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第二章:ミドルノート1―会えない時間

第二章:ミドルノート1―会えない時間

“香りは、嘘をつけない”


 つまり香りには心が出る。感情も、衝動も、言葉にできないものほど、匂いに乗って現れる。光希は、それを子どものころから感じ取ることができた。

 服に残る微かな甘さ。余裕ぶった言葉とは裏腹の、手ににじむ焦り。

 すれ違っただけの他人からも、光希は無意識に、香りの奥に潜んだ心の在処を受け取ってしまう。ただし光希自身は、それを“読む”とも、“理解する”とも思っていなかった。


──香りに焦点を当てているだけ。


 本人の認識は、それだけだった。


「光希くん、ほんと、鼻利くよね〜」


 休憩スペースで、先輩の一人・新田にったがコーヒーを片手に笑う。オネエ言葉が染み付いた話し方で、社内でも場の空気を和ませるムードメーカーだ。


「あたしもこの業界長いから鼻は利くほうだと自負してるけど、光希君には敵わないもの。それにしても柔軟剤もネイルもメイクもNGなんてさ、ほんっとうにひどい話だと思わない? あたし、この業界入ったとき『女を捨てるか、香りを選ぶか』って言われたんだから!」

「捨ててないですよ、新田さん。今日のパンツ、おニューですよね? さっき後ろ姿で見かけたとき、かっこいいなって思ってました」

「ちょっと光希くん、そういうの、朝イチで言って! あたし今日一日それで頑張れる! あんたいい子ねぇ~かわいいし鼻だけじゃなく気も利くなんて、ほんといい子だわぁ」

「賑やかだと思ったら新田さんと有沢さんか。まったく、新田さんたら。誉さんがいたら嫉妬しちゃいますよ」

「あら、ゆのちゃん! やあよ、そんな怖いこと言って。……でも、そうね、あの人なら、嫉妬も上品そうよね。『俺は有沢くんの鼻に嫉妬してるんだ』とか、サラッと言いそう。なんなのよ、鼻に嫉妬って……でもそれもいいわね、惚れ直すわ!」

「新田さんは誉さんのファンだもんねぇ」


 ゆのちゃんと呼ばれた女性は、長年、誉の右腕として働いているベテラン調香師・柚木ゆのきだった。無駄のない所作と控えめな笑みが印象的な女性で、誰からも一目置かれている。


「誉さん、今パリでしたっけ?」


 二人のからかいにどう答えていいかわからず、光希が質問する。


「そう。パリで開催されるあの国際見本市。今年も審査員として呼ばれてるわよ。あの人、世界中飛び回ってるんだから。ゆのちゃんも捕まえるの大変よね!」

「仕事の連絡しようにも時差がありますしね。そういえば、また噂になってましたね。業界紙に載ってた記事、見ました? 先週のNYでのレセプションで男女問わず囲まれてたって」

「そりゃそうよ。あのルックスと声、香りのセンス、あれで落ちない人類がいたら紹介してほしいわ」

「海外の記者に『フェロモンの錬金術師』って呼ばれてたんですよね」

「わかるー! ほんっと、出す香り全部が“色気”。香水じゃなくて、もはや呪いよね。しかも本人曰く“計算”なんだもん、恐ろしいわよ」

「そういえばこの前、誉さんが言ってたのよ。『香水の三段階──トップ、ミドル、ラスト──が理想的に重なる時、人はその香りに自分の居場所を見つける。そんな香りを作るのが夢だ』って」

「あー、それ、“ノートピア”って言葉つけてたやつ?」

「そうそう、香りのノートにユートピア足して、“ノートピア”。あの人、詩人だからさ」

「どこまでが計算なのか、未だにわからないわね」

「そこがまたいいのよ〜」

「さ、続きの検品、さっさと片付けちゃいましょう」


 その一言で雑談は終了し、各々作業に集中していく。鼻を使うのは、想像しているよりも集中を要する作業なのだ。

 検品作業をこなしながら、ふと光希は思いを馳せる。


 最初に、橘 誉という名前を知ったのは、まだ花屋で働いていた頃だった。

 あの日、花材を届けに行った先の百貨店で、香水のポップアップが開かれていた。なんとなく足を止めた光希に、スタッフが小さな試紙を差し出してくれた。

 それは、誉がまだ無名だった頃に調合した処女作の香りだった。スモーキーなウードと、ベルガモットの明るさ、そこにわずかに忍ばせたコリアンダーの冷たさ。甘さがまったくないのに、不思議と肌に触れるようなやわらかさがあった。


──こんな香りがあるのか、と胸が震えた。


 それまで香水というものにほとんど興味がなかった光希は、何度もその試紙を鼻先に戻しては、香りが立ちのぼるたびに、自分の奥のどこかがほどけていくような感覚にとらわれた。


(この匂いを作った人に会いたい)


