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第四章:ミドルノート3―調香

第四章:ミドルノート3――調香

 あの夜、なにかが進みそうで結局なにも起きなかった。

 誉の家で一晩を過ごした光希は、翌朝、まだ少しふらつく足で礼を言い、送るという声を振りきって先に出社した。誉もそれ以上は言わなかった。


「性別問わず、こんなことはじめてかもな。触れることもできないなんて」


 誉は、その戸惑いを言葉にすることで、自身の感情を香りに変えて、記憶に留めようとしていた。もうすぐ、新作香水を完成させなければならない。

 香りを作るということは、物語を紡ぐことだと誉は思っていた。けれどその物語は、今回はまだ始まらない。

 【KiMi ―樹実―】の香水開発は、思いのほか難航していた。



「ほんと、地獄よ。新作発表前のこの時期って」


 肩にかけた白衣に手を通しながら、新田がため息を吐く。社内の空気は張りつめていて、スタッフたちはそれぞれの持ち場で忙しく立ち回っていた。レセプション後の反響対応、サンプル調整、報告書の山。普段なら午後には笑い声が交じるが、今は誰もが集中し、次の一手を探っている。


「香水、まだ完成してないんですよね……」


 検品室で光希がぽつりとこぼすと、隣の柚木が首をすくめた。


「新作発表前忙しいのは毎度のことよ。でも今回は、誉さんが珍しく手こずってる。完成形の輪郭はあるのに、最後のひと押しが見つからないらしいわ」

「誉さんが、そんな……」

「うん、わたしも驚いてるの。あの人、いつも“先に物語を決めて、あとから香りを組み立てる”のに。今回は逆なのよ。調香を進めるうちに、物語が変わってしまったって言ってたわ」


 たしかに、今回の“ちがい”は誰の目にも明らかだった。誉が焦っていた。調香師として、常に冷静で余裕すら漂わせていた男が、わずかに眉間に皺を寄せ、ため息をつく。「こんなに余裕がないのは、はじめて見るわね」柚木と新田が顔を合わせ、小さく首をふるとお互いの作業へと戻っていく。



「……正直、行き詰まってる。“樹”と“実”の間が埋まらない。物語に穴がある」


 オフィスの奥にある誉専用の調香室。空調の音すら吸い込むような静謐な空間に、光希は呼ばれていた。この部屋に、スタッフが足を踏み入れることはほとんどない。

 誉はテーブルに試作のボトルを並べながら、呟くように言った。


「樹と実。幹と果実。芯と、受容。それを繋ぐ“時間”の香りが見つからない」


 誉はそう呟いて、ひとつの瓶をそっと机に置いた。


「これ全部、樹と実の“間”を埋める香り……ですか?」

「そう。有沢が『樹の幹の力強さと、豊かな実りと、その間の時間が、まだ埋まっていない』と言った、まさにその隙間を漂う香りこそが“KiMi”なんだと思う。どれも、何かが足りない。重なりじゃなく、境界を滑らせる香りがほしい。けれど、近づけすぎると“混ざって”しまう。にじませることと混濁は違う……それをどう伝えたらいいのか、俺にもまだわからない」


 光希はうなずいて、一つ一つ丁寧に香りを確かめていく。立ちのぼるのは、深い森の香り。幹の苦味と、木漏れ日のような明るさが混ざっている。


「……太陽の香り、ですか?」


 光希が遠慮がちに言うと、誉は目を細めた。


「悪くないと思います。でも……」

「でも?」

「実と繋がらない。遠いです、この“樹”」


 誉はうなずいた。


「あぁ。葉物や、フローラルも試した。でも全部、主張しすぎるんだ。樹と実の“間”が、ただの中間になってしまう。香りって不思議だな。頭で筋道が通ってても、鼻が納得しないと、調和しない」

