帝都から離れた安曇の地は、時の流れすら緩やかに思える。
駅まで迎えに来たのは、薬子の分家筋『贄川』だった。
「お久しぶりです。真弥様、千弥様」
「えっと……?」
「ああ、無理もございません。わたくしめは、
「あー、ごめんね。おれってば、たくさん人がいて覚えてないや」
「もう、兄貴は仕方ないなあ」と、頭を抱える真弥。
しっかり者の真弥は、有望そうな若者にはしっかり目を付け、忘れるはずもない。
贄川 銕郎は、すっきりとした面立ちの若者で、二十代半ばに見えた。伸ばされた髪は、きちんとひとまとめにされており、前髪だけが片方垂れさがっている。
「ん? ああ、申し訳ございません。見苦しいでしょうか。実は、髪を切ってはならぬ期間に入っておりまして」
「あっ、いやいやいや! そんなことはないよ、うんっ!」
贄川が申し訳なさそうに頭を下げたので、慌てて千弥はフォローした。神職の行事に携わるなら、珍しくもない。
「で、そちらが。卜部の次期ご当主様でいらっしゃると」
「そうだが? なんだ、不服そうだな」
「いえ。本家のご子息、ご息女に妙な虫がついても困りますので。ちょうどいことかと」
「ほう。俺を虫除け扱いか?」
なぜか合わせた目線に、バチバチと火花が散っているように見える。
真弥は「あー、もう。男共ってば」と首を振る。
「とんでもない。卜部家の武勇は、我らのような者にまで轟いておりますので。真弥様、千弥様の護衛として、これ以上心強い方はおられますまい」
護衛。贄川 銕郎は、涼しい顔で言ってのけたが、他家の御曹司を護衛扱いするのは、当然ながら礼を失する挑発だ。
緊張感が漂うなか、一同は送迎車両に乗り込みはじめた。
「道中ですが、せっかくですので少しご案内しましょう」
「ねーねー、銕郎くん。こっちって何が美味しいの? 名物は?」
急に気安く話しかけてくる千弥に、にっこりと微笑む贄川。
「そうですね、有名なのはワサビや蕎麦ですが。名水どころですので、地酒もよろしいかと思いますね。コーヒーも美味かと」
「へー、ワサビかぁ」
「お嫌いですか? 足を延ばせば、ワサビソフトクリームなどもございますよ」
「えっ!? なにそれっ! 食べたいっ!」
千弥はすっかり観光気分だ。
北アルプスの透き通る空気、白雪積もる山々の美しさは涼し気。窓の外に広がる田園風景は、都会で疲れ切った心を安らげてくれる。
「なんだか、ほっとするところねぇ」
助手席で真弥が呟くと、後部座席の二人も同意した。
「フン、まあ悪くない」
「来てよかったね~、せっかくだから思い切り癒されていこうよ。あっ、空気がうまいっ!」
「ちょっと兄貴、虫入ってくるから窓閉めて」
「いいじゃんかよー、満喫しねえと損だろ!」
賑やかな車内で、談笑の花が咲く。それでもなお、ムスッと腕組みし続けている壱武に、千弥は首を傾げた。
「あのさ、仕事なのはわかるけど。今からそんなに、しかめっ面してたら、さすがに身が持たないんじゃない?」
「ふぅ、確かにな。お前の言う通りだ。おい、贄川とか言ったな」
ぶっきらぼうに、ハンドルを握る贄川に声を掛ける。
「はい、なんでしょう?」
「耳塚や胴塚には、立ち寄らないのか」
朗らかな雰囲気を断ち切る、壱武の問い。バックミラー越しに、贄川の目が僅かに細められる。
「……流石は卜部の若様、よくご存知で」
「当然だろう。我が家は忘れたことはない。特に耳塚は、お前たち安曇の民にとっては、忘れ得ぬ場所のはずだ」
「え、耳塚とか胴塚って?」
千弥の疑問に、助手席の真弥が補足する。
「兄貴。これから行くお祭りはね。八面大王っていう人物に、所縁があるものなの」
「はちめん、だいおう?」
「ええ。昔、この土地を支配していた
坂上田村麻呂と聞き、千弥は隣にいる幼馴染を見た。
卜部の源流を辿れば、かの征夷大将軍に辿り着くからだ。その英雄と、鈴鹿御前の子孫こそが、卜部家。
「それで、なんで耳塚?」
「降伏した八面大王は自身の命と引き換えに、配下の助命を乞うたの。『俺の命はいらないから、部下の命は助けて』って」
「あれ、いい人じゃん」
「うーん、いい人かどうかは、切り取り方によるんじゃないかな。で、裁きに掛けて死刑にしようとしたら、住まう村々の地頭たちは止めに入ったのね。それで刑が軽くなって、本人は両耳を落とし、部下たちは片耳を落とした」
その耳を収めたのが、耳塚。血なまぐさい話だが、人々の減刑嘆願の話を聞いて、じーん、と千弥は胸が熱くなった。
「良い話じゃんか! おれ、感動したっ!」
「ま、そこで終わればね」
「……へ?」
「両耳が落とされた八面大王は、その後、地頭に連れられ、穴に落とされ。石をどんどん載せられて、殺されたの。
千弥はゾッとした。ならば胴塚というのは……最期にはバラバラにされた、ということなのでは?
楽しい気分が、冷水を突然浴びせられたように醒めた。ここは悔恨と怨念の出発点。
「リンチって、そんなのひどくないか?」
「『これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みを晴らす』と、地頭たちは言い放ったそうだ。自分たちで裁きを下すため、わざわざ減刑嘆願をしたというわけだな」
壱武はただ、歴史書を読むように淡々としている。
「とはいえ、看過した俺の先祖も先祖だが」
「どうして、そんな」
「八面大王は、朝廷から見れば反逆者。地頭たちにとっては、土地を奪った侵略者。公的な裁きだけでは、恨みは到底晴れなかったのだろうな」
静かにハンドルを切る贄川が、バックミラー越しに千弥を見つめる。瞳に、どこか悲しげな色が揺らめいていた。
「地頭たちの行為もまた、土地と家族を守るための必死の行動であったのやもしれません。……とはいえ、結果として八面大王は二度罰を受けた。一度は公儀の裁きで、そして二度目は民の私刑で。この二重の刑罰が、強大な怨念を生むことになりました」
この怨みこそが、八つの顔を持つ鬼神へと変貌させたのだという。
車が、緑深い山道へと差し掛かる。木漏れ日が、フロントガラスに影を落としていた。
「そんな哀しい話があったんだな。じゃあ、おれたちが今から行く『面隠し祭り』っていうのは、八面大王を鎮めるためのお祭りってこと?」
千弥の純粋な問いに、壱武が鼻で笑った。
「鎮める、か。まあ、たぶん間違っちゃいないが。既に八面大王は、過去に俺たち退魔師とやりあってんだよ」
「わたくしめが案内するのは、そんな八面大王の……最近、発見された『仮面を鎮魂する一族』の村なのです」
速度を落としていく。
澄み切った川がキラキラと反射し、脇にはどこまでも続く青々とした田んぼが広がる。水鏡に映る青空。
点在する古民家、道の脇には季節の花が咲き誇っていた。