 その衝動が、すべてのはじまりだった。

 自分たちのブランドの顔、上司である誉を、最初はただの“才能のある尊敬する師”だと思っていた。その美貌や経歴に圧倒されつつも、どこか遠い存在。別世界の人間のようで、憧れることさえ、おこがましく感じていた。

 だが、実際に香りを前にした時の誉の姿には、テレビや雑誌で見る姿とはまるで違う、深く静かな集中があった。香水の処方に向き合うその眼差しは、香りに恋する人のようでもあり、時には取り憑かれているようにも見えた。

 その一瞬の横顔が、光希の胸の奥に、薄い火を灯した。



 一方、夜の帳が下りたパリ。

 石畳の通りは昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ライトアップされたオペラ座のシルエットだけが、窓の外にぼんやり浮かんでいる。

 高級ホテルの最上階。日々続く会食とレセプションを終え、誉はようやく部屋に戻っていた。

 軽くため息を吐きながらスーツのネクタイを緩め、カフスを外す。ベッド横のサイドテーブルには、試作品の小瓶と試紙ムエットが、朝部屋を出たときのまま並んでいる。

 スーツケースから取り出したトラベルケースに並ぶ精油のミニボトル。その中からひとつを手に取ると、小さな試紙に一滴落とし、鼻先にかざした。

 アンブロキシドの柔らかい甘さと、ベチバーの湿った青さが、ゆっくりと脳に届く。長距離フライトと昼夜逆転の疲労の中でも、彼の感性は鈍らない。むしろ異国の空気に晒された分、より研ぎ澄まされていた。


 忘れようとしても、ふとした時に戻ってくる。


 香りから何を連想するか、今の自分の心を占めているもの、その違和感に引っかかりを覚える。誉は動揺を隠す人間ではない。むしろ、感情を冷静に自己分析するタイプだ。

 誉は自分のことをメディアだけでなく周囲の人間、社内の仲間からでさえ“魔性”と言われていることに自覚がある。美貌、経歴、立ち振る舞い、声の抑揚、すべて“効果”として計算している。

 香水の試作品を広げながら、誉は思い出していた。


 あれは、五年前。

 ロンドンの大学院で博士号を取得したあと、名門の香料メーカーに挨拶にいった日。教授陣との対話の中で、誉は初対面のドイツ人教授の試作香水の主成分と背景エピソードを当ててみせたことがある。


「これは貴方の妻が亡くなった年の作品ですね」

「彼女の遺したスカーフに含まれていたムスクと同じ型番が入っているんだ」

「……そして、もう一人、キャラクターの違う女性の匂いも混じっている」


 教授は黙り込み、その場で静かに涙をこぼした。


──香りで人の罪さえ暴けてしまう。


 誉は、そういう人間だった。それゆえに、孤独だった。

 だが光希もまた無自覚に、人の心の奥へと踏み込んでいく。香りで想いに触れてしまう。その無邪気な共鳴が、誉の“魔性”を少しずつ崩していく。

 細くしなやかに美しい指で挟んだ試紙。もう一度深く嗅ぐ。アンブロキシドの甘さの向こうに、思いがけず浮かび上がったのは、あの伏し目がちの横顔だった。

 窓際に身を寄せると、微かに灯るセーヌの光が床を照らす。光希の瞳の奥に見えた、あの一瞬の“鋭さ”。あの声。あの間。

そして


「……乾いて、いないですね」


 言われた瞬間の、心臓を掴まれるような感覚を思い出す。

 誉の香りを、処方も見ずに「“余白”が多すぎる」つまり未完成だと言いきった若者。読み解いたのではない。ただ“感じてしまった”のだと、誉にはわかる。


(無意識に、核心を衝いてくる)


 誉は、鼻の奥にかすかに残る香りと共に、目を閉じる。ホテルの天井は高く、ベッドは広く、窓の外には美しい夜景が広がっている。

 だがそのどれもが、ひどく空虚に思えた。思考を遮るように、誰かと過ごした記憶が割り込んでくる。

 誰か、ではない。有沢 光希の存在だ。

 静かな部屋に、フロア下からかすかに音楽が漏れてくる。ジャズピアノの旋律。香りと同じ、音もまた記憶を呼び起こす媒体だ。

 しかし今、何よりも鮮やかに蘇るのは光希の姿だった。


「……まいったな」


 小さく呟き、誉は指先で試紙を弾くようにして手放した。光希のことを思い出すのに、理由も脈絡も必要ない。むしろ、思い出さないための理由を探している自分に、誉は気づいていた。


「誉さんって、人の欲望を読むの、上手いですよね」


 会議の時の光希の何気ない一言が、誉の心に残り続けていた。


(この子は、触れていることに気づかないまま、俺の“核”に届いてしまう)


 光希の声やしぐさを思い出す時間が増えている自覚。共感覚、という言葉が浮かんでは消える。


(目で香りを見て、心で味わっているのかもしれない)

 誉の中で、何かがじわりと熱を持ち始めていた。そして、それはすでに、香りとなって、周囲にもほのかに漂いはじめていた。

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