“香りは、嘘をつけない”
つまり香りには心が出る。感情も、衝動も、言葉にできないものほど、匂いに乗って現れる。光希は、それを子どものころから感じ取ることができた。
服に残る微かな甘さ。余裕ぶった言葉とは裏腹の、手ににじむ焦り。
すれ違っただけの他人からも、光希は無意識に、香りの奥に潜んだ心の在処を受け取ってしまう。ただし光希自身は、それを“読む”とも、“理解する”とも思っていなかった。
──香りに焦点を当てているだけ。
本人の認識は、それだけだった。
「光希くん、ほんと、鼻利くよね〜」
休憩スペースで、先輩の一人・
「あたしもこの業界長いから鼻は利くほうだと自負してるけど、光希君には敵わないもの。それにしても柔軟剤もネイルもメイクもNGなんてさ、ほんっとうにひどい話だと思わない? あたし、この業界入ったとき『女を捨てるか、香りを選ぶか』って言われたんだから!」
「捨ててないですよ、新田さん。今日のパンツ、おニューですよね? さっき後ろ姿で見かけたとき、かっこいいなって思ってました」
「ちょっと光希くん、そういうの、朝イチで言って! あたし今日一日それで頑張れる! あんたいい子ねぇ~かわいいし鼻だけじゃなく気も利くなんて、ほんといい子だわぁ」
「賑やかだと思ったら新田さんと有沢さんか。まったく、新田さんたら。誉さんがいたら嫉妬しちゃいますよ」
「あら、ゆのちゃん! やあよ、そんな怖いこと言って。……でも、そうね、あの人なら、嫉妬も上品そうよね。『俺は有沢くんの鼻に嫉妬してるんだ』とか、サラッと言いそう。なんなのよ、鼻に嫉妬って……でもそれもいいわね、惚れ直すわ!」
「新田さんは誉さんのファンだもんねぇ」
ゆのちゃんと呼ばれた女性は、長年、誉の右腕として働いているベテラン調香師・
「誉さん、今パリでしたっけ?」
二人のからかいにどう答えていいかわからず、光希が質問する。
「そう。パリで開催されるあの国際見本市。今年も審査員として呼ばれてるわよ。あの人、世界中飛び回ってるんだから。ゆのちゃんも捕まえるの大変よね!」
「仕事の連絡しようにも時差がありますしね。そういえば、また噂になってましたね。業界紙に載ってた記事、見ました? 先週のNYでのレセプションで男女問わず囲まれてたって」
「そりゃそうよ。あのルックスと声、香りのセンス、あれで落ちない人類がいたら紹介してほしいわ」
「海外の記者に『フェロモンの錬金術師』って呼ばれてたんですよね」
「わかるー! ほんっと、出す香り全部が“色気”。香水じゃなくて、もはや呪いよね。しかも本人曰く“計算”なんだもん、恐ろしいわよ」
「そういえばこの前、誉さんが言ってたのよ。『香水の三段階──トップ、ミドル、ラスト──が理想的に重なる時、人はその香りに自分の居場所を見つける。そんな香りを作るのが夢だ』って」
「あー、それ、“ノートピア”って言葉つけてたやつ?」
「そうそう、香りのノートにユートピア足して、“ノートピア”。あの人、詩人だからさ」
「どこまでが計算なのか、未だにわからないわね」
「そこがまたいいのよ〜」
「さ、続きの検品、さっさと片付けちゃいましょう」
その一言で雑談は終了し、各々作業に集中していく。鼻を使うのは、想像しているよりも集中を要する作業なのだ。
検品作業をこなしながら、ふと光希は思いを馳せる。
最初に、橘 誉という名前を知ったのは、まだ花屋で働いていた頃だった。
あの日、花材を届けに行った先の百貨店で、香水のポップアップが開かれていた。なんとなく足を止めた光希に、スタッフが小さな試紙を差し出してくれた。
それは、誉がまだ無名だった頃に調合した処女作の香りだった。スモーキーなウードと、ベルガモットの明るさ、そこにわずかに忍ばせたコリアンダーの冷たさ。甘さがまったくないのに、不思議と肌に触れるようなやわらかさがあった。
──こんな香りがあるのか、と胸が震えた。
それまで香水というものにほとんど興味がなかった光希は、何度もその試紙を鼻先に戻しては、香りが立ちのぼるたびに、自分の奥のどこかがほどけていくような感覚にとらわれた。
(この匂いを作った人に会いたい)
その衝動が、すべてのはじまりだった。
自分たちのブランドの顔、上司である誉を、最初はただの“才能のある尊敬する師”だと思っていた。その美貌や経歴に圧倒されつつも、どこか遠い存在。別世界の人間のようで、憧れることさえ、おこがましく感じていた。
