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第6話 報告と代償

防火扉が背後で重く閉まった。

その瞬間、コンビニの騒乱と警笛の叫びが、世界から切り離された。


徹はひんやりとした壁にもたれ、ゆっくりと右手を開いた。

その掌には、きれいに畳まれた白いハンカチ。

角ににじんだ赤は、先ほどの格闘で擦り剥いた自分の血だった。

だが、それ以上に濃く鼻をくすぐるのは——

石鹸のような清潔な香りと、少女の涙の塩味が入り混じった気配。


白石凛。SSランク——


彼は目を閉じ、深く息を吐いた。

体内を駆け巡っていた戦闘の興奮は次第に冷め、代わりに、深く重い疲労と……どこか現実味のない滑稽さが広がっていく。


格闘スキルのバフはまるで引き潮のように消え去り、

一瞬の力強さのあとに残ったのは、ただの消耗と、圧倒的な虚脱感だった。


指先についた血を舌で拭い、彼はスマートフォンを取り出す。

画面の青白い光が、やや血の気の引いた彼の顔を照らし出す。


時刻は——午前5時15分。




リミットである10時まで、残された時間はわずか4時間45分。

迷っている暇はない。


徹は指を滑らせ、銀行アプリを開いた。

表示された残高は、見るのも辛い三桁の数字。


続いて、普段ほとんど使っていなかった電子決済アプリを開く。

息を吸い、設定画面へ進む。


《電子ウォレットとの紐付けを検出。

返金カード(小額/7日間)の利用を確認しますか? はい/いいえ》


脳内に響くシステムボイス。もはや幻聴に近いそれに、彼は微塵の迷いもなく「はい」をタップした。


バインド成功の緑の表示が一瞬光り、画面はすぐに元の無機質な数字へと戻った。


徹はそれを数秒見つめたのち、スマホをポケットにしまい、無言で通路の先へと歩き出す。


——東の空がうっすらと明るくなっていた。

新宿の町に、また新たな朝が訪れる。


地鳴りのような地下鉄の始発が動き出し、

徹は近くの24時間営業のネットカフェに滑り込むと、狭いブースに身を潜めた。


まだ体内に残っていた“活力増進”バフと冷めた缶コーヒーを頼りに、

彼はひたすらキーボードに向かい続けた。


——レポートを、もう一度。

論理構成から言い回しまで、徹底的に見直し、小野理恵の「好み」に合うよう、骨と肉を削って整え直す。


時刻は8時50分。


東洋電子株式会社・第三営業課。


徹はちょうど定刻にオフィスの扉をくぐった。

ヨレヨレのスーツ、血の気のない顔、そして濃すぎるほどのクマ。

だがその瞳の奥には、前夜の修羅場を経た者だけが持つ、何か硬質な光が宿っていた。


無言で目を向けてくる同僚たち。

そこには同情も羨望もない。ただ、どこか遠巻きの静観と、見えない嘲笑。


徹はそれらを一切見ず、一直線に課長室へ向かった。


手に持っているのは、返金カードで購入したばかりの、熱々のコンビニコーヒー。


ノック、2回。


「どうぞ」


その声は、壁越しでも変わらず冷たく、均整のとれた抑揚だった。


扉を開け、静かに閉める。


そこには、いつも通りの完璧なスーツ姿。

銀縁の眼鏡と、カーテン越しの朝日が交差し、彼女の表情をより冷たく際立たせる。


小野理恵はファイルに目を落としたまま、徹を見もしなかった。

ただ、その場に満ちる空気には、彼女が“全てを掌握している”という圧力が、確かにあった。


徹は静かに、レポートを机の端に置いた。

そして、それだけではなかった。


——彼は、あのコンビニの紙カップコーヒーも、その隣に置いたのだ。


その瞬間、小野の指先が微かに止まった。


無言の時間が、一分。


ようやく視線を上げた彼女の眼鏡の奥に映ったのは、

疲れ切った男の顔と、置かれた紙コップ。


唇が微かに下がったのが、唯一の変化だった。


「レポートは、私が提示した時間と品質を満たしているのね?」


抑揚のないその問いに、徹はかすれた声で答える。


「……はい、課長」


だが彼女はレポートには手を伸ばさなかった。


代わりに、彼女は紙カップに手を伸ばし——


そのまま、手首を傾けた。


——ジャッ。


濃い液体が書類にぶちまけられる。


黒い染みが紙に広がり、にじみ、文字を溶かしていく。


「っ……!」


徹の体がこわばる。

そのレポートは、彼の命を削って作った結晶。

今、この一杯で——全てを、無にされた。


拳が震える。奥歯が鳴る。


目の前が霞むほどの怒気。

彼の怒りは、もはや限界に達しかけていた——その瞬間。


——ブゥン!ブゥン!


鳴り響く内線電話の音。

小野はほんの少し眉をひそめ、そして何事もなかったように受話器を取った。


「はい、第三営業課です。……部長?会議を前倒し?……20分後?承知しました。準備して向かいます」


——ガチャ。


電話が切れると、また静寂。


レポートの上に広がる染み。

テーブルに響く静かな水音。

徹の肩が、震えていた。


その視線を受けながら、小野理恵はふっと身を椅子に預けた。


冷ややかな目で徹を見つめると、唇をわずかに上げて、

それは笑みと呼ぶにはあまりにも冷酷で皮肉な表情だった。


「行動力はあるみたいね」


ゆっくりとした口調で言う。


「レポートは仕上げるし、コーヒーまで“ご馳走”してくれるなんて」


彼女の視線が鏡のように徹を映し、剥き出しの魂を見透かそうとする。


「——上杉君、昨日の夜……」


体を前に倒し、肘をつき、まるで猫が鼠の巣を覗くように。


「……コンビニ、なかなか見応えがあったわよ?」

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