目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話 ワ族の秤の子

静かな朝。

海からの風が、潮と若い葉の香りを運び、ワ家の屋敷をくすぐるように通り過ぎていった。


囲炉裏を囲む食卓の中央に、異質な存在があった。


薄墨色の鱗に覆われた小さな身体。

背には短い一角、脚はしっかりとした鹿のような肢体。

龍にも似て、けれど龍ではない。

それは、まだ名を持ったばかりの乳児——ワカネ。


彼女の存在を前に、ワカギの四人の息子たちは黙していた。


「この子はお前たちの妹だ。」

――それを見つめる兄弟たちの眼差しは、混乱と、わずかな好奇心、そして不安に揺れていた。


長男のワカヒトが、口を開いた。


「父上……その、妹とは仰いましたが……。なぜ“ワの子”なのですか? 女の子なら、母上――メリナ様の元へ帰るはずでは?」


その言葉に、弟たちもこくこくと頷く。


次男のワタケルが、眉をしかめてぽつりと呟いた。


「この子……確かに同じ匂いがします。でも妹とはいえ、どう見ても白鳥族には似てませんし……狼にも似てないような……。」


三男のワミツキは、興味深そうに小さな妹を見ながら言った。


「胴は龍ほど長くないし、足は鹿みたいに細いし……角も一本しかない。変な生き物だなあ。」


末の弟・ワツナギは、すでに“同じ匂いがする”と妹を受け入れていたが、兄たちの反応に、少し心細げに黙っていた。


ワカギは、膝の上のワカネをそっと撫でながら、目を閉じ、ひとつ息を吐いた。


「……その通りだ。この子は“普通”の狼の子ではない。そして、メリナがこの子を抱けなかった理由も――おまえたちが感じたその違和感と同じだ。」


「……やはり、母上も怖かったのですね。」


ワカヒトがぽつりと言った。


「そうなのだろうな。母親だからといえ、たとえどれだけ優れた巫女であっても、産んだ子が自分にも父にも似ていなければ“何かがおかしい”と感じてしまうものだろう。」


「……でも、それって仕方ないことでしょう?」


ワタケルが、他人事のように言う。


「俺たちだって最初驚いたし。父上がいなければ、俺たちもきっと逃げてたかもしれない。」


その言葉に、ワカギの銀の瞳がゆっくりと動いた。夜の空を映すようなその瞳が、炎の奥を見つめる。


「――だからこそ、語らねばならぬ。おまえたちに、“この子が何者であるか”を」


兄弟たちが息をのむ。


父は、代々族長にのみ伝えられてきた“ある話”を、ついに口にする時が来たと感じていた。


「聞け、我が子らよ。これは、ワ族に伝わる“秤の子”の伝承だ。」


ワカギは、焚き火の前に正座し、言葉を一つひとつ置くように語り始めた。


言の葉乱れ、響き曇りし時――。

世界は歪み、調和はほどけ、天と地の間に在るものたちの声は届かなくなった。

その刹那、天地の根源ア・ウ・ワより、一筋の裂け目が生まれ出で、そこより《異形の子》が現れた。

彼らは「秤の子(はかりのこ)」と呼ばれる。狼でもなく、龍でもなく、人でも、獣でもない。境を跨ぎ、音を聞き、風に乗り、すべての“間”に立つ者たち。言霊に秘された調和の律を聴き取り、乱れた世界の響きの重さを測る。

彼らは一息にして裁定を下し、古き世界の扉を閉ざし、新たなる世界の風を吹かせるという――。

だが、彼らの姿はあまりに異形にして、理(ことわり)に抗いしもののように見えるがゆえに、その誕生はしばしば忌避され、時には祟りとされ、時には神と仰がれる。

――「世界の均衡は、彼らが保つ」

それは信仰にも似て、だが真実を知る者は、ただ黙して受け継ぐ。

ゆえにその名は、語られず、その血筋もまた、闇に伏す。


囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。

その音が合図だったかのように、ワカギは静かに口を開いた。


「……言葉が乱れ、響きが曇るとき、世界は歪み始める」


息子たちの視線が、一斉に父の横顔に集まる。

今まで聞いたことのない口調だった。何か古い、厳かで、重たい響きがあった。


「そのときに現れるのが……この子のような“秤の子”だ」


言葉を継ぐごとに、空気が変わっていくのを子供たちは感じた。

風が止まり、音が沈み、囲炉裏の火までもが静かになった気がする。


「“秤の子”?」

三男のワミツキが小さく尋ねた。


ワカギはうなずく。

その銀の瞳が、ゆっくりと囲炉裏を越え、眠るワカネへと向けられる。


「ア・ウ・ワ……天地の根源より、裂け目から来た異形の子。世界の終わりと始まりを告げる者。神でもなく、獣でもなく……すべての間に立つ者――それがこの子だ」


その声は低く、けれど遠くまで届く風のように通った。

次男のワタケルが息をのんだ。

長男のワカヒトも、何かを思い出すように目を細めた。


「そんな……この子が、世界を終わらせる存在……?」


「終わらせるだけではない」

ワカギは言った。


「この子は、世界の“調律”を聴き、響きを測り、必要ならば秤を傾ける」


「それは……裁定……?」


「そうだ」

父は頷いた。


「だが、その力は生まれたときに発するものではない。秤の子は、育まれねばならぬ。恐れられ、拒まれ、孤独に生きれば、秤は狂う」


一瞬の沈黙。


ワカギは、囲炉裏の火を見つめたまま、ゆっくりと呟くように言った。


「……姿を恐れぬことは難しい。だが、忘れるな。真に恐るべきは、秤が狂うことだ」


重い静寂が落ちた。

子供たちはそれぞれに顔を伏せ、言葉を失った。


やがて、ワカヒトがまっすぐ父を見る。


「……父上。僕たちは……どうすればいい?」


ワカギは息子たちの一人ひとりの顔を、じっと見つめた。


「血を分けた妹として、この子を見守れ。だがそれ以上に、世界の秤を託された者として、“どう育つか”を、共に考えてくれ」


その言葉は、命令ではなく願いだった。


そして何よりも、父としての覚悟の宣言だった。


ワタケルが目を伏せて言った。


「それでも……姿がこれほど異なると、怖いよ、父上。母上が逃げたのも、少しは……わかる気がする」


ワカギはゆっくりと頷いた。


「わかる。……私も、最初は戸惑った。伝承を知らねば折れるだろう。だが――この子の“匂い”が、私の血と繋がっていた。心が、この子を拒めなかった」


彼は娘を抱き直し、目を閉じて静かに言った。


「姿が異なるのは、この子が“世界を渡る者”だからだ。狼であり、龍であり、鹿であり、人でもあるが、そのどれでもない。全ての“境界”を生きる者――それが、“秤の子”」


兄弟たちは、しばらく黙っていた。

やがて、ワツナギがぽつりと呟いた。


「じゃあ……やっぱり、この子は大切な妹だね」


「当たり前だ」


ワカヒトが力強く言った。


「この家に生まれた者は、どんな姿であっても――“ワの子”だ」


ワカギは、目を細めてそれを聞いていた。


焚き火の音が、静かに室を包み込む。


小さな“秤の子”は、その声を聴きながら、静かに眠っていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?