、それは大きな誤りである。
床の間に飾られる掛け軸や季節に応じた生花は家主のもてなし。
訪問客の目を楽しませて、家主の到着を待ったり、中座している間の退屈を紛らわせる役割を担っており、それが会話の潤滑油にもなっている。
つまり、それ等の調度品に関心を払っていたら、それが退屈を持て余していますよというアピールになる。
ただ、残念ながら糠に釘、暖簾に腕押し、馬の耳に念仏、カエルの面に水。俺は美術品全般に興味を持っていないから困る。
天下の征夷大将軍が居城とする床の間に飾られている調度品だ。
生花も、それを飾る花器も、隣の青染めの皿も、鷹が描かれた掛け軸も国宝級の品で間違いないだろうが、まるで興味が惹かれない。
それこそ、上座の将軍が座る予定の座布団の横。肘置きの脇息の反対側に置いてある『地球儀』なんて、時代を先取りした最大の目玉に違いないが、俺の認識では置き場を持て余す只のゴミでしかない。
小学校に入学した時、学習机と一緒に両親から買って貰い、当初は喜んだ記憶が今も有るが、その用途は高速回転させて遊ぶくらい。いつからか、衣装タンスの上に置かれて、そのままずっと埃を被って放置されている。
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり……。」
だが、床の間とは逆側。自分が座る座布団の背後。
その奥にも三十畳の間があるだろう閉められた白襖に書かれた文字がどうしても気になった。
最初は単純にアンバランスな配置が気になった。
六枚一組の襖の内、字が書かれているのは右から三番目の一枚のみ。明らかに不自然な配置だった。
恐らく、意味に中途半端さを感じる文字書きには続きが有り、それをいずれは左隣に書く予定なのだろう。
そして、なるほどと納得して頷くが、その直後に『あれ?』と首を傾げた。
中途半端さを感じた事自体がおかしい。書かれた言葉に見覚えと言うか、聞き覚えと言うか、知っているような気がした。
『天運はどうにもならない。
だが、己をどう守るか、どう戦うかは己の心構えと日々の鍛錬の積み重ねにある。そして、功績もまた自力で勝ち取るものだ』
そのせいだろう。書かれた言葉は俳句のように短いが、短さの中に込められた作者の意図がするりと解った。
旅の道中、藤孝殿から俳句、短歌を幾度も詠んで貰い、その度に解説を交えた勉強会を行っていたおかげで俺も心得えくらいは持てるようになったが、まだまだ門前の小僧程度。こうも簡単に読み解けるほど俺の教養は高くない。
「何処かで……。何処だ?」
だったら、この言葉は現代に至るまで受け継がれていた偉人、英雄の名言に違いない。
しかし、それが誰なのかがどうしても解らない。魚の小骨が喉に引っかかったような苛立ちを覚える。
言葉が書かれた襖の前を左へ、右へと腕を組んで歩く。
角度を変えて、何度も立ち止まって眺め、皺を眉間に刻んで穴が空くほどに凝視する。
「気になるか?」
「んっ!? まあね」
だが、没頭しすぎたのは失敗だった。
ふと背後から投げられた声に思わず相槌を打つと共に振り返り、一呼吸の間を空けて、目が飛び出るくらい驚愕した。
いつからそこにいたのか、将軍『足利義輝』が微笑んで立っていた。
俺『武田信玄』にタメ口を叩ける者はそう居ない。自己紹介が無くても、その正体がすぐに解った。
確信を裏付けるように将軍と一緒に先ほどまで居なかった二人が居る。
一人は将軍の左隣に跪いて苦笑する藤孝殿。もう一人は将軍の右隣に跪き、顎を引きながら目を伏せている太刀持ちの小姓だ。
「こ、これは失礼を致しました!」
慌ててジャンピング土下座。我ながら見事に決まった。
この程度で有り得ないとは思うが、俺の馴れ馴れしい無礼な態度が将軍の勘気に触れて、武田家に悪影響を与えては困る。
「はっはっはっ! 良い、良い! それより、この襖書きが気になるか?」
「はっ! 日々の精進を戒める素晴らしい金言かと!」
「うむ! 儂も気に入っている!
だから、ここに置いたのだが、おかげで気が抜けぬ! 毎日、必ず目にするからな!」
しかし、その心配はどうやら要らない様子。
将軍は上機嫌に喉の奥が見えるほど笑い、俺は胸をホッと撫で下ろして、伏した顔を上げる。
俺が知る戦国時代の知識では、剣豪将軍と名高い足利義輝。
その異名に相応しく武辺者で気質が剛気なのだろう。ご機嫌さを抜きにしても、声が大きい。
「しかし、さすがだな。遠く離れていようと、気配を感じるとは……。」
「それは如何なる意味で?」
「その襖書きは景虎が書いたものだ」
そう感じていたら、声のトーンを急に下げてきた。
何やら含みを持つ言い様に問いかけると、将軍は視線を襖書きから俺へと移して、俺を無言で暫く見つめた後、襖書きの作者を明かした。
「景虎がっ!?」
喉に引っかかっていた魚の小骨が取れて、気分はすっきり爽快。
顔を反射的に襖書きへと向けて、つい『そう、それだ!』と続けそうになった言葉を飲み込む。
この襖書きは長尾景虎が残したとされる合戦の心得え。
俺が知っている心得えはこの襖書きにあと三文の追加が有り、まだ現時点では長尾景虎の中で生まれておらず、あとから書き足すつもりなのではなかろうか。もし、それが正しいなら、アンバランスに配置された襖の理由が頷ける。
「以前、景虎が上洛した時、この二条はまだ建築途中でな。
財を叩いて、ようやく城は出来るが、客をもてなす品が無いとつい嘆いてしまったら、景虎がそれならと書いてくれたのだ」
「ほほぉ~う……。それを聞いては黙っておれませぬな」
「んっ!?」
それにしても、この心に広がる感情は何だろうか。
将軍から襖書きの由緒を知らされると、爽快感は一気に霧散して、ざわざわと落ち着かなくなってきた。
まさか、晴信の影武者を演じている内、心も晴信に近づいてきたのだろうか。
確実に言える事は、天下の征夷大将軍が居城とするこの二条城の中心で長尾景虎が高らかに名乗りを挙げているならば、晴信の影武者たる俺も名乗りを挙げずにはいられないという事だ。
「藤孝殿、筆と墨を用意してくれないか?」
「おおっ! 信玄、お前も書いてくれるか!
これは凄いぞ! お前と景虎の書が列べば、我が家の家宝になる!」
「いやいや、景虎の襖など引っ込めたくなるほどのものを書いてみせますよ?」
先ほども言ったが、俺が持つ俳句や短歌の心得はまだまだ門前の小僧程度でしかない。
だが、俺は知っている。現代に至るまで受け継がれて、現代社会でも十分に通用する晴信の金言を知っていた。