「葉や花がだめなら……受粉を助ける昆虫とか。そういう“仲介”の存在を入れたらどうですか?」

「やってみた。けど、それだと香りが複雑になりすぎる。重なりすぎて、ぼやける。言いたいことが、届かなくなるんだ」


 そう言いながら、誉はまた新しい試作ボトル数本を並べた。一つずつ、試紙に吹き付けては香りを嗅いでいく。


「これ……この間のフレーバーティー?」

「そう、ホーリーバジル。土の記憶に近い香りを再現してる」

「こっちは花の蜜」

「ミモザに微量の蜂蜜精油を加えてある」


 そこにはたしかに手がかりがあった。誉が試行錯誤して探しているものの気配。けれど、まだ輪郭が曖昧すぎて掴めない。それは調香師同士、プライドをかけた香りの追求だったが、どこか私的な響きも孕んでいた。


──落ち着き、ではない。

──透明さ、でもない。

──少しだけ、熱を持った……。


 届きそうで届かない。探している匂いにあと一歩近寄れない。次に嗅がれるのを待つフラスコの奥、揺れる香りの粒子を、二人の視線が見つめた。


「フロイトはこう言ってる」


 誉が、ぽつりと言葉をこぼす。


「人類が直立歩行になって、大地から遠ざかったことで、嗅覚は退化した。でも、人類には残された特殊技能がある」

「……味覚、ですか?」

「そう。正確には、口の中に含んだ食べ物の匂いを嗅ぐことだ。犬のように遠くの匂いは嗅げなくても、飲み込む間際まで味わうことには特化している」

「遠くからはわからないのに、近づいたとたんに時も場所も超えて、手で触れられるほど鮮明に思い出せる……“呼吸と、余韻”?」

「今探しているのは、その“ちょうどいい距離”なんだ。……調香って、恋愛に似てるよな」


 香りを次々と嗅ぎ分けていくうちに、光希の顔色がゆっくりと青ざめていった。


「ちょっと、すみません……」


 彼はふらりと一歩よろめく。誉がすぐに椅子を引き寄せ、光希の背を支える。光希は浅く呼吸をしながら、手のひらで額を覆った。


「無理させたな。鼻、酷使させすぎた」


 誉は光希に水を手渡し、その背にそっと手を添える。視線が絡み、空気がわずかに揺らぐ。近づいたことで感じる互いの香りに、互いに無意識に鼻をひくつかせてしまう。


「……少し、外の空気吸ってきます」


 席を立とうとした光希に、誉が慌てて声をかける。


「ごめん。大丈夫か?」

「平気、です。ちょっと、鼻が鈍ってしまって。お役に立てなくて、すみません」


 起き上がるのに手を貸しながら、誉は光希の表情をじっと見つめていた。光希にかける言葉を探しながら、心のざわめきが溢れ出しているのを自覚していた。



 一度外の空気を吸った光希が、まだ幾分か青ざめた顔で検品室に戻ると、ちょうど入れ替わりの新田とすれ違う。


「あら、光希くん大丈夫? 顔まっ青じゃない。誉さんに無理させられたの? だめよあんた具合悪い時はちゃんと言うのよ? あの人ってさ、焦ると逆に静かになるのよ。うちにこもって黙々とやって、ある日突然、凄いの持ってくる。……んだけど、今回はその“突然”がなかなか来ないのよねえ。ま、あんたはもうちょっと休んでからにしなさい」

「ありがとうございます」


 新田の明るさと、合成の香りのしない、やさしくてやわらかい新田の匂いに、光希はひどく安心する。その日は鼻を使わない仕事だけ片づけて退社することになった。


「有沢。ひとつ、お願いがある」


 数日後、もう一度、光希は呼ばれた。

 誉が取り出したのは、かつて光希に渡したあの“透明な欲望”──無臭に近く、肌にのせた本人の香りを引き出すという香水だった。


「もう一度、それをつけてくれないか」

「え……いま、ですか?」

「ここで。俺の目の前で」


 光希は頷き、袖をまくると手首の内側にそっと吹きかけた。その動作だけで、静かな空間にわずかな緊張が走る。


「──嗅いでも、いい?」


 光希は少し頬を赤らめながらも、手首を差し出す。誉はその手首をそっと掴むと顔を近づけ、香りを吸い込んだ。


「……ああ、やっぱり。君の記憶、時間がここに」

「僕の記憶、ですか?」

「理論で考えて辿りつけない距離なら、理屈なんて後からでいい。今回は計算じゃなく、直観を信じたい。俺が作りたかった“間”の香りは、これだ」


 光希の目が揺れる。その視線を受けとめた誉は、言葉を続けた。


「ストーリーを先に決めてから香りを作る。それが俺の流儀だった。でも、今回は逆だった。調合を続けて、ようやく意味がわかったんだ。君と出会わなければ、この香りは完成しなかった」


