香りが、また変わった気がする。
深夜の試作室。静寂の中、光希はひとり机に向かっていた。周囲には並べられた
「やっぱりこの香水も、試紙じゃ意味がないな。直接皮膚にかけないと、本当の香りがわからない」
光希はそう呟き、そっと手首にひと吹きする。
立ちのぼったのは、ひどく静かな香りだった。けれど、それは確かに光希の内側に、深く届く。
──トップノート。ほんのかすかに立ち上る、シダーとヒノキの澄んだ木質香。
鼻腔に触れると、すっと背筋が伸びるような、厳かで涼やかな空気が流れる。フランキンセンスがその奥に深みを加え、香りに透明な芯を与えていた。
それはまるで、誉の“理性”そのものだった。
無口で冷静で、どこまでも自制的。けれど、誰かを守ろうとする誠実な意志が宿っている香り。決して押しつけがましくなく、ただそっと、必要なときにそこにある。その在り方が、もう香りになっている。
次第に香りが、肌の温度になじむように変化していく。
現れたミドルノートには、柔らかさと熱の余韻があった。
ミモザのほのかな黄色が光の粒のように広がり、そこに蜜のような甘さが溶けてゆく。ホーリーバジルが空気にほんの少しスパイスのような輪郭を添える。
優しすぎて、壊れてしまいそうな、でも確かに“誰かと誰かの間”を渡る香り。
「……なんか、僕じゃないみたいだ」
けれど、嫌じゃなかった。むしろ、懐かしい気さえする。
いつか、誰かの胸元で感じたような匂い──いや、違う。あれは、“誉の匂い”だった。
あの夜、ソファのクッションに残っていた、ほんの微かな、やわらかくてあたたかい残り香。
ミドルノートは“架け橋”。樹と実を繋ぐ“時間”の香り。それが今、自分の皮膚の上で香っている。トップノートから引き継いだ誉の香りが、自分の香りと重なっている。
(これが、記憶になる匂いなんだ)
香水をつけるたび、自分という輪郭が、少しだけ変わるような気がした。
他者の存在が、自分の皮膚の中に静かに染みていく感覚。これはもう“贈り物”じゃない。光希自身の中に根を下ろした、光希だけの香りだった。
やがて、ラストノートがやってくる。
肌に温められて浮かび上がってきたのは、自分でも知らなかったはずの甘さ。まるで誰かにそっと抱きしめられたときのような、淡く、やさしい残り香――どこかで嗅いだことがある気がするのに、どこなのか思い出せない。けれどその曖昧さこそが、いまの光希自身に重なっている気がして、息を詰めた。
けれどそれも、何かを主張するような強い香りではなかった。ほんの少し湿り気を帯びたトンカビーンズの甘さ。イチジクのなめらかで官能的な果肉の香り。ピオニーが添える優雅さと、アンバーの深く落ち着いた残り香。
それはまるで、熱を帯びた静かな夜。誰にも気づかれないように、そっと包まれる感覚だった。
(甘やかで、やさしい)
けれどこれは、ただの甘さじゃない。与えられるだけのものじゃない。
光希は気づく。このラストノートは、自分の中に沁みていった誉の“感情”だ。理性の奥に隠されていた熱。あの夜、触れそうで触れなかった体温。
「……誉さんの中に、僕がいたんだ」
光希の声は、誰にも届かないほど小さかった。けれど確かに、それは彼自身の“気づき”だった。香水の答えが出たあのとき、誉の中で何かが変わった。
けれど今、光希の中でも静かに確かに動き出した。
【Noutopia(ノートピア)】
香りの三重奏──トップ、ミドル、ラスト。
その奥に、見えない第四の層。
それは、誰かのためでも、商品としての調香でもなく、“ひとり”の奥にだけ訪れる香り。
「ここが……橘さんの、ノートピアなんですね」
光希はもう一吹き、手首に香りをまとわせた。
静かに、吸い込む。
そこにはたしかに“誉と光希”が香っていた。
まるで皮膚の下に、深く沈み込んでくるような安心する香り。ひとりでいても、ひとりじゃないと思わせてくれる。
もう、聞かなくてもわかる。どうしてあの日、誉が触れなかったのか。
あの距離が、香りを完成させたのだ。
そして今、この香りは──記憶のなかで、永遠に呼吸をつづける。
扉の開く音がした。
「……帰るぞ、光希」
静かな低い声。光希の身体の奥にまで響く声。
振り返ると、そこには誉が立っていた。白衣の袖をまくり、髪には夜風をまとって。
「誉さん……」
思わず立ち上がる光希に、誉がゆっくりと歩み寄ってくる。
机に残されたボトルと、試紙と、その手首の香り──すべてを視線でなぞるように見つめたあと、誉はそっと問いかける。
「俺のノートピア、嗅いだか?」
光希は、少し頬を赤らめてうなずく。
「ええ……とても、やさしい香りでした」
「俺だけじゃない。君がいたからできた香りだ」
その言葉に、光希は胸の奥が熱くなって、言葉がでてこなくなる。そっと、誉の手が光希の手首に触れる。もう香りの検証なんて必要ないのに、確かめるように指をすべらせる。
そのまま、静かに手を引いて、顔を近づける。
「……キスしてもいいか?」
光希は答えない。ただ、目を閉じた。ふわりと香る、ラストノートのやさしい甘さ。
それが唇のぬくもりと重なる。重ならなかった時間が、ようやく音もなく、ひとつに溶けていく。やわらかく、けれど確かに互いを抱きしめるように。ようやく近づくことを許された香り。
ふたりの肌に残るのは、ノートピア──もう二度と、ひとりにはさせない、目の前の人と紡ぐふたりの香りだった。