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第3話 イヌガミ

時を巻き戻そう。昨日の夜に。


「た、大変だ!!!おーーーい!みーーーんな!!イヌガミが来たぞ!!」


そう叫んで山の下に走ったのは、ウジャ。

早くして両親を失い、祖父母に引き取られて生きてきた少女。


じいちゃんは三年前に事故で亡くなり、ばあちゃんと二人で暮らしていたが、そのばあちゃん──アイハバこと、アイ婆さまも、もういない。


ウジャは今、山の上の祖父母の家でひとりきりで暮らしている。


じいちゃんは、イノシシなどの獲物の仕留め方、裁き方を教えてくれた。

弓矢を託されたときの、あの誇らしげな顔。

「こいつはな、ウジャだけのもんだ」

今、その弓が彼女の命綱であり、心の支えである。

腰には、近接戦のために鉈も巻き付けてある。


ばあちゃんは、山菜の見分け方や川魚の裁き方、保存の仕方を教えてくれた。

教わったことが、今の命を繋いでいる。


昨日の夜だ。山の上は、異様なざわめきに満ちていた。

風の音も、木々の揺れも、何かが違う。


その刹那。


──山が、吠えた。


木々が揺れるわけでもなく、風が鳴くわけでもない。

けれど、音のしない“何か”が、確かに降りてきていた。


獣……いや、それ以上の、圧力。


ウジャの身体を、冷たい汗が伝う。

背骨に這うような悪寒。


「山に住む者の直感。感性無き者は死す」

じいちゃんの口癖だった。


今、その言葉が、鮮明に蘇る。


(来た……ほんとうに、来た)


ウジャは知っていた。

村人たちは、信じない。

昔からそうだった。

アイ婆さまの言葉すら、「山の婆の戯言」として扱われてきた。


(信じてくれないなら、私が行くしかない)


フッと、一息……


弓を握る手に力を込めた。

じいちゃんの形見──革紐は、汗で冷たく濡れていた。


門を開ける。

“奴”を撃つ準備だ。


見えた。想像外の──生き物だった。


太い木々を爪で割く腕、荒々しい息、赤い目。

身の丈、八尺もあろうか。

白く覆われた体毛。しかも、二足歩行。


それが──二体。


弓を構えて射程を──


飛び込まれた!!!!!


ギリで交わす! 転倒、立て直せ!


もう一体が飛びかかってくる!


ウジャ、よっぴいて──ひゃうど放つ!


片目に刺さった!!


咆哮とともに、仰け反る一体!


もう一体が覆いかぶさって来る!!


腰から鉈を抜く! 右脇腹に刃を入れる!!!


肝臓辺りだ!! 横に引け!! ウジャ!!!


「うぇぁぉおぁおおおおおおお!!!!!」


渾身の力で、鉈を横に引いた。


引かれた一体の動きが止まる。

凄まじい咆哮。 

その声に、どこか人の嘆きが混ざっていた。


ハァ……ハァ……

体力的にも、そろそろまずい。

至る所から出血をしている。


もう一体、片目の本体が、自ら矢を抜いて詰め寄る!


ウジャ、懸命な判断!!!


ウジャは、転がるように山を下る!

助けを求めろ! 声を!

喉は渇いても、叫べ!


「た、大変だ!!!おーーーい!ゲホッ!!みーーーんな!!イ、イヌ、ガミが来たぞ!!」


「ゲホッ!!食料無くて、山から降りて来てるだ!! 一体は、な、なんとぉ、か倒した!!」


「と、年寄りと子供は、い、家隠れろ!!大人は加勢してぇけれ!!!」


「た、頼んまっ……む、村さ……護んねぇと……」


「……なんだぁ?……こげな夜中に…イヌガミ?そんななぁ、いねぇだろがよ…」


「だいたい、誰だぁ?気狂いしたよな、声ぇ出して叫んでんのはよぅ……」


「あぁ…あれだぁ、アイ婆さまんとこのウジャとか言ってたかぁ…」


「あの小汚ねぇのが……ナンでもイヌガミ?だと…」


「まぁ、今年はよぉ……変なさ、天気が続いてよぅ、山の下でも不作続きだからよなぁ……」


「とりあえず、戸……しっかり閉めてさぁ、寝んべよぅ……」

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