目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話 黒き闇に差す灯

徹はその場に立ち尽くしていた。

肩で息をしながら、わずかに震える指先。

初めての実戦、体の芯に残る異様な脱力感と、心臓の鼓動が胸の内側から激しく叩き続けている。


拳の痺れ、関節から伝わるじんわりとした痛み。

すべてが現実であり、自分がたった今、人を殴ったという動かぬ証拠だった。


倒れた男たち。

喉を押さえて吐いている金髪、酢漬けの汁にまみれて痙攣する坊主頭、顔面血まみれで気を失った平頭。

血の匂いとスパイスの刺激臭が入り混じり、鼻の奥を突く。胃がひっくり返りそうだ。


徹は深く息を吸い込み、込み上げる吐き気と震える指先を押し殺し、

カウンターの向こうを見た。


白石凛は完全に呆然としていた。

口を手で押さえ、音のない涙が頬を濡らし続ける。体は小刻みに震えていた。

驚きと恐怖、そして信じられないものを見るような目で、彼女はじっと徹を見つめていた。


初めて光の中に現れた“何か”を見るように。

その後ろに転がる悪夢のような三人を見ながら。


徹は声をかけようとした。

この恐怖に包まれたSSランクの少女に、何か一言でも安堵を与えたくて——


その瞬間——!


《白石凛 好感度ポイント変動中……+1……+3……+5……+10……閾値超過!急上昇!突破!》

《現在 好感度ポイント:35ポイント》


怒涛のように流れ込むシステムメッセージに、徹は思わずまばたきを忘れた。


たった一度の“助けただけ”で……35点!?


まだ衝撃から抜け出せない徹の前で、

さっきまでカウンターの奥に固まっていたはずの白石凛が、何かを探し出すようにごそごそと動き出す。


手が震え、足元はおぼつかず、それでも彼女は——

あの壊れた棚やこぼれた酢漬けの汁の中を、慎重に、しかし確かな意志で、

一歩、また一歩と踏み出してきた。


唇を噛みしめ、嗚咽を飲み込みながら。

その顔は涙でくしゃくしゃ、だけど目は……真っすぐに、徹を見ていた。


彼女の小さな身体は、徹の胸のあたりにも届かない。


そして、彼女は——

ぎゅっと握っていた小さな手をそっと差し出した。


そこには、丁寧に畳まれた真っ白なハンカチ。

ほのかに石鹸の匂いがして、端にはうっすらと汗の跡が残っていた。


細い指が震えながら、そっと徹の右手甲、

さっき打ち込んだ衝撃で擦りむいた傷口に触れた。


少女の手は冷たかった。きっと怖さで血の気が引いているのだろう。

けれど、その手のひらは温かかった。

不器用で、おそるおそる、それでも優しく、彼の傷にハンカチをあてがった。


徹の体がびくりと震える。


それは、“守られるべき者”が、“守ってくれた者”へ捧げる、最も素直な感謝。

恐怖を押しのけてまで歩み寄ってきた、その姿に——

どこか雛鳥のような、純粋な信頼が宿っていた。


「……あ、ありがとうございます……」


小さな声。鼻声混じりのかすれた声。


下を向いていて、黒い前髪が彼女の瞳を隠していた。

だがその声は、震えながらもまっすぐで、まごうことなき本心だった。


「……その……手、拭いてください……」


徹は自分の手の上に重なる、小さくて頼りなげな指先を見つめた。


制服に染みついた洗剤の匂いと、彼女自身の甘く澄んだ香りがふわりと鼻をかすめる。


乱闘の荒々しさや血の気配が、少しずつ、やわらかく包み込まれていくような気がした。


その時——

徹の指先が、彼女の手に添えられたハンカチの縁に無意識で触れた。


その瞬間、またあの音が響く。


《危機回避成功!SS級目標・白石凛の保護達成!

好感度ポイント大幅上昇により、特別報酬獲得:【小額返金カード(7日)】!》

《使用条件:電子アカウントに紐付けて使用。期間中、小額決済の50%を自動返金。1日上限10,000円まで。》


呼吸が止まりそうになった。

彼はそっと、その温もりを残すハンカチを握りしめた。


そのとき——


「ウーウーウー……!」


突然、遠くから近づいてくるサイレンが路地の静けさを切り裂いた。

どうやら騒動を聞きつけた近隣住民が通報したらしい。


徹は目を鋭くし、手を引っ込めると同時に、そのハンカチを掌に強く握った。


「……警察だ。」


目を丸くした凛に向かって、彼は素早く言葉を繋げる。


「今から話すことをそのまま言って。

あいつらに絡まれて、俺が正当防衛で助けただけ。」


ノートパソコンを素早くカバンに押し込み、

床に転がるチンピラたちを一瞥して、声を潜めて一言。


「……俺は“君の彼氏”。迎えに来た。」


そのまま、警察がまだ店内に入ってくる前に、

徹は振り返らず、コンビニ奥の「関係者専用」防火扉を開け、

ダンボールが積まれた薄暗い通路の向こうへ、姿を消した。


残された白石凛は、その場に立ち尽くしたまま。

手にはまだ、彼の手の温度が残っていた。


顔が熱い。鼓動が耳の奥で跳ねている。

涙はまだ頬を伝っている。だが、その冷え切った絶望の中に、

確かに、熱をもたらした誰かの存在があった。


——その提示音は、静かな通路の中でひっそりと響いていた。


《白石凛 好感度ポイント微増……+1ポイント。現在:36ポイント》

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?