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第6話 ワカネが立った

縁側から見える庭には、午後の光が差し込んでいた。風が微かに葉を揺らし、蝉の声も遠のき始める頃。


長兄のワカヒトは、父ワカギに付き添い、まだ戻ってこない。

残された次男ワタケル、三男ワミツキ、そして四男のワツナギの三人は、囲炉裏のある座敷に並んでしゃがみ、床の上でごろりと寝ているワカネを囲んでいた。


「……動かないな」

ワミツキがつま先で畳をとんとんと叩きながら言った。


「寝てばっかだもんな」

ワタケルが少し退屈そうに顎をつく。


「……やっぱ“龍の子”って言ってたけど、ぜんぜん火も吹かないじゃん」

「違うよ。龍の子だけど龍の子じゃないだよ。」


「じゃぁ結局なんなんだ?」


「なんだろう?」


「だから麒麟だって。」


「麒麟って何?」


「ワカネだろ?」


「わかんない。」


「確かに。」


ワツナギがぴょこんと跳ねるように立ち上がる。


三人の視線がワカネに注がれるが――その小さな体はぴくりとも動かず、ただ規則正しく寝息を立てていた。


「つまんない……」

「よし、外行こう! 剣の練習!」


ぱたぱたと音を立てて三人は立ち上がり、遊び道具を持って庭先へ飛び出していった。

縁側に風が通り、室内の風鈴がかすかに鳴る。


誰もいなくなった部屋に、ぽつんと取り残されたワカネはまぶたの間から細い光を感じて、ゆっくり目を開けた。


くぁ……と大きなあくび。


その口元が、ちょこんと生まれたばかりの角の下で歪んだ。


ひときわ強い風が部屋を通り抜けたときだった。

縁側の障子戸がかたんと鳴り、小さな貝殻の風鈴が揺れる。

その音に惹かれたかのように、ワカネの体が、ころりと転がるように動いた。


寝返り。


……そして、ぐっと両足を畳に押しつける。


「……っ」


四肢はまだ頼りなく、膝はぷるぷる震えている。

だが、ワカネの銀にきらめく鱗が陽光を受けて、かすかに光を弾いた。


そのとき、庭の縁側から「ドタリ」と何かが落ちる音がした。


「……あれ?」

ワミツキが剣を拾いながら、振り返る。


「なんか、今……音、しなかった?」


「……あっ!」


ワツナギが先に駆けていく。

三人が縁側からのぞき込んだその先――


そこには、座敷の縁に手をかけ、よろよろと身体をもち上げようとする小さな麒麟の姿があった。


「……ワカネ?」


角の根元から汗を滲ませ、ぐらりと揺れる首。

後ろ足は震えながらも、どうにか立とうとしていた。


「おい……立とうとしてるぞ……!」


誰ともなく呟いたその声に、兄弟たちは縁側から身を乗り出すように顔を寄せた。


小さな体、鱗が光を受けて淡く煌めく。

麒麟の尾がそっと揺れ、四肢がわずかにふるえている。


「おい……まだ、生まれて数日でしょ?」

ワタケルが目を丸くする。


「なんで立とうとしてるの……?」

ワミツキがぼそりと呟いた。


「……馬とか鹿と一緒じゃない?」

ぽつりとワタケルが言った。


「そうだよ。あいつら、生まれてすぐ立つって聞いたことある」

ワミツキも頷きながら、口元を押さえる。


「じゃあ……麒麟ってのも、そうなんだ……」


まだ乳児であるはずのワカネの動きに、子供たちは息を呑む。

特に四男ワツナギは目を丸くして、「手、貸してもいい?」とすでに一歩踏み出そうとしていた。


「待てっ!」

ワタケルが小声で制するように手を伸ばす。


「……自分で立とうとしてる。馬とか鹿も子供が立つまで親は手を貸さないだろ?同じだ手を出したらだめだろ、こういう時は」


「……でも、こけたら?」


「見てればいい。見守るって、そういうことだろ」


静かな畳の間に、小さくも熱を帯びた声が漏れる。


「がんばれ……」

「がんばれ、ワカネ……」

「あとちょっと……」


最初はささやくようだった声は、気づけばひそひそと交互に、思わず拍手でもしそうな勢いで続いていた。


そのささやきが、風に乗って廊下を抜け――


「……?」


執務室で書をひもといていたワカギと、資料の整理をしていたワカヒトの耳にも届いた。


「……騒がしいですね」

ワカヒトが眉をひそめる。


「……あの声は……ワカネの部屋か?」


ワカギは立ち上がり、音のした方へ向かう。


廊下を進めば、縁側の先、居間に集まる三人の息子の背中が見えた。

どれも固く背を伸ばし、畳の端に手をつきながら、一点を凝視している。


「……何事だ?」

ワカギが声をかけると、三人ははっと振り向いた。


「父上!」


「あのっ……!」


「ワカネが……!」


口々に言葉が被り、最終的に説明を任されたのはワタケルだった。


「……ワカネが、突然起き上がって……! 自分で立とうとしてるんです!」


「誰も手を貸していません。じっと、ずっと……ずっと、頑張ってます!」

ワツナギもすぐに付け加えた。


それを聞いたワカギとワカヒトも、静かに子供たちの輪に加わる。


そこにいたのは、小さな、でも確かに今この瞬間に世界を切り拓こうとしている者。


ワカネだった。


震える足。

何度も膝を折りかけ、地に尻もちをつきながらも、彼女は何度も顔を上げる。


そして――


「……っ!」


四肢を踏ん張ったその瞬間、彼女の体が、空間からわずかに浮いた。


一歩。

そして、もう一歩。

三歩目でふらりと前のめりになったところを、ワカギがそっと受け止める。


「……立った……」

「三歩……歩いた……」


静まり返る室内に、感嘆の吐息だけがいくつも重なった。


ワカネの額には汗がにじみ、呼吸は少し荒い。

それでも目を閉じず、父の腕の中でじっと兄たちを見つめていた。


その眼差しの中に、言葉を持たぬながらも伝わる何かがあった。


「よく頑張ったな。」

ワカギが低くつぶやいた。


生まれてすぐに母に見放された子だ。普通草食の獣人はその本能から母から乳をもらうためにすぐ立ち上がろうとする。もしかしたらもっと早く立ち上がるはずだったのではなかろうか。母に促され見守られ励まされ立ち上がり乳を食むはずだったのでは、と半ば不憫にも思う。


だが今こうして誰に言われるでも無く立ち上がるその姿に生きる本能と力強さを感じた。


「これが“秤の子”の力だよ。生きようとする強さ……“歩む意思”だ」


それは、世界を左右する者の、あまりに小さく、それでいて重い第一歩だった。


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