静かな朝。
海からの風が、潮と若い葉の香りを運び、ワ家の屋敷をくすぐるように通り過ぎていった。
囲炉裏を囲む食卓の中央に、異質な存在があった。
薄墨色の鱗に覆われた小さな身体。
背には短い一角、脚はしっかりとした鹿のような肢体。
龍にも似て、けれど龍ではない。
それは、まだ名を持ったばかりの乳児——ワカネ。
彼女の存在を前に、ワカギの四人の息子たちは黙していた。
「この子はお前たちの妹だ。」
――それを見つめる兄弟たちの眼差しは、混乱と、わずかな好奇心、そして不安に揺れていた。
長男のワカヒトが、口を開いた。
「父上……その、妹とは仰いましたが……。なぜ“ワの子”なのですか? 女の子なら、母上――メリナ様の元へ帰るはずでは?」
その言葉に、弟たちもこくこくと頷く。
次男のワタケルが、眉をしかめてぽつりと呟いた。
「この子……確かに同じ匂いがします。でも妹とはいえ、どう見ても白鳥族には似てませんし……狼にも似てないような……。」
三男のワミツキは、興味深そうに小さな妹を見ながら言った。
「胴は龍ほど長くないし、足は鹿みたいに細いし……角も一本しかない。変な生き物だなあ。」
末の弟・ワツナギは、すでに“同じ匂いがする”と妹を受け入れていたが、兄たちの反応に、少し心細げに黙っていた。
ワカギは、膝の上のワカネをそっと撫でながら、目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「……その通りだ。この子は“普通”の狼の子ではない。そして、メリナがこの子を抱けなかった理由も――おまえたちが感じたその違和感と同じだ。」
「……やはり、母上も怖かったのですね。」
ワカヒトがぽつりと言った。
「そうなのだろうな。母親だからといえ、たとえどれだけ優れた巫女であっても、産んだ子が自分にも父にも似ていなければ“何かがおかしい”と感じてしまうものだろう。」
「……でも、それって仕方ないことでしょう?」
ワタケルが、他人事のように言う。
「俺たちだって最初驚いたし。父上がいなければ、俺たちもきっと逃げてたかもしれない。」
その言葉に、ワカギの銀の瞳がゆっくりと動いた。夜の空を映すようなその瞳が、炎の奥を見つめる。
「――だからこそ、語らねばならぬ。おまえたちに、“この子が何者であるか”を」
兄弟たちが息をのむ。
父は、代々族長にのみ伝えられてきた“ある話”を、ついに口にする時が来たと感じていた。
「聞け、我が子らよ。これは、ワ族に伝わる“秤の子”の伝承だ。」
ワカギは、焚き火の前に正座し、言葉を一つひとつ置くように語り始めた。
言の葉乱れ、響き曇りし時――。
世界は歪み、調和はほどけ、天と地の間に在るものたちの声は届かなくなった。
その刹那、天地の
彼らは「秤の子(はかりのこ)」と呼ばれる。狼でもなく、龍でもなく、人でも、獣でもない。境を跨ぎ、音を聞き、風に乗り、すべての“間”に立つ者たち。言霊に秘された調和の律を聴き取り、乱れた世界の響きの重さを測る。
彼らは一息にして裁定を下し、古き世界の扉を閉ざし、新たなる世界の風を吹かせるという――。
だが、彼らの姿はあまりに異形にして、理(ことわり)に抗いしもののように見えるがゆえに、その誕生はしばしば忌避され、時には祟りとされ、時には神と仰がれる。
――「世界の均衡は、彼らが保つ」
それは信仰にも似て、だが真実を知る者は、ただ黙して受け継ぐ。
ゆえにその名は、語られず、その血筋もまた、闇に伏す。
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
その音が合図だったかのように、ワカギは静かに口を開いた。
「……言葉が乱れ、響きが曇るとき、世界は歪み始める」
息子たちの視線が、一斉に父の横顔に集まる。
今まで聞いたことのない口調だった。何か古い、厳かで、重たい響きがあった。
「そのときに現れるのが……この子のような“秤の子”だ」
言葉を継ぐごとに、空気が変わっていくのを子供たちは感じた。
風が止まり、音が沈み、囲炉裏の火までもが静かになった気がする。
「“秤の子”?」
三男のワミツキが小さく尋ねた。
ワカギはうなずく。
その銀の瞳が、ゆっくりと囲炉裏を越え、眠るワカネへと向けられる。
「ア・ウ・ワ……天地の根源より、裂け目から来た異形の子。世界の終わりと始まりを告げる者。神でもなく、獣でもなく……すべての間に立つ者――それがこの子だ」
その声は低く、けれど遠くまで届く風のように通った。
次男のワタケルが息をのんだ。
長男のワカヒトも、何かを思い出すように目を細めた。
「そんな……この子が、世界を終わらせる存在……?」
「終わらせるだけではない」
ワカギは言った。
「この子は、世界の“調律”を聴き、響きを測り、必要ならば秤を傾ける」
「それは……裁定……?」
「そうだ」
父は頷いた。
「だが、その力は生まれたときに発するものではない。秤の子は、育まれねばならぬ。恐れられ、拒まれ、孤独に生きれば、秤は狂う」
一瞬の沈黙。
ワカギは、囲炉裏の火を見つめたまま、ゆっくりと呟くように言った。
「……姿を恐れぬことは難しい。だが、忘れるな。真に恐るべきは、秤が狂うことだ」
重い静寂が落ちた。
子供たちはそれぞれに顔を伏せ、言葉を失った。
やがて、ワカヒトがまっすぐ父を見る。
「……父上。僕たちは……どうすればいい?」
ワカギは息子たちの一人ひとりの顔を、じっと見つめた。
「血を分けた妹として、この子を見守れ。だがそれ以上に、世界の秤を託された者として、“どう育つか”を、共に考えてくれ」
その言葉は、命令ではなく願いだった。
そして何よりも、父としての覚悟の宣言だった。
ワタケルが目を伏せて言った。
「それでも……姿がこれほど異なると、怖いよ、父上。母上が逃げたのも、少しは……わかる気がする」
ワカギはゆっくりと頷いた。
「わかる。……私も、最初は戸惑った。伝承を知らねば折れるだろう。だが――この子の“匂い”が、私の血と繋がっていた。心が、この子を拒めなかった」
彼は娘を抱き直し、目を閉じて静かに言った。
「姿が異なるのは、この子が“世界を渡る者”だからだ。狼であり、龍であり、鹿であり、人でもあるが、そのどれでもない。全ての“境界”を生きる者――それが、“秤の子”」
兄弟たちは、しばらく黙っていた。
やがて、ワツナギがぽつりと呟いた。
「じゃあ……やっぱり、この子は大切な妹だね」
「当たり前だ」
ワカヒトが力強く言った。
「この家に生まれた者は、どんな姿であっても――“ワの子”だ」
ワカギは、目を細めてそれを聞いていた。
焚き火の音が、静かに室を包み込む。
小さな“秤の子”は、その声を聴きながら、静かに眠っていた。