まだ夜とも朝ともつかぬ微かな明かりの中で、ワカネは静かに目を覚ました。
耳の先にひっかかるような、どこかの風音。
石の壁にやさしくぶつかって流れる、乾いた音。
──ああ、そうだった。
ここは父・ワカギの寝所。
昨夜のうちに、産屋からここへ運ばれてきたのだった。
身を横たえていた藍布の下から、ほのかにお日様の匂いと、もう一つ。
橘の皮をむいた時のような、すこし苦くて甘い香りが鼻先をくすぐる。
思わず、ワカネは小さな鼻をその方向へと近づけた。
その瞬間、額から後頭部にかけて大きな手がそっと撫でる。
そして、耳の後ろをやさしくカリカリと掻いてくれる感触。
「……まだ、早いよ。もう少し……寝てなさい」
眠たげな声。低く、けれど響きの柔らかい、父の声。
ワカネは安心したように「きゅ……」と小さく鳴いた。
体が温もりに沈み、まぶたがまた重くなる。
──静寂がまた、戻ってきた。
再び目覚めた時、空はかすかに白んでいた。
けれど部屋の奥はまだ影に沈み、風の音だけが近くを通る。
ふと気配を感じて顔を上げると、そこにひとり、立っていた。
自分よりもはるかに大きいが、父ほどではない。
黒髪にうっすら藍の筋。銀の瞳。
その人は、まっすぐこちらを見ていた。
「……なんだ?」
ワカネは動けなかった。
その目が、まるで凪いだ湖面のようで――息を呑んだまま、ぴたりと固まる。
その人物は、ふん、と小さく鼻を鳴らしながら、しゃがみ込んでワカネに近づくと、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして、ためらいなく抱き上げた。
「軽……おまえ、何だ?」
まだ幼い彼にとっても、これは明らかに「普通の赤子」ではなかった。
龍のようで、龍ではない。
鱗のような光沢のある毛並みに、揺れる尾。
けれど、確かに赤子であり、たしかに女児のようだとわかる。
「……うちの子か? いや、違うな……」
疑問を口にしながら、ワカネを抱いて廊下へ出た。
行き着いた先は、朝餉の支度が進む、居間だった。
すでに幾人かの兄たちがそこにおり、香ばしい海藻の焼ける香りと、干物を炙る煙が空間に漂っていた。
そして――
ワカネを抱いたまま入ってきた末の弟ワツナギを、兄たちが一斉に見た。
そしてその腕の中の、小さな不思議を見た。
「……それ、なに?」
「わからない。でも……父さんが連れてきた」
一瞬、空気が止まった。
だがその静寂を破ったのは、三男・ワミツキだった。
「……この子、同じ匂いがする」
ふんふんと鼻を寄せ、嬉しそうに笑う。
「ぼくたちと、同じ。ワの匂い!」
その言葉に、皆が順にワカネへ鼻を近づけた。
「……たしかに。血の匂いだ」
「でも雌みたいだな?」
そして、ぴぃぃぃ……と
ワカネが、ついに泣いた。
そこへ慌てて駆けつけてきたワカギが、兄たちの視線を受けつつも、そっと息子からワカネを抱き上げてその背を撫でた。
兄たちはしばし、言葉もなく見つめた。
けれどその目に、怯えはなかった。
不思議さと、まだ知らぬ家族への――淡い好奇心だけがあった。