小野理惠の尾を引く声が、まるで猫がじゃれるように空気をなぞった。
それと同時に彼女の上体がふわりと前に傾く——
スーツの襟元がわずかに開き、
昨日、地下通路で一瞬垣間見たあの光景が、今度は朝の静けさの中で、よりはっきりと彼の網膜に焼きついた。
鎖骨の下にのぞく繊細なレースの縁取り。
シルクシャツの滑らかな生地が、彼女の呼吸と共に光を受けて微かに揺れる。
まるでその緊張感すら布地に伝わるような圧迫感。
彼女の目は、鋭く、それでいてどこか愉しげに徹の表情を読み取っていた。
まるで、獲物が次にどう動くのかを、余裕たっぷりに見守る猛禽類のように——。
張り詰めた空気の中、徹の耳の奥で、自分の心拍がドクン、ドクンと鳴り響いていた。
怒りか?
羞恥か?
秘密を暴かれたような敗北感か?
それとも——この目の前にいる女上司の、冷たいのにどこか艶めいた視線に、理性を削られる感覚か?
その刹那——
「ピン!」
耳の奥、いや、意識の中に、澄んだ金属音が突き刺さった!
《観察力、潜在的危機によって刺激され上昇中……
Aランク対象・小野理恵の“注目点”に変化を検知!判定:潜在的評価!》
《好感度ポイント:+10点! 現在35点
《累計好感度点数:115点(前日145−格闘精通30)》
《特典抽選権獲得:無料スキル抽選ルーレット、今すぐ使用可能。ポイント消費:0》
一連の通知が怒涛のように徹の脳を駆け巡る!
——何が“評価”?
——こんな状況で!?
思考は混乱しているはずなのに、システムの介入で不思議と視界が冴え渡っていく。
抽選? 無料? 今しかねえ!
思考がその一点に集中した瞬間、
彼の視界は揺らぎ、無数の光の粒が渦を巻くように回転を始める。
【ピン!】無料抽選完了——獲得スキル:【ヴァイオリン演奏(マスター級/3日間)】
……は?
脳に直接流れ込むように、
徹の指先に、腱に、肩に、記憶が上書きされる。
フィンガリング、ボウイング、ヴィブラート……
ベートーヴェン、メンデルスゾーン、パガニーニ……
譜面が頭の中で流れ、音が響き、筋肉がそれを“再現できる”と知っている。
徹の瞳孔がキュッと縮んだ。
「このタイミングでヴァイオリン……?!」
だが突っ込む暇もない。
目の前には、いまだに“視線の圧”をぶつけてくる上司。
彼は、手に残る震えと共に、あの場の“正解”を探そうとした。
ぎこちなく、彼の手が動く。
……コーヒーでもレポートでもない。
彼が手を伸ばしたのは、彼女の前に広げられていた“別の案件ファイル”。
「課長。……こちらのファイル……です」
声はかすれ、ぎこちなく、そして必死に抑え込まれていた。
その瞬間——
彼の指先が、彼女の手の甲に——触れた。
滑らかなネイルコートの冷たさ。
その下の肌の温もり。
思わず電気が走ったように、彼の手がビクリと跳ねる。
小野理恵の手も、微かにピクリと動いた。
それはたった一瞬の、予期せぬ接触だった。
まるで、その瞬間だけ張り詰めた糸が緩んだかのように——
あの張り詰めた“支配”の空気が、わずかに揺れた。
彼女の視線が手の甲へと落ち、
そこに残る“触れられた感覚”を確かめるように一瞬だけ止まる。
そして、再び目を上げた彼女の眼差しは、
もはや単なる支配者のものではなかった。
そこには、“評価者”としての冷静さと、
ほんの僅かな、“予想外の変化”に対する興味が混ざっていた。
彼女はゆっくりと身を引き、椅子に深く座り直した。
視線はテーブルの上のコーヒーの染みと、乱れたレポートへ。
「……レポート、もう一度書き直して。十時半までに提出して」
その声は再び業務的で、冷たい。
「今は——出て行って」
その命令に、徹は黙って頷く。
視線を彼女から外し、深く、ぎこちなく頭を下げ、
扉へ向かう。
手がドアノブに触れ、扉が少し開いた——その時。
「ピン」
再び静かに響く、脳内ボイス。
《小野理恵 好感度ポイント:+1》
《現在値:36点》
徹は扉の外へと足を踏み出した。
背中に残る、あの女上司の視線を感じながら——
肩越しに響く“沈黙の評価”を、確かに受け止めていた。