時を巻き戻そう。昨日の夜に。
「た、大変だ!!!おーーーい!みーーーんな!!イヌガミが来たぞ!!」
そう叫んで山の下に走ったのは、ウジャ。
早くして両親を失い、祖父母に引き取られて生きてきた少女。
じいちゃんは三年前に事故で亡くなり、ばあちゃんと二人で暮らしていたが、そのばあちゃん──アイハバこと、アイ婆さまも、もういない。
ウジャは今、山の上の祖父母の家でひとりきりで暮らしている。
じいちゃんは、イノシシなどの獲物の仕留め方、裁き方を教えてくれた。
弓矢を託されたときの、あの誇らしげな顔。
「こいつはな、ウジャだけのもんだ」
今、その弓が彼女の命綱であり、心の支えである。
腰には、近接戦のために鉈も巻き付けてある。
ばあちゃんは、山菜の見分け方や川魚の裁き方、保存の仕方を教えてくれた。
教わったことが、今の命を繋いでいる。
昨日の夜だ。山の上は、異様なざわめきに満ちていた。
風の音も、木々の揺れも、何かが違う。
その刹那。
──山が、吠えた。
木々が揺れるわけでもなく、風が鳴くわけでもない。
けれど、音のしない“何か”が、確かに降りてきていた。
獣……いや、それ以上の、圧力。
ウジャの身体を、冷たい汗が伝う。
背骨に這うような悪寒。
「山に住む者の直感。感性無き者は死す」
じいちゃんの口癖だった。
今、その言葉が、鮮明に蘇る。
(来た……ほんとうに、来た)
ウジャは知っていた。
村人たちは、信じない。
昔からそうだった。
アイ婆さまの言葉すら、「山の婆の戯言」として扱われてきた。
(信じてくれないなら、私が行くしかない)
フッと、一息……
弓を握る手に力を込めた。
じいちゃんの形見──革紐は、汗で冷たく濡れていた。
門を開ける。
“奴”を撃つ準備だ。
見えた。想像外の──生き物だった。
太い木々を爪で割く腕、荒々しい息、赤い目。
身の丈、八尺もあろうか。
白く覆われた体毛。しかも、二足歩行。
それが──二体。
弓を構えて射程を──
飛び込まれた!!!!!
ギリで交わす! 転倒、立て直せ!
もう一体が飛びかかってくる!
ウジャ、よっぴいて──ひゃうど放つ!
片目に刺さった!!
咆哮とともに、仰け反る一体!
もう一体が覆いかぶさって来る!!
腰から鉈を抜く! 右脇腹に刃を入れる!!!
肝臓辺りだ!! 横に引け!! ウジャ!!!
「うぇぁぉおぁおおおおおおお!!!!!」
渾身の力で、鉈を横に引いた。
引かれた一体の動きが止まる。
凄まじい咆哮。
その声に、どこか人の嘆きが混ざっていた。
ハァ……ハァ……
体力的にも、そろそろまずい。
至る所から出血をしている。
もう一体、片目の本体が、自ら矢を抜いて詰め寄る!
ウジャ、懸命な判断!!!
ウジャは、転がるように山を下る!
助けを求めろ! 声を!
喉は渇いても、叫べ!
「た、大変だ!!!おーーーい!ゲホッ!!みーーーんな!!イ、イヌ、ガミが来たぞ!!」
「ゲホッ!!食料無くて、山から降りて来てるだ!! 一体は、な、なんとぉ、か倒した!!」
「と、年寄りと子供は、い、家隠れろ!!大人は加勢してぇけれ!!!」
「た、頼んまっ……む、村さ……護んねぇと……」
「……なんだぁ?……こげな夜中に…イヌガミ?そんななぁ、いねぇだろがよ…」
「だいたい、誰だぁ?気狂いしたよな、声ぇ出して叫んでんのはよぅ……」
「あぁ…あれだぁ、アイ婆さまんとこのウジャとか言ってたかぁ…」
「あの小汚ねぇのが……ナンでもイヌガミ?だと…」
「まぁ、今年はよぉ……変なさ、天気が続いてよぅ、山の下でも不作続きだからよなぁ……」
「とりあえず、戸……しっかり閉めてさぁ、寝んべよぅ……」