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第五章:ラストノート―ノートピア

第五章:ラストノート―ノートピア

 香りが、また変わった気がする。

 深夜の試作室。静寂の中、光希はひとり机に向かっていた。周囲には並べられた試紙ムエットと、いくつかのボトル。完成したばかりの【KiMi ―樹実―】の最終版──それを改めて嗅ぎ直すためだった。


「やっぱりこの香水も、試紙じゃ意味がないな。直接皮膚にかけないと、本当の香りがわからない」


 光希はそう呟き、そっと手首にひと吹きする。

 立ちのぼったのは、ひどく静かな香りだった。けれど、それは確かに光希の内側に、深く届く。


──トップノート。ほんのかすかに立ち上る、シダーとヒノキの澄んだ木質香。


 鼻腔に触れると、すっと背筋が伸びるような、厳かで涼やかな空気が流れる。フランキンセンスがその奥に深みを加え、香りに透明な芯を与えていた。

 それはまるで、誉の“理性”そのものだった。

 無口で冷静で、どこまでも自制的。けれど、誰かを守ろうとする誠実な意志が宿っている香り。決して押しつけがましくなく、ただそっと、必要なときにそこにある。その在り方が、もう香りになっている。


 次第に香りが、肌の温度になじむように変化していく。

 現れたミドルノートには、柔らかさと熱の余韻があった。

 ミモザのほのかな黄色が光の粒のように広がり、そこに蜜のような甘さが溶けてゆく。ホーリーバジルが空気にほんの少しスパイスのような輪郭を添える。

 優しすぎて、壊れてしまいそうな、でも確かに“誰かと誰かの間”を渡る香り。


「……なんか、僕じゃないみたいだ」


 けれど、嫌じゃなかった。むしろ、懐かしい気さえする。

 いつか、誰かの胸元で感じたような匂い──いや、違う。あれは、“誉の匂い”だった。

 あの夜、ソファのクッションに残っていた、ほんの微かな、やわらかくてあたたかい残り香。

 ミドルノートは“架け橋”。樹と実を繋ぐ“時間”の香り。それが今、自分の皮膚の上で香っている。トップノートから引き継いだ誉の香りが、自分の香りと重なっている。


 (これが、記憶になる匂いなんだ)


 香水をつけるたび、自分という輪郭が、少しだけ変わるような気がした。

 他者の存在が、自分の皮膚の中に静かに染みていく感覚。これはもう“贈り物”じゃない。光希自身の中に根を下ろした、光希だけの香りだった。


 やがて、ラストノートがやってくる。

 肌に温められて浮かび上がってきたのは、自分でも知らなかったはずの甘さ。まるで誰かにそっと抱きしめられたときのような、淡く、やさしい残り香――どこかで嗅いだことがある気がするのに、どこなのか思い出せない。けれどその曖昧さこそが、いまの光希自身に重なっている気がして、息を詰めた。

 けれどそれも、何かを主張するような強い香りではなかった。ほんの少し湿り気を帯びたトンカビーンズの甘さ。イチジクのなめらかで官能的な果肉の香り。ピオニーが添える優雅さと、アンバーの深く落ち着いた残り香。

 それはまるで、熱を帯びた静かな夜。誰にも気づかれないように、そっと包まれる感覚だった。


(甘やかで、やさしい)


 けれどこれは、ただの甘さじゃない。与えられるだけのものじゃない。

 光希は気づく。このラストノートは、自分の中に沁みていった誉の“感情”だ。理性の奥に隠されていた熱。あの夜、触れそうで触れなかった体温。


「……誉さんの中に、僕がいたんだ」


 光希の声は、誰にも届かないほど小さかった。けれど確かに、それは彼自身の“気づき”だった。香水の答えが出たあのとき、誉の中で何かが変わった。

 けれど今、光希の中でも静かに確かに動き出した。


【Noutopia(ノートピア)】

 香りの三重奏──トップ、ミドル、ラスト。

 その奥に、見えない第四の層。

 それは、誰かのためでも、商品としての調香でもなく、“ひとり”の奥にだけ訪れる香り。


「ここが……橘さんの、ノートピアなんですね」


 光希はもう一吹き、手首に香りをまとわせた。

 静かに、吸い込む。

 そこにはたしかに“誉と光希”が香っていた。

 まるで皮膚の下に、深く沈み込んでくるような安心する香り。ひとりでいても、ひとりじゃないと思わせてくれる。

 もう、聞かなくてもわかる。どうしてあの日、誉が触れなかったのか。

 あの距離が、香りを完成させたのだ。


 そして今、この香りは──記憶のなかで、永遠に呼吸をつづける。

 扉の開く音がした。


「……帰るぞ、光希」


 静かな低い声。光希の身体の奥にまで響く声。

 振り返ると、そこには誉が立っていた。白衣の袖をまくり、髪には夜風をまとって。


「誉さん……」


 思わず立ち上がる光希に、誉がゆっくりと歩み寄ってくる。

 机に残されたボトルと、試紙と、その手首の香り──すべてを視線でなぞるように見つめたあと、誉はそっと問いかける。


「俺のノートピア、嗅いだか?」


 光希は、少し頬を赤らめてうなずく。


「ええ……とても、やさしい香りでした」

「俺だけじゃない。君がいたからできた香りだ」


 その言葉に、光希は胸の奥が熱くなって、言葉がでてこなくなる。そっと、誉の手が光希の手首に触れる。もう香りの検証なんて必要ないのに、確かめるように指をすべらせる。

 そのまま、静かに手を引いて、顔を近づける。


「……キスしてもいいか?」


 光希は答えない。ただ、目を閉じた。ふわりと香る、ラストノートのやさしい甘さ。

 それが唇のぬくもりと重なる。重ならなかった時間が、ようやく音もなく、ひとつに溶けていく。やわらかく、けれど確かに互いを抱きしめるように。ようやく近づくことを許された香り。

 ふたりの肌に残るのは、ノートピア──もう二度と、ひとりにはさせない、目の前の人と紡ぐふたりの香りだった。

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