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第8話 借金、返済、そして新たなる呼び声

徹は金属の冷たい壁にもたれ、浅く息を整えていた。

その脳内では、なぜかパガニーニの「カプリース第24番」が勝手に流れていた。

昨日引き当てた“マスター級バイオリン演奏”のスキルが、現実の焦燥と乖離した優雅な旋律として響いてくる。


——うるさい。


彼は頭を振った。

だが、脳裏にこびりついた音符の残骸は、まるで指先にまとわりつく蜘蛛の糸のように、振っても振っても離れなかった。


「……上杉?」


静かな、それでいて少し探るような声が近くからかけられた。


——木村だ。


徹が顔を向けると、そこには絶妙なバランスの同情と興味を浮かべた木村の顔。

その目の奥には、はっきりと「何か面白いことでも起きたのか?」という色が浮かんでいた。


「課長……また怒ってたのか? あのレポートの件でさ」


木村は声を落としながらも、距離を詰めてきた。

さらに続ける。


「でもさ、ちょっと耳寄りな話。10時半に予定されてたクライアント訪問、キャンセルになったらしいぞ」


——キャンセル?


徹の眉がわずかに動く。

それは彼の予定にはなかった変数。


「どうも佐藤の車の手配にトラブルがあって、急遽中止になったってさ」

木村は肩をすくめながら説明を濁し、その表情を急に明るく切り替えた。


「でも、もっと大事な話がある! 聞いたか? 今日の夜、特別な接待があるんだって!」


——接待?


徹の神経が一気に警戒モードに入る。

今この状態で、さらなる“お呼び”があるのか?


「高島社長、あの“スマイルタイガー”の直々のご指名らしいよ!

新しい戦略パートナーを迎えるとかなんとかで、三課の主力メンバーが名指しで招待されてるらしい」


木村は指を折りながら名前を数えていく。


「君と、俺と、小林……もちろん課長も参加するんだろうな。場所は銀座の『渓月庵』。19時きっかり。社内便で招待状も来てたぜ。絶対に遅刻厳禁らしい」


徹の心臓が一瞬止まりそうになる。

高島社長——

それはただの“チャンス”ではない。

判断を誤れば“処刑場”にもなり得る。


木村はその後も、「正装で」「靴は磨いて」「髪型も整えて」などと饒舌に語っていたが、

徹の冷たい視線がそれを遮ると、途端に口数を減らし、手持ち無沙汰にオフィスの方向を指差してそそくさと退散していった。


「と、とにかく……課長が十時半って言ってたから、急いだ方が……な?」


徹は無言のまま、自席に戻った。

そこはまるで戦場の残骸のようだった。


PCを立ち上げると、暗い液晶が彼の色のない顔を照らす。

バフは切れている。

集中力は底をつき、目の前の文字すら歪んで見える。


それでも、やるしかない。


紙の束をかき分け、データを拾い、再構成しようとするが——

効率は目を覆うばかりだった。


時間は無情に過ぎていく。


9時40分。

9時50分。

10時05分——


ピピピピッ!


耳をつんざくアラーム音が突然炸裂した!


徹は驚いてスマホを慌てて止める。

それは彼自身が“借金返済”のリマインダーとしてセットしていた10時10分の通知だった。


「【都銀】返済のお知らせ:上杉徹様、今月の返済額¥158,342。本日15:00までにご準備を……」


残された猶予は、わずか数時間。


報告書、借金、接待——

三つの圧力が、徹の肩に一気にのしかかる。


彼は目を閉じ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握る。


——限界だ。


しかし——


一筋の光が、闇の中でちらついた。


返金カード。


その存在を思い出した彼は、反射的にスマホを取り出し、震える手でアプリを開いた。


PayWave。

電子決済ソフト。


仮想カードを申請し、返金カードを紐付け、

最短で信用枠を引き出すルートを全速力で突き進む!


顔認証。ID認証。

確認……バインド……


——通った!


【PayWave:利用可能枠¥100,000/返金カード有効(7日間・日上限¥10,000)】


即座に最大限のキャッシング申請!

金額:¥85,000——送金中。


【貸付成功:PayWave残高に入金完了】


その直後、彼は全額158,342円を一括で都銀の返済口座へ送金!


【返済処理中・銀行確認待ち】

【返金適用:¥7,917返金済(上限制限による)】


——時間を買った。

正確には、血で買った数時間だった。


その刹那——


カツ、カツ、カツ……


高く響くヒールの音が、廊下の奥から規則正しく近づいてくる。

静まり返ったオフィスフロアの空気に、またしても“彼女”の気配が——

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