「……少しの間、見ていてくれ」
父・ワカギにそう言われ、ワカヒトは黙ってうなずいた。
藍と墨黒の衣を着た静かな兄ワカヒトは、まだ乳児のワカネを受け取ると、一度その目をのぞき込む。
……銀の瞳。
父譲りのその光が、じっとこちらを見返している。
まるで何かを問うているかのようだった。
ワカヒトは片眉をわずかに上げて、それから懐から小さな毬を取り出した。
藍染めの布を巻きつけた、音を立てない遊び道具。
弟たちの幼い頃にもよく使ったもので、今も座敷の隅に置いてある。
「……これに、興味は?」
軽く揺らすと、チリ、とかすかな糸音が鳴る。
ワカネの大きな目が、ふいにその毬へと動いた。
視線が追ったのを確認し、ワカヒトはワカネを柔らかな敷布の上にそっと下ろす。
毬を転がすと、それを追って小さな身体がもぞもぞと動く。
まだ四肢はたどたどしいが、興味と好奇心の分だけ、体が動いていく。
――しばらくして、毬が障子の隅で止まった。
ワカネは転がらなくなったそれを見つめると、興味を失ったのか、ふいにくるりと向きを変えた。
視線の先には――床に置かれた、一冊の本。
兄が読むつもりだった、一族の記録書。
厚く古びた和紙に綴られた、図と文字の並ぶそれを、ワカネはしばらく眺めたあと、鼻先で「つん」とつついた。
「……」
ワカヒトは目を細める。
まだ言葉も話さぬその存在が、文字の意味など知るはずがない。
だが、紙の感触に惹かれただけではない。
まるで――“これはなに?”と、問うような、触れ方だった。
「本に興味があるのか?」
誰に答えを求めるでもなく、ワカヒトはそうつぶやいて本を手に取った。
低い声で、ゆっくりと読み始める。
「……海辺の外壁、結界都市配置図……ふむ」
それはワ族の構造、歴史、役割の基本を記した一冊。
兄として、後継ぎ候補として、そして一族の未来を背負う者として、目を通すべき資料だった。
ワカヒトは静かに胡坐をかき、声を出さずに目で追いはじめた。
……が、ページをめくる指先に、微かな圧を感じる。
ふと下を見ると、ワカネが鼻先で本の角をつついていた。
「……」
彼はしばし考えた。
視線を返すワカネの瞳には、言葉こそないものの、確かに「何かを求める」光があった。
「……仕方ないな」
そう言って、ワカヒトは本を閉じ直し、ゆっくりと開きなおした。
今度は、声に出して読み始める。
「ワ族は、国土の最果て“シの領域”に属する。その役目は、海魔より国を守り、風と霊気の結界を張ること――」
ワカネは黙って耳を傾けていた。
小さな尾がときおりぴくりと揺れる。理解しているかどうかは分からない。
けれど、話を止めると、また鼻先で本をつついた。
「……続けろ、ということか?」
クスリと笑って、ワカヒトは続きを読み上げる。
「静寂の観察者、海を聴く者……それがワ族の本質。そのため我らの装束は音を吸い、影にまぎれ、海の深層と対話する……」
数ページを読んだころには、ワカネは本に顎をのせるようにして、ワカヒトの膝に体を寄せていた。
気がつけば、目を閉じ、ゆっくりと寝息を立てている。
「……ふふ」
ワカヒトは笑わない性質だった。
けれど、その口元には、微かにやわらかい弧が宿っていた。
彼はもう一度、本の続きを開く。
声を出さず、ただ目で読む。
その膝には、眠りについた“秤の子”が、世界の音に包まれて、静かに身をゆだねていた。