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第3話 母なき産屋

産声から、幾日かの時が過ぎた。

夜の冷たさも、朝の湿り気も、ひたすらに静かに過ぎる。この産屋では、焚き火の小さな火と、わずかな音が命の音だった。


本来ならば――

産後の母は、己の子を肌に抱き、乳を与え命の温もりを通して、母と子の絆を芽吹かせていく。


けれども、この産屋にその風景はなかった。


 「……今日もか」


ワカギは苦笑を浮かべながら、布に搾乳をしみ込ませる。腕の中では、夜空の鱗をもつ小さな娘が、鼻先をちろちろと動かしながら乳を探していた。


それはまるで、眠る星が匂いを辿って世界を識ろうとしているかのようだった。


赤子は静かだ。

人の子のように泣き叫ぶことも少なく、時折、声なき声を吐く程度。

ワカギの指を吸おうとする小さな口は、生きることにただ必死に思えた。


だからこそ、ワカギの胸は痛んだ。


搾乳を終えた器を手に、彼はメリナの寝床へと目をやる。

そこには、まどろむ女の横顔があった。

白銀の髪。水面のようなまぶた。静かな寝息。


けれど、その目が開くたび、彼女は娘を見ようとしなかった。


「……肥立ちが悪いの」


そう口にしたのは三日目だった。

メリナはか細い声でそう言い、赤子を抱こうとも、声をかけようともしなかった。


それが本心かどうか、ワカギにはわからなかった。

彼女はまだ年若いこともあり、出産の経験が浅い。

だからこそ、恐れを抱いているのかもしれない。

見慣れぬ姿。理解できぬ存在。己の血が繋がっているはずの娘なのに、まるで異物のよう。


それでも、ワカギは信じようとした。

「時が経てば、少しは心も変わる」と。


だが、名付けの時――

その望みは打ち砕かれた。


「メの名を冠するのは、相応しくないと思うの。」


メリナのその言葉は、静かに、そして鋭く空気を裂いた。


「この子は白鳥でも、白でもない。女であるというなら、メ族の名を与える理由がない。」


それは、母としての拒絶だった。

その声に怒気も悲しみもなかった。

ただ、淡々と、静かな水面のように冷たい。


ワカギはしばらく口をつぐんだ。

娘を見下ろす。

布の中、彼の手に包まれたその体は、わずかに動いていた。


 「では――ワの名を冠そう。ワカネと呼ぼう。和を願い、音(ね)を紡ぐ娘として。」


それが、彼の静かな決断だった。


名が与えられたとき、娘はくしゃりと顔を寄せ、鼻を鳴らした。


まるで、その名を受け入れるかのように。


季節がめぐり、産屋を離れる頃が近づいたある朝。


それは突然だった。


メリナが、姿を消した。


産屋の囲いは乱れておらず、争った様子もなかった。

ただ、彼女がいたはずの寝床は、冷たく沈黙していた。


手紙も、言葉も、何ひとつ残されてはいなかった。


残されたのは、娘ワカネと搾乳用の器が、空のまま転がっているだけだった。


ワカギはそれを静かに拾い上げ、ゆっくりと目を閉じた。


(この子を守れるのは、俺しかいない。)


焚き火の火を消し、娘を再び布に包むと、彼は静かに産屋をあとにした。


月が西へ傾き、群れの地平が朝の風に濡れていた。


その懐には、命の音が小さく眠っていた。

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