薄明の気配さえまだ遠い、星の光だけが降り注ぐ夜。産屋には、産声の余韻が微かに残っていた。
その声の主、小さな命は今、藍染の布にくるまれ、父ワカギの腕に静かに抱かれていた。
彼は、その重みを知っている。
かつて四度、狼の子を抱いたときも、娘が他部族に生まれたときも、命が手の中に収まるときの、このひそやかな熱を知っている男だった。
その目には、慣れすら滲んでいた。
しかし生まれた子はどうだろう。
この子はただの子ではない。
星を宿す鱗。夜空の気配をまとう体。
伝承にあった“秤の子”――麒麟に違いない。
それでも、慣例は守らねばならない。
母であるメリナに、娘の無事を伝えること。
それが、今の役目だった。
「――女の子だ。呼吸は安定している。よく、泣いた。」
ワカギの声は穏やかで、静かな湖に石を投げたような振動が室内に広がった。
産後の疲労に覆われたメリナの耳にも、その波紋は届いた。
かすかに瞼を開け、メリナは布にくるまれた小さな生き物へ視線を向ける。
だが、次の瞬間、その瞳は見開かれ、顔から血の気が引いた。
「……違う」
思わず声が漏れる。
それは、まるで夜そのものを切り取ったかのような存在だった。
深い闇のような皮膚に、金の粉を散らしたような光。鱗。耳。しなやかな尾。
確かにその体には、自分とワカギの匂いが混ざっている。
だが、姿はどちらにも似ていなかった。
「違う……これは、なに……?」
その瞬間、メリナの視界がふらついた。
体が床へと沈み、冷たい布の感触と共に意識が遠のいていく。
「メリナ――」
ワカギはすぐに身を乗り出し、倒れかけた彼女の頭を支えた。
だが、呼びかけにも返事はない。
そのまま、彼女は深い眠りへと落ちていった。
彼女の指先は、かすかに震えていた。
それが、恐れによるものか、産後の余波か、判断はつかなかった。
ワカギはその横顔をじっと見つめた。
(話すわけにはいかない――)
彼は理解していた。
メリナはあくまで、群婚における「番」であり、母ではあっても族の一員ではない。
この子が“秤の子”であること、先代から密かに伝えられてきた一族の秘話を、外の者に語ることは許されていない。
そして同時に、こうも思った。
(この姿で、白き群れに戻れば、果たして守られるだろうか――)
白鳥のように穢れなき血を引くメ族の中に、この黒き芽吹きを連れ帰るなど、想像に難くない。
恐れ、排斥される。あるいは、母にさえ――
目を閉じ、ワカギは静かに娘を胸へ抱き寄せた。
その手の中で、娘は小さく鼻を鳴らし、ふぅ、と息を吐いた。