真弥から、こってりとお説教を喰らった翌朝。
一応は、しゃんとした顔で、倉科家の客間に揃っていた。壱武と千弥の間に流れる空気は、どこかギクシャクしているが。
「おれ、悪くねえもん」
「だって、コイツが……」
「おだまりっ! 男どもっ!」
真弥が叱りつけて黙らせてから、案件を進める。
「皆様、昨日はお楽しみいただけましたでしょうか。準備が整いましたので、御神体の元へ、ご案内いたします」
現れたのは、やはり真っ青な着物に身を包んだ、倉科 由良だった。市松人形のような容姿に、控えめで奥ゆかしい微笑が湛えられている。
「村長はいないのか?」
「案内はわたくしが相応しいかと。仮面を取り扱うお役目は、もはやわたくしが担っております」
「へー。由良ちゃん、まだ若いのにすごいんだね」
「それほどでもございませんのよ、どうぞこちらへ」
屋敷は、複雑に入り組んでいた。
客間から続く廊下から、さらに足を踏み入れる。歩くたびに、磨き上げられた檜の床板が、重みを確かめるように心地よく軋んだ。
「奇妙な間取りだな」
「気の流れが変だね。あ~、怪異を惑わせる構成なのか」
「ご明察です、千弥様。あまり風水的には、よろしくないのでしょうけれど」
「屋敷のこちら側が、疑似的な異界になってるの面白いね」
さらっと直感めいた洞察で、千弥は看破する。培われた鋭敏な感性は、容易く違和感を知識によって裏付けする。
さすがに一行は、感心の声を漏らした。
「言われてみれば、確かに。兄貴の言う通りだわ」
「さすがは薬子の長子、千弥様でございます」
区画に張り巡らされているのは、建築の観点から、人ならざるものを惑わせる術法。重ねて張られた結界は、人の立ち入りを拒むのではなく、内にある何かを封じるための術理。
終着点は、異質なほどに重厚な造りだった。扉には幾重にも呪符が貼られ、意匠の施された威圧的な
「ここが、神蔵でございます。……開けなさい」
使用人たちが厳かに閂を外していく。ギィィ、という悲鳴に似た音と共に、冷気が溢れ出してきた。
蔵は、外光が一切届かない、伽藍とした闇。由良が燭台に火を灯すと、ようやく姿を現す。
中央に一つだけ置かれた、白木の台座。
――そこに『歓喜の相』が鎮座していた。
見る者がつられて笑ってしまいそうなほど、満面の笑みをたたえていた。目尻は下がり、口角は大きく上がっている。まさに歓喜の相。
その木彫りの面が、こちらを見据えている。待ち構えていたかのように。
「気色の悪りぃ面だな」
壱武が、腕を組んで吐き捨てる。
八面大王の仮面。卜部の祖先『坂上田村麻呂』が成敗した稀代の政敵、その怨念の化身。
「油断しないで、カズくん。八面大王は、薬子の源流にある『
「言われるまでもない、奴と同格なんて油断するわけねえだろ」
まず、真弥は小型の霊気計測器をかざし、数値を読み取った。
「封印の術式に異常はなし。霊気数値も……安定はしてる」
「安定、ね。人の念が神にまで至った残滓。爆弾が爆発してないだけの状態を、安定とは言わねぇよ」
「でも、少なくとも、倉科の鎮魂の儀は機能してたのでしょうね。祭りは行われるべきよ」
「……神蔵の構造はさすがだな。確かに長年封ずるには、この規模がいるか」
二人の分析を背に、千弥だけはじっと仮面に魅入っていた。
やはり、眼に知性が宿る。何かを確かめるように、ゆっくりと一歩、台座に近づく。
「すごい静かなのに、底知れない圧がある。……これが人の念が産んだ、呪物の極地」
千弥の純朴な感想、しんと静まり返った神蔵に響く。
全員の視線が、彼に注がれた。
「なんだろう、このお面。本当に、ずーっと心の底から喜んでるみたいだ。この時を待ちわびていたみたいに。でも、寂しいって言ってる」
――寂しい。
聞いて、壱武と真弥は互いに視線で確認した。
八面大王の逸話には、このようなものがある。曰く、八面大王とは……八人の首領であったのだ、とか。
あえて、口にしはしなかったが、想像したくないことだった。
(このレベルの呪物が、あと七枚あるだと? 仮に、だとすれば面倒なことになる)
千弥は導かれるように、さらに仮面に近づいていく。
「兄貴、それ以上はっ!」
「一体、何をそんなに喜んでいるの? ……何をそんなに、悲しんでいるの?」
千弥がほとんど無意識に、そう問いかけた刹那。
ぞわり、と。
神蔵の空気が、質量を持ったかのように重くなった。
仮面自体に物理的な変化はない。だが、存在感、放つ気の密度が、明らかに一段階深まったのを、場にいた術師全員が肌で感じ取った。
『――アソボウ?』
「う、ぁ……ッ!?」
脳髄を直接掴まれたような衝撃に、千弥の膝ががくりと折れた。視界が白く染まり、耳奥で甲高く鳴り響く。
「おい、どうした! 千弥!」
壱武が駆け寄り、肩を強く掴んだ瞬間、千弥はハッと我に返った。
「え? あ、あれ?」
「大丈夫か、顔が真っ青だぞ」
「う、うん。なんか、今、一瞬だけ……すごい、楽しそうな声が」
千弥の声が、明らかに震えていた。
「あの、皆様。調査の結論が出たのでしたら、すぐにここを出ましょう。差し出がましいとは思いますが、千弥様のお身体に障ります」
贄川は、千弥の身を慮った。
確かに、長居するべきではない。ここにいるだけで、妙な影響を受けかねないと誰もが思った。
帰り際、由良は穏やかに言った。
「薬子様は……いえ、千弥様は誠にお優しい方なのですね」
やはり、由良の浮かべる微笑は奥ゆかしい。
「八面大王様も、きっとお喜びでしょう。千弥様のように、ご自身の心を理解してくださる方が現れたことを。今年の祭りは、きっと素晴らしいものになりますわ」
「そうかな。だったら、嬉しいな。すこしでも心安らかになってほしい」
青ざめた千弥は、壱武に身体を支えられながらも、掛けられた言葉に同調した。
しかし、なぜだろう。壱武は「素晴らしい祭り」と言う言葉に。
奇妙にも、不吉な予感を感じてしまった。
――にぃっ。
人知れず、閉ざされた扉の向こう側で、満面の笑みをたたえていた木彫りの仮面の口角が、ほんの僅かに吊り上がった。