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第三章:ミドルノート2―プルースト効果

第三章:ミドルノート2―プルースト効果

「ただいま。無事、帰国しました」


 パリからの帰国初日。誉は社内に差し入れのお土産を持ってきた。こういうところ、まめな男なのだ。可愛い缶に入ったチョコレート、焼き菓子、フレグランス入りの紅茶。彩りも香りも華やかで、デスク周辺に自然と人が集まる。


「はいはい、みんな一列に並んで〜。この中で一番“いい子”にしてた人には誉さんから特別なプレゼントがあるわよ~きっとあたしよね~?」


 新田が誉にウィンクをして場を仕切る。誉は特別プレゼントがあるともないとも言わず、にこにこと笑っていた。光希もその列に混じりながら、久しぶりの誉の姿にわずかばかり緊張して背筋を伸ばしていた。


「せっかくみんないるからみやげ話でも。お菓子でも食べながら聞いてほしい。パリの展示会で面白い香水を見つけたんだ。数年前から似たようなコンセプトは出回ってはいる。“無臭に近い香り”と呼ばれている香水。みんな知ってるよな……合成香料のは俺もいくつか持ってる。でも今回のはね、これが本当に驚きで」


 誉が鞄から取り出したサンプルボトルを机に置く。皆が顔を寄せてくるなか、誉はさらりと語った。


「ボトルを嗅いでも、ほとんど香らない。でも、肌にのせると、信じられないくらいその人自身の香りが引き立つ。スタッフの方に『人によってまったく違う香りになる』と説明されて。実際、俺がつけるとウッディ系が強い。隣の人につけてもらったら、まるでジャスミンのような香りになった。しかもこれ、人工じゃない、天然由来」

「それって、やっぱり“本当の自分”が出ちゃうってこと?」


 新田が真面目な顔で問い、誉が小さく笑って頷いた。


「香りは、記憶や感情と繋がってる。プルースト効果とも言うよな。 昔嗅いだ香りをきっかけに、感情や記憶が鮮やかに蘇る現象……この香水は、それを意図的に呼び出す仕掛けにもなっていて、自覚していない懐かしい香りに包まれたとき“心地よい”と感じる。その感覚が、俺はとても魅力的だと思った」

「なんか、香りの占いみたいね。あたしがつけたら、どんな香りが出るのかしら。フェロモンの暴走かしら〜?」

「新田は……、案外かわいらしい香りになりそうだよな」

「やぁだ、誉さん、ほんと無自覚に誘うのやめてぇぇぇーーっ」


 皆が笑いながら、次々と新作の“本当の自分”が出てくる香水を試している。試紙ではなく、それぞれが肌につけるのは、この職場では珍しい光景だった。遠巻きに見ている光希の背中を、新田がトントンと叩いた。


「……ねえ、あんた、きっとこのあと呼ばれるわよ」

「え?」

「ぜーったい、光希くんにだけ“特別なおみやげ”あるんだから」


 ウインクをされ、光希は真っ赤になった。「そんなのあるわけない」そう思いつつ、光希の心は期待に騒ぎ出す。


「ま、これはまだサンプルですので、このへんで」

「誉さん、それいつ発売予定ですか?」

「うちの新商品と同じ時期、今季のA/Wには」

「うっわ。それやばいですね……」

「だろ。だから来週のレセプション、みんながんばってくれよ」


 誉はつけそびれてしまった香りがどんな風に変化するのか考え、少し残念に思いながら回収されたサンプルボトルを持ち立ち去る誉の姿を目で追った。

 結局その日、光希が誉に呼び出されることはなかった。


 翌週、ブランドの新作【KiMi―樹実―】の第一回目となるレセプション開催が決まった。まだ調香が最終段階に至っていない段階での告知に、光希は驚きを隠せなかった。


「えっ、もう宣伝するんですか? 完成していないのに……」


 検品室でそう漏らすと、隣にいた柚木が微笑んだ。


「商品が売れるかどうかは、世に出る前の“仕込み”で決まるの。ストーリーがあって、期待があって、その上で香りが追いついてくる。それがマーケティング」

「じゃあ、今日のレセプションも……」

「簡単に言えば接待よ。全員参加が基本。立ち回り方を覚えるのも仕事のうち」


 その夜、レセプション会場。

 光希は煌びやかなフロアで、ぎこちなく立っていた。スーツの襟元には、自社の既存香水をうっすら纏っている。ふだんは落ち着いて香りに集中できる職場とは違い、人混みと喧騒が鼻と耳を覆う。


