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第3話 慈悲と情け

 帝都は、決して眠らない。

 無数のネオンがアスファルトに反射、コンクリートの壁をけばけばしく染め上げる。人々は欲望と喧騒へと消えていく。

 だが、光の裏側には影がある。表を生きる者たちが、決して知ることのない闇は常に口を開いているのだ。


「お兄さん、今日も一日おつかれさま。辛かったでしょう? ええ、あなたは十分がんばってるわ」


 終電間際の駅のプラットホーム。その端に、人知れず佇む影。

 仕事のプレッシャーに、心を病んだ若いサラリーマン。虚ろな目で線路を見つめる。

 そこに寄り添う、労わりに満ちた声。肩に、透き通った手がそっと置かれた。


「だから――もうぜんぶ終わりにしませんか?」


 男は頷くと、誘われるように黄色い線への向こう側へと歩む。

 疲れ果てた魂を、慈しむのは死神だった。


「チッ、ここにも彷徨い歩いてやがったか」


 忌々しげな舌打ちが、ホームの影から漏れた。壱武は苛立ちを隠しもせず、数枚の呪符を指に挟む。

 プラットホームを吹き抜ける風が、隣に立つ淡い栗色の髪を撫でた。


「おい、千弥。さっさと済ませろ。こちとら腹が減ってんだ」

「わかってるって。……でも、この子、すごく悲しんでるんだよ。悪意もないんだ」


 薬子 千弥は穏やかに見つめる。

 網膜には、哀れな少女の姿が映る。セーラー服、顔が半分潰れて悲しげだ。とめどなく溢れ出す、無念のオーラ。

 この場所を、忌まわしい念の吹き溜まりへと、変えつつある地縛霊。


「ねえ、きみ。おれと話そうよ。うん、ちゃんと聞いてあげるから」


 千弥の歩みに合わせ、背後に立つ壱武は補助を担う。

 呪符が舞い、不可視の障壁となって空間を切り取る。これ以上の霊障汚染と逃亡を防ぐための仕切り。


「そっか、辛かったんだね。もう頑張らなくていいんだよ、誰もきみを責めたりしないから。……そう、きみこそ頑張らなくていい」


 千弥はさらに踏み出し、結界の内へ。人と霊の境界線などないかのように、少女へためらいなく手を差し伸べる。


「きみは優しい子だったんだね。苦しみを、誰にも言えなかったんだ。だから、同じ境遇の人に寄り添ってあげたかったんだね」


 千弥の声は、夏夜の涼風に似ている。

 祓うでも、縛るでもない。ただ凍てついた孤独に、寄り添うように。

 少女が、びくりと肩を震わせた。千弥は構わず、透き通った身体を、薄氷を扱うかようにそっと抱きしめた。

 死の冷気が、千弥から命を奪おうとするが、眉一つ動かすことはない。


「たくさん我慢したんだね。えらかったよ。……だから、もうぜんぶ終わりにしようね」


 凝り固まっていた怨念が、春雪のように溶かしていく。

 少女の瞳から、墨を流したような涙が止めどなく溢れ、やがて光の粒となってかき消えて行った。


 残されたサラリーマンは、はっと我に返り、「俺は、なにを?」と呆然と線路を見つめ、へたり込んだ。

 なぜか、男の目からも涙が零れる。


「なんだか、すごく。優しい誰かを失くしてしまった気がする」

「そう。……覚えておいてあげてね、その感覚」


 後処理は、陰陽省の後詰部隊の仕事だ。

 浄化の余波で、僅かに千弥がふらつく。すぐに壱武が乱暴に掴んで支えた。


「この大馬鹿者が。毎度毎度、己を削るなと何度言えば分かる」

「へへ。だって、放っておけないだろ」

「死人相手に同調しすぎだ。慈悲は持っても、情けを掛けるな」


 心底呆れたように吐き捨てるが、口調とは裏腹に、壱武は上着の袖で、千弥の額に滲んだ冷や汗をぐいと拭ってやった。

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