産声から、幾日かの時が過ぎた。
夜の冷たさも、朝の湿り気も、ひたすらに静かに過ぎる。この産屋では、焚き火の小さな火と、わずかな音が命の音だった。
本来ならば――
産後の母は、己の子を肌に抱き、乳を与え命の温もりを通して、母と子の絆を芽吹かせていく。
けれども、この産屋にその風景はなかった。
「……今日もか」
ワカギは苦笑を浮かべながら、布に搾乳をしみ込ませる。腕の中では、夜空の鱗をもつ小さな娘が、鼻先をちろちろと動かしながら乳を探していた。
それはまるで、眠る星が匂いを辿って世界を識ろうとしているかのようだった。
赤子は静かだ。
人の子のように泣き叫ぶことも少なく、時折、声なき声を吐く程度。
ワカギの指を吸おうとする小さな口は、生きることにただ必死に思えた。
だからこそ、ワカギの胸は痛んだ。
搾乳を終えた器を手に、彼はメリナの寝床へと目をやる。
そこには、まどろむ女の横顔があった。
白銀の髪。水面のようなまぶた。静かな寝息。
けれど、その目が開くたび、彼女は娘を見ようとしなかった。
「……肥立ちが悪いの」
そう口にしたのは三日目だった。
メリナはか細い声でそう言い、赤子を抱こうとも、声をかけようともしなかった。
それが本心かどうか、ワカギにはわからなかった。
彼女はまだ年若いこともあり、出産の経験が浅い。
だからこそ、恐れを抱いているのかもしれない。
見慣れぬ姿。理解できぬ存在。己の血が繋がっているはずの娘なのに、まるで異物のよう。
それでも、ワカギは信じようとした。
「時が経てば、少しは心も変わる」と。
だが、名付けの時――
その望みは打ち砕かれた。
「メの名を冠するのは、相応しくないと思うの。」
メリナのその言葉は、静かに、そして鋭く空気を裂いた。
「この子は白鳥でも、白でもない。女であるというなら、メ族の名を与える理由がない。」
それは、母としての拒絶だった。
その声に怒気も悲しみもなかった。
ただ、淡々と、静かな水面のように冷たい。
ワカギはしばらく口をつぐんだ。
娘を見下ろす。
布の中、彼の手に包まれたその体は、わずかに動いていた。
「では――ワの名を冠そう。ワカネと呼ぼう。和を願い、音(ね)を紡ぐ娘として。」
それが、彼の静かな決断だった。
名が与えられたとき、娘はくしゃりと顔を寄せ、鼻を鳴らした。
まるで、その名を受け入れるかのように。
季節がめぐり、産屋を離れる頃が近づいたある朝。
それは突然だった。
メリナが、姿を消した。
産屋の囲いは乱れておらず、争った様子もなかった。
ただ、彼女がいたはずの寝床は、冷たく沈黙していた。
手紙も、言葉も、何ひとつ残されてはいなかった。
残されたのは、娘ワカネと搾乳用の器が、空のまま転がっているだけだった。
ワカギはそれを静かに拾い上げ、ゆっくりと目を閉じた。
(この子を守れるのは、俺しかいない。)
焚き火の火を消し、娘を再び布に包むと、彼は静かに産屋をあとにした。
月が西へ傾き、群れの地平が朝の風に濡れていた。
その懐には、命の音が小さく眠っていた。