三万種の香りを嗅ぎ分ける。そんなことが果たして人類に可能だろうか。天然から合成まで、五百から二千種類に及ぶ全グレードの香気分子を記憶し、識別し、無限の組み合わせで調香できる者。
それが、
“香りは、嘘をつけない”
満員電車の中、雑踏ですれ違う人からは、整髪料や香水、柔軟剤に化粧品だけではなく、空調に混ざる湿度とカビの匂いの向こう側、その人自身から立ち上がる匂いまでもが伝わってくる。都会のターミナル駅では、数えきれない人間の匂いと香りが複雑に混ざり合っていた。
たとえば今朝。電車で光希の隣に立った女性の髪からは、ラベンダー、ピオニージャスミン、遅れてムスクとアンバーの香りが立ちのぼる。大人の洗練さに可愛さと官能を添える、少し欲張りに選び抜かれた組み合わせ。 けれどその奥に、わずかに湿ったミルクのような匂いが混じっていた。
(昨夜泣いた、まぶたの腫れを抑える香り、かな)
香りの方向へ顔を少し傾け、無意識に分析する習慣は、職業病のようなものだろう。
光希は今、ある香水ブランドで働いている。中途で採用されて三年目。元は花屋だった。植物に囲まれていた頃と比べると、人工的な調合室はいつも少し、息苦しい。けれど今の仕事には、花屋の頃にはなかった緊張感と、手応えがあった。
調香師という仕事に就いて以来、光希はより深く人に向き合うようになった気がしていた。香りは人の記憶と感情を揺らす。言葉にできないまま抱えている想いも、本人さえ忘れている記憶も。香りを通じて触れることができるかもしれない。
それが、光希がこの世界に飛び込んだ理由だった。 花では届かなかった“生きるに値する匂い”に、もっと近づきたい……。そう思った時、咲き誇る花たちの水を換える日々から、香りを構築する道を選んでいた。
光希は目立つ容姿ではない。身長も体重も平均的で、雑踏の中にいれば見失ってしまうような存在だ。けれど、ふとした拍子に目を奪われることがある。 たとえば伏し目がちに香りを嗅ぐ、その横顔。肌には光が滲み、睫毛は長く影を落とす。感情を秘めた瞳の奥には、ときどき鋭い何かが閃く。輪郭の整った小さな鼻、口元はきちんと結ばれて、あまり笑わない。香りの輪郭を見つめるような静けさが、その全身に宿っている。
彼を美しいと思う人がいたとしても、それは華やかさではなく、空気を変える“余韻”のような何かに対してなのだろう。
「この試作、どう思う?」
個人の調合室を出て、広々とした評価室で先輩方の調合素材の鑑定を待っていた光希は、急な声にあわてて振り返った。
声をかけたのは、ブランドの顔──
業界でその名を知らぬ者はいない新進気鋭の調香師。ロンドンで博士号を取得し、帰国後すぐに自身の香水ラインを立ち上げた天才。一人前になるまでに五〜十年かかると言われる業界において、誉ほど早く業績を成した前例はない。
女性誌では“感性の人、香りの詩人”などとキャッチコピーをつけられているが、誉本人は「すべて計算、あとはコネクション」と公言している。言葉通り、誉の父親は世界的大手化粧品メーカーの取締役だった。
そして何より女性誌がこぞって誉を特集するのは“魔性”としか形容できないその美貌のせいだろう。
誉は、圧倒的な存在感でその場の空気を変える男だ。まず目につくのは体格の良さ。恵まれた骨格で背は高く、姿勢もいい。憂いを帯びた視線はいつも遠くを見ているようで、たまに視線が合うと逸らせなくなる、強い引力を持っていた。 顔立ちは男らしいのに、細く長い指先の動きや眼差しには、隠しきれない湿度がある。誉が動くと、その場の温度湿度までもが変わってしまう。“魔性”という言葉では足りない、性を撓ませるような存在感。
(香りで人を狂わせる人)
それが、光希が転職してまで調香師を目指したもう一つの理由──橘 誉という存在だった。
誉が
指先の動きは迷いなく、美しかった。白く細長い試紙が、その指に挟まれるだけで、ただの試紙が聖なるもののように見える。それを光希に手渡すとき、誉の指がほんの一瞬だけ触れた。気のせいかと思うほどの一瞬。
けれど、肌にはかすかな温度が残っていた。体温というにはあまりに静かな……火そのものではなく香炉ごしに感じる熱の余韻。それが光希の手の甲から指先へと、じわじわ染み込んでくる。
誉は何も言わずに試紙を差し出したが、その無言こそが、言葉以上の重みを持っていた。
光希は一瞬の動揺に唇を一度噛みしめ、振り払うように息を吐いた。受け取った試紙に瓶を振り、香りを一滴を染み込ませる。その仕草さえも、なぜか観察されている気がした。
誉をちらと見ると視線はもう逸らされていたが、誉の視線の気配はまだ熱く感じていた。
静かに鼻先に近づけ、目を閉じて、ひと呼吸。肩がわずかに揺れる。
「……乾いて、いないですね」
誉が眉を上げ、続きを促すような視線を投げる。
「湿度という意味ではなくて。これは、ん……“余白”が多すぎる。完成していないというか、選びきれていない匂いです。樹の幹の力強さと、豊かな実りと、その間の時間が、まだ埋まっていない気がします」
誉は少し黙って、傾けた瓶の底を見つめたまま微笑んだ。
「……面白いな、有沢くんは。そんなふうに言ってくれたの、君が初めてだよ」
吐息交じりの低い声に、かすかな乱れがあった。光希の言葉が、誉のどこかに触れてしまったことを、まだ誉自身も知らない。
「流石だよ、調合の処方箋も見ないで当てるんだからなぁ……。ありがとう。有沢くんの“特別な鼻”を信じて、もう少し粘ってみるよ」
「す、すみません! まだ半人前の僕なんかが、社長の作品に意見なんて……!」
「ストップ。前も言ったよね? 社長はなし。確かに先輩ではあるけど、どうも俺は他に社会人経験もないからなのか、肩書で呼ばれるのは面映ゆくてさ。あ、あと、これ前にも言った。この“俺”が有沢くんの“鼻”に惚れているから聞いてるんだ。周囲にイエスマンしかいなくなると、あっという間に誰も相手にしてくれなくなるさ」
その日の午後、業界誌の取材を受けた誉のインタビューが公開された。
この秋に発売予定の【KiMi ―樹実―】という香水についての話題の中で、橘 誉はこう語っていた。
『樹は男性性。根を張り天にまで伸びる芯を持ち、どこまでも育つもの。実は女性性。遺伝子を次へ伝えるために蓄えるもの。このふたつの香りを調合することで、性別を超えた香りを生み出したのです』
そして、こんなフレーズも残していた。
『トップ、ミドル、ラスト。それぞれが香りは“ノート”と呼ばれています。けれどその三層が溶け合って、たったひとりの肌の上でしか生まれない香りがある。──それが、僕にとってのノートピア※なんです』※編集注:橘 誉による造語。香水のノート+ユートピア
(……ノートピア)
読みながら、光希は小さく口の中で繰り返した。音の響きが柔らかく、どこか切なくて、少しだけ胸がざわつく。
相変わらず上手い、と光希は素直に思った。発想自体は珍しくない。だが “伝え方”が、ずば抜けて上手い。 香りを物語に変える力。それが、誉という男の“魔性”の本当の正体だ。
けれど光希の本能は、どこかで感じていた。この男は、見せていない“ラストノート”を、まだ隠している。