だが、実際に香りを前にした時の誉の姿には、テレビや雑誌で見る姿とはまるで違う、深く静かな集中があった。香水の処方に向き合うその眼差しは、香りに恋する人のようでもあり、時には取り憑かれているようにも見えた。
その一瞬の横顔が、光希の胸の奥に、薄い火を灯した。
一方、夜の帳が下りたパリ。
石畳の通りは昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ライトアップされたオペラ座のシルエットだけが、窓の外にぼんやり浮かんでいる。
高級ホテルの最上階。日々続く会食とレセプションを終え、誉はようやく部屋に戻っていた。
軽くため息を吐きながらスーツのネクタイを緩め、カフスを外す。ベッド横のサイドテーブルには、試作品の小瓶と
スーツケースから取り出したトラベルケースに並ぶ精油のミニボトル。その中からひとつを手に取ると、小さな試紙に一滴落とし、鼻先にかざした。
アンブロキシドの柔らかい甘さと、ベチバーの湿った青さが、ゆっくりと脳に届く。長距離フライトと昼夜逆転の疲労の中でも、彼の感性は鈍らない。むしろ異国の空気に晒された分、より研ぎ澄まされていた。
忘れようとしても、ふとした時に戻ってくる。
香りから何を連想するか、今の自分の心を占めているもの、その違和感に引っかかりを覚える。誉は動揺を隠す人間ではない。むしろ、感情を冷静に自己分析するタイプだ。
誉は自分のことをメディアだけでなく周囲の人間、社内の仲間からでさえ“魔性”と言われていることに自覚がある。美貌、経歴、立ち振る舞い、声の抑揚、すべて“効果”として計算している。
香水の試作品を広げながら、誉は思い出していた。
あれは、五年前。
ロンドンの大学院で博士号を取得したあと、名門の香料メーカーに挨拶にいった日。教授陣との対話の中で、誉は初対面のドイツ人教授の試作香水の主成分と背景エピソードを当ててみせたことがある。
「これは貴方の妻が亡くなった年の作品ですね」
「彼女の遺したスカーフに含まれていたムスクと同じ型番が入っているんだ」
「……そして、もう一人、キャラクターの違う女性の匂いも混じっている」
教授は黙り込み、その場で静かに涙をこぼした。
──香りで人の罪さえ暴けてしまう。
誉は、そういう人間だった。それゆえに、孤独だった。
だが光希もまた無自覚に、人の心の奥へと踏み込んでいく。香りで想いに触れてしまう。その無邪気な共鳴が、誉の“魔性”を少しずつ崩していく。
細くしなやかに美しい指で挟んだ試紙。もう一度深く嗅ぐ。アンブロキシドの甘さの向こうに、思いがけず浮かび上がったのは、あの伏し目がちの横顔だった。
窓際に身を寄せると、微かに灯るセーヌの光が床を照らす。光希の瞳の奥に見えた、あの一瞬の“鋭さ”。あの声。あの間。
そして
「……乾いて、いないですね」
言われた瞬間の、心臓を掴まれるような感覚を思い出す。
誉の香りを、処方も見ずに「“余白”が多すぎる」つまり未完成だと言いきった若者。読み解いたのではない。ただ“感じてしまった”のだと、誉にはわかる。
(無意識に、核心を衝いてくる)
誉は、鼻の奥にかすかに残る香りと共に、目を閉じる。ホテルの天井は高く、ベッドは広く、窓の外には美しい夜景が広がっている。
だがそのどれもが、ひどく空虚に思えた。思考を遮るように、誰かと過ごした記憶が割り込んでくる。
誰か、ではない。有沢 光希の存在だ。
静かな部屋に、フロア下からかすかに音楽が漏れてくる。ジャズピアノの旋律。香りと同じ、音もまた記憶を呼び起こす媒体だ。
しかし今、何よりも鮮やかに蘇るのは光希の姿だった。
「……まいったな」
小さく呟き、誉は指先で試紙を弾くようにして手放した。光希のことを思い出すのに、理由も脈絡も必要ない。むしろ、思い出さないための理由を探している自分に、誉は気づいていた。
「誉さんって、人の欲望を読むの、上手いですよね」
会議の時の光希の何気ない一言が、誉の心に残り続けていた。
(この子は、触れていることに気づかないまま、俺の“核”に届いてしまう)
光希の声やしぐさを思い出す時間が増えている自覚。共感覚、という言葉が浮かんでは消える。
(目で香りを見て、心で味わっているのかもしれない)
誉の中で、何かがじわりと熱を持ち始めていた。そして、それはすでに、香りとなって、周囲にもほのかに漂いはじめていた。