防火扉が背後で重く閉まった。
その瞬間、コンビニの騒乱と警笛の叫びが、世界から切り離された。
徹はひんやりとした壁にもたれ、ゆっくりと右手を開いた。
その掌には、きれいに畳まれた白いハンカチ。
角ににじんだ赤は、先ほどの格闘で擦り剥いた自分の血だった。
だが、それ以上に濃く鼻をくすぐるのは——
石鹸のような清潔な香りと、少女の涙の塩味が入り混じった気配。
白石凛。SSランク——
彼は目を閉じ、深く息を吐いた。
体内を駆け巡っていた戦闘の興奮は次第に冷め、代わりに、深く重い疲労と……どこか現実味のない滑稽さが広がっていく。
格闘スキルのバフはまるで引き潮のように消え去り、
一瞬の力強さのあとに残ったのは、ただの消耗と、圧倒的な虚脱感だった。
指先についた血を舌で拭い、彼はスマートフォンを取り出す。
画面の青白い光が、やや血の気の引いた彼の顔を照らし出す。
時刻は——午前5時15分。
リミットである10時まで、残された時間はわずか4時間45分。
迷っている暇はない。
徹は指を滑らせ、銀行アプリを開いた。
表示された残高は、見るのも辛い三桁の数字。
続いて、普段ほとんど使っていなかった電子決済アプリを開く。
息を吸い、設定画面へ進む。
《電子ウォレットとの紐付けを検出。
返金カード(小額/7日間)の利用を確認しますか? はい/いいえ》
脳内に響くシステムボイス。もはや幻聴に近いそれに、彼は微塵の迷いもなく「はい」をタップした。
バインド成功の緑の表示が一瞬光り、画面はすぐに元の無機質な数字へと戻った。
徹はそれを数秒見つめたのち、スマホをポケットにしまい、無言で通路の先へと歩き出す。
——東の空がうっすらと明るくなっていた。
新宿の町に、また新たな朝が訪れる。
地鳴りのような地下鉄の始発が動き出し、
徹は近くの24時間営業のネットカフェに滑り込むと、狭いブースに身を潜めた。
まだ体内に残っていた“活力増進”バフと冷めた缶コーヒーを頼りに、
彼はひたすらキーボードに向かい続けた。
——レポートを、もう一度。
論理構成から言い回しまで、徹底的に見直し、小野理恵の「好み」に合うよう、骨と肉を削って整え直す。
時刻は8時50分。
東洋電子株式会社・第三営業課。
徹はちょうど定刻にオフィスの扉をくぐった。
ヨレヨレのスーツ、血の気のない顔、そして濃すぎるほどのクマ。
だがその瞳の奥には、前夜の修羅場を経た者だけが持つ、何か硬質な光が宿っていた。
無言で目を向けてくる同僚たち。
そこには同情も羨望もない。ただ、どこか遠巻きの静観と、見えない嘲笑。
徹はそれらを一切見ず、一直線に課長室へ向かった。
手に持っているのは、返金カードで購入したばかりの、熱々のコンビニコーヒー。
ノック、2回。
「どうぞ」
その声は、壁越しでも変わらず冷たく、均整のとれた抑揚だった。
扉を開け、静かに閉める。
そこには、いつも通りの完璧なスーツ姿。
銀縁の眼鏡と、カーテン越しの朝日が交差し、彼女の表情をより冷たく際立たせる。
小野理恵はファイルに目を落としたまま、徹を見もしなかった。
ただ、その場に満ちる空気には、彼女が“全てを掌握している”という圧力が、確かにあった。
徹は静かに、レポートを机の端に置いた。
そして、それだけではなかった。
——彼は、あのコンビニの紙カップコーヒーも、その隣に置いたのだ。
その瞬間、小野の指先が微かに止まった。
無言の時間が、一分。
ようやく視線を上げた彼女の眼鏡の奥に映ったのは、
疲れ切った男の顔と、置かれた紙コップ。
唇が微かに下がったのが、唯一の変化だった。
「レポートは、私が提示した時間と品質を満たしているのね?」
抑揚のないその問いに、徹はかすれた声で答える。
「……はい、課長」
だが彼女はレポートには手を伸ばさなかった。
代わりに、彼女は紙カップに手を伸ばし——
そのまま、手首を傾けた。
——ジャッ。
濃い液体が書類にぶちまけられる。
黒い染みが紙に広がり、にじみ、文字を溶かしていく。
「っ……!」
徹の体がこわばる。
そのレポートは、彼の命を削って作った結晶。
今、この一杯で——全てを、無にされた。
拳が震える。奥歯が鳴る。
目の前が霞むほどの怒気。
彼の怒りは、もはや限界に達しかけていた——その瞬間。
——ブゥン!ブゥン!
鳴り響く内線電話の音。
小野はほんの少し眉をひそめ、そして何事もなかったように受話器を取った。
「はい、第三営業課です。……部長?会議を前倒し?……20分後?承知しました。準備して向かいます」
——ガチャ。
電話が切れると、また静寂。
レポートの上に広がる染み。
テーブルに響く静かな水音。
徹の肩が、震えていた。
その視線を受けながら、小野理恵はふっと身を椅子に預けた。
冷ややかな目で徹を見つめると、唇をわずかに上げて、
それは笑みと呼ぶにはあまりにも冷酷で皮肉な表情だった。
「行動力はあるみたいね」
ゆっくりとした口調で言う。
「レポートは仕上げるし、コーヒーまで“ご馳走”してくれるなんて」
彼女の視線が鏡のように徹を映し、剥き出しの魂を見透かそうとする。
「——上杉君、昨日の夜……」
体を前に倒し、肘をつき、まるで猫が鼠の巣を覗くように。
「……コンビニ、なかなか見応えがあったわよ?」