 調香師としての誉と、光希という存在。そのふたつが香りとなって、ようやくひとつの物語を結ぶ。誉は憑かれたようにその手首に顔を寄せる。光希の呼吸が止まる。


「……やっぱり、すごいな。君の香りは」


 その声はどこか震えていた。香りの中に、光希という存在が輪郭を持って立ちのぼってくる。芯のある甘さ、微かに湿った空気、肌の温度。


「あの日からずっと考えてた。あの日何故、君に触れなかったのか。距離感がわからなかったのか。嗅いでしまったら最後だと、自分の中の大切にしていた何かが壊れてしまうと思った──樹と実、その間をつなぐもの。俺にとっては“君”なんだよ。光希」


 その言葉に、光希ははっと目を見開いた。誉は視線を逸らさず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ずっと長い間、何千何万の香りの中から探してた。諦めて、納得したふりをして。何かが足りないことは見ないようにしてた。でも違った。あの夜、現実が先に来て、感情が追い付かなくて。君が、俺の聖域で──あの部屋で、真剣に香りを探してくれてた時さ。ようやく、俺の感情も追いついたんだ」


 しばらく沈黙が落ちた。やがて光希が、そっと微笑んだ。


「……僕で、よかったんですか?」

「うん。光希じゃなきゃ、答えに届かなかった。俺が探してた唯一の香り」


 答えを手に入れてからの誉は、早かった。その月の終わり、ついに香水は完成した。量産に備えられるぎりぎりのタイミングだった。


 すべて天然香料のみを使用し、重なり合った香りは“不可視”の境界で溶け合う。どれかひとつが前に出ることなく、どんな香りを重ねても馴染み、一人ひとりの“本来の匂い”を包み込む設計。まるで、静かに寄り添う息遣いのように。


「香害のことも考慮した。強く自己主張しすぎる香りは、もう許されない。俺たちがつくる香水には、責任がある。余韻が肌に残る合成香料の多用や、香りの重ね掛けが香害を生む原因になる。だからこそ、今回の【KiMi】では“香りの存在”よりも“呼吸と余韻”に重きを置きたかった。香りが主張せずとも、記憶に残るものを」


 誉の言葉に、新田がうんうんと頷く。


「合成香料の時代が終わったとは言わないけど、香水業界も考えなきゃね。誰かを傷つける香りじゃなくて、やさしく包む香りに」

「そうね。柔軟剤や合成香料がきっかけで、頭痛や吐き気を訴える人が近年増えているわ。化学物質過敏症に近い症状。……調香師として無関係ではいられないもの」


 柚木の声もいつも以上に凛として力強い。つづく誉の声は静かだが、強い決意がこもっていた。


「みんなを待たせた分、ブランド最高の理念を表す香水になったと思う。俺たちは香りで心を満たすものを作る。でも、そのせいで誰かの身体を蝕んでは意味がない。だから今回、全部天然香料にしたんだ。重ねても、輪郭を曖昧にせずに馴染む香り。誰かの個性を消さずに、そっと包むもの」


 それは理想であり、挑戦でもあった。


「香水を、装飾品じゃなくて、呼吸と同じものにしたい」


 誉の言葉に、光希はゆっくりと頷いた。目には見えない香りが、確かにそこに在ることを、誰かにやさしく伝えるために。


「一瞬じゃなくて、空気みたいにずっとそばにある……そんな香りですね」

「──その言葉、もらうよ」


 光希がぽつりと呟いた言葉に誉は答え、メモを取った。その言葉が、のちにボトルのキャッチコピーの一部になることを、光希はまだ知らない。


 その日を境に、二人の関係は少しだけ変わった。すれ違いざま、ふと振り向いてしまう。目が合えば、香りを確かめるように少し息を吸い込む。

 それはまだ、恋とは呼べない距離にある。でも、お互いの皮膚が、記憶が、香りとして相手に届いている──そんな静かな変化が、そこにあった。

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