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第9話 指名

徹は顔を上げた。

鋭く。


目の前には、あの女——小野理恵が無言で立っていた。

灰色のタイトスーツが彼女の凛とした姿勢を引き立て、銀縁メガネにオフィスの蛍光灯が反射して、表情を読み取ることができない。


彼女の視線は、徹の手元にあるスマートフォンに注がれていた。

ちょうど、PayWaveのロゴが青く光るその画面。


——見られた。


徹の心臓が一瞬で凍りつく。

指先が思わずロックボタンに伸びるが、間に合わない。


彼女は静かにその視線をスマホから徹の顔へと移した。

興奮、緊張、そして絶望が混ざった複雑な表情を、氷のような目で貫く。


その唇が——

かすかに、上がった気がした。


嗤うような、見透かすような、限りなく薄い、しかし絶対に優しさではないその弧。


空気が凝結する。

喉が詰まるような重さ。


そして——


「十時半だ。レポートは?」


淡々と、しかし切り捨てるように冷たい声が落とされた。


その瞬間——


「小野課長っ!」


慌ただしく駆け寄ってきたのは、ポニーテールの社内庶務の若い女性だった。

息を切らしながら、彼女は急ぎの報告を口にする。


「すみません、ただいま社長室から連絡がありまして……! 今夜の『渓月庵』の会食なんですが、参加者全員に“特技”の披露が求められるそうです!」

「若手の活力を見せろ、とのことです!」


「……特技!?」


隣の木村が思わず声を上げ、顔色が真っ青になる。


「お、俺、コーディングしかできねぇぞ……」


その時だった。


小野理恵の視線が再び徹へと向けられた。

血走った目、腫れた関節、まるで限界寸前の彼を、容赦なく見据える。


彼女の唇が再び開く。


「上杉君——」


その口調は相変わらず無表情だったが、目線は彼の右手へとしっかり注がれていた。


「……学生時代、バイオリンを少し弾いていたそうね?」


——脳が空転した。


誰にも言ってない。履歴書にも書いてない。

“弾けた”ですらない、ただ“弾いたことがある”レベルの記憶。


なぜ……?


彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただこう続けた。


「今夜、準備しておいて。披露するのよ」


まるでそれが、当然の業務命令かのように。


——ピン。


冷たい電子音が脳内で炸裂する!


【緊急ミッション発生】

【任務名:《窮地の演奏》——渓月庵の会食でバイオリンを披露し、場を震撼させよ】

【難易度:★★★★★(極高)】

【成功報酬:好感度ポイント+30、特別報酬(???)】

【失敗ペナルティ:好感度−20、連鎖的デバフ発動(強制債務徴収、役職危機など)】


徹の喉が引き締まり、全身の筋肉がビクリと痙攣する。


——逃げ場はない。


数秒の沈黙の後、彼は深く目を閉じ、

再び開いたその眼差しには、ひとつの決意が宿っていた。


死ぬ気でやるしかない。

それ以外、何も残されていない。


乾いた声で、しかし明確に。


「了解しました、課長」


「——今夜は、《悪魔のトリル》を弾きます」

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