「有沢くん、だったかな?」


 不意に近づいてきた社長クラスの男性が、グラスを差し出してきた。「飲みなさい」と勧められるままに口をつけると、すぐに強めのアルコールが回り始める。


「噂は聞いてるよ。なんでも橘 誉のところに最高の“鼻”を持つ天使が現れたってな……細い腰だなあ。香水の瓶みたいだ」


 笑いながら近づいてくる社長の手が、光希の背中に置かれる。汗ばんだ手のひらが、スーツの上から滑り込むようにして、腰を撫でてくる。


「え……あの」


 返事をしようとした光希の唇に、再びグラスが押しつけられる。


「まだ硬いなあ。もう少し、飲んでくれないと」


 2杯目のグラスが手に渡る。断りきれずに口をつけると、喉の奥が焼けるような感覚に包まれる。


「誉くんとは、どんな仲なんだい? 夜も、一緒だったりしてね」


 低く笑いながら、太い指が光希の髪を撫でるように額を触れたかと思えば、そのまま頬、そして唇へと滑る。


「……っ」


 嫌悪と恐怖で動けない。空気が歪み、足元がふらつく。


「すみません……僕──」


 逃げ出そうとしたその瞬間、柔らかな声が割って入った。


「申し訳ありません、うちの大切なスタッフですので」


 振り返ると、誉がいた。グラスを軽く傾けながら、その目には柔らかくも鋭い光があった。


「沢渡社長、飲みすぎもほどほどになさってくださいね。我々はこちらで失礼いたします」


 光希はそのまま、誉に連れ出される。エレベーターホールの前。喧騒から一歩離れた空間に来て、ようやく光希の頬に紅潮が戻った。


「すみません、僕……」

「謝らないで。有沢くんは悪くない。沢渡社長はちょっと業界でもよくない噂がある方でさ、注意してたつもりが助けるのが遅くなって悪かった。これ、何か盛られてるな。今日はこのまま上がろう」


 その言葉に、光希の胸が少しだけ温かくなった。


(社長なのに。大事なレセプションなのに。僕の心配をしてくれた)


 そのまま誉は柚木と新田に事情を説明し、光希の肩を抱いたまま自宅へと向かった。誉の自宅のソファに導かれた光希は、スーツの上着を脱いで緩んだネクタイのまま、ぼんやりと窓の外の月を眺めていた。

 ふかふかのソファに身を沈めたまま、光希はカップを両手で包んでいた。誉が淹れてくれたハーブティーは、めずらしいホーリーバジルの落ち着いた香りがした。


「雨上がりの、軒下」

「うん、ホーリーバジル。少し土っぽいけど落ち着くだろ……あ、そうだ」


 テーブル越し、立ち上がりかけた誉が思い出したように言う。

 クローゼットの奥を開けると、黒いリボンのかかった小さな箱を取り出して、光希の前に置いた。


「遅くなったけど、パリの土産。きみに渡そうと思ってたのに、タイミングを逃してばかりで」

「えっ、僕に……? なんで、いま?」

「なんで……ね。『いい子にしてたから』かな? なんとなく、直接渡したいと思っただけかもしれない」


 誉は、いつものように感情の色を見せなかったけれど、その言い方はどこかやわらかくて、光希の胸の奥にかすかに波紋を落とした。

 箱の中から現れたのは、細身のボトル。

 うっすらと曇りガラスに刻まれたロゴは、見覚えのあるブランド。けれど香りの名は知らない。


「先日みやげ話として話していた無臭の新作香水。“その人自身の香りを引き出す”ってコンセプトの。嗅いでみて」

「無臭なのにその人ごとに香りが変わるって話されていた香水ですよね」

「フランスでは“透明な欲望”って言われてる。あえて主張せずに、その人の皮膚そのものを引き立てる。というより──香りに気づいたときには、近づきたくなってるっていう、ちょっとズルいやつ」

「……それはズルい香り、ですね」


 光希が小さく笑うと、誉もまた静かに笑みを浮かべた。


「あの日、試してなかっただろ。実はサンプルボトル二本もらっててさ。きみに合いそうだと思ったんだ」


 その一言に、思わず光希は顔を上げた。けれど誉は、もう視線を外して、ハーブティーの湯気を眺めていた。光希はラッピングをゆっくりとはがすと、ボトルを手に取る。そっと蓋を開け、手首の内側にワンプッシュ吹きかけた。


「……懐かしい香りがします」

「懐かしい?」

「はい。香水も、僕になじむ前にこの部屋、誉さんの香りでいっぱいで。どこかで嗅いだことがある気がして」


 まだ酔いが残っているのか、いつもより溶けた光希の口調。誉は目を伏せる。プルースト効果──香りが、記憶を呼び起こす。光希のような特別な匂いを嗅げる人間にとって、それはただの記憶ではなく、当時の感情そのものに近いのだ。

 誉の指が、一瞬だけ光希の頬に触れそうになった。だが、触れない。光希が静かに問う。


「どうして……触れないんですか。僕が、怖い?」


 その言葉に、誉の胸の奥がかすかに、でも確かに軋んだ。問いを口にした光希は、自分でもなぜそんなことを言ったのかわからなかった。ただ、酔いのせいにもしたくはなかった。こんな場面はきっと慣れているだろう誉が、自分に触れないこと、そこに微かに香る、怖れの感情。


(やめないで、なんて……言えないけどさ)


 しんと静まり返る部屋。ホーリーバジルの香りと、微かに立ちのぼる香水の余韻。そのあいだで光希の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。

 誉は目を見張り、驚いたような表情で息を吐いた。


「怖くなんかないさ。ただ……触れてしまえば、もう戻れなくなる気がして」


 その言葉に、光希の喉がつまる。誉の声はとても穏やかだったが、それは突き放すでも誘うでもない、光希自身に答えを委ねるような、ずるい距離感だった。

 何かを壊すかもしれない不安と、それでも一歩近づきたい衝動。その両方が、光希の胸の奥でせめぎ合っていた。

 気づけば、光希はふいに自分の手首の香りをもう一度確かめていた。たしかに、これは自分の皮膚から立ちのぼる香り。でも、その奥に微かに混じる、諦めの匂い。


「……へんな、ことを言いました。忘れてください」

 誉は何も言わなかった。ただ、視線だけで、光希の言葉を受け止めた。窓の外では月が雲に隠れ、室内の灯りがやさしく二人を包んでいた。

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