徹は顔を上げた。
鋭く。
目の前には、あの女——小野理恵が無言で立っていた。
灰色のタイトスーツが彼女の凛とした姿勢を引き立て、銀縁メガネにオフィスの蛍光灯が反射して、表情を読み取ることができない。
彼女の視線は、徹の手元にあるスマートフォンに注がれていた。
ちょうど、PayWaveのロゴが青く光るその画面。
——見られた。
徹の心臓が一瞬で凍りつく。
指先が思わずロックボタンに伸びるが、間に合わない。
彼女は静かにその視線をスマホから徹の顔へと移した。
興奮、緊張、そして絶望が混ざった複雑な表情を、氷のような目で貫く。
その唇が——
かすかに、上がった気がした。
嗤うような、見透かすような、限りなく薄い、しかし絶対に優しさではないその弧。
空気が凝結する。
喉が詰まるような重さ。
そして——
「十時半だ。レポートは?」
淡々と、しかし切り捨てるように冷たい声が落とされた。
その瞬間——
「小野課長っ!」
慌ただしく駆け寄ってきたのは、ポニーテールの社内庶務の若い女性だった。
息を切らしながら、彼女は急ぎの報告を口にする。
「すみません、ただいま社長室から連絡がありまして……! 今夜の『渓月庵』の会食なんですが、参加者全員に“特技”の披露が求められるそうです!」
「若手の活力を見せろ、とのことです!」
「……特技!?」
隣の木村が思わず声を上げ、顔色が真っ青になる。
「お、俺、コーディングしかできねぇぞ……」
その時だった。
小野理恵の視線が再び徹へと向けられた。
血走った目、腫れた関節、まるで限界寸前の彼を、容赦なく見据える。
彼女の唇が再び開く。
「上杉君——」
その口調は相変わらず無表情だったが、目線は彼の右手へとしっかり注がれていた。
「……学生時代、バイオリンを少し弾いていたそうね?」
——脳が空転した。
誰にも言ってない。履歴書にも書いてない。
“弾けた”ですらない、ただ“弾いたことがある”レベルの記憶。
なぜ……?
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただこう続けた。
「今夜、準備しておいて。披露するのよ」
まるでそれが、当然の業務命令かのように。
——ピン。
冷たい電子音が脳内で炸裂する!
【緊急ミッション発生】
【任務名:《窮地の演奏》——渓月庵の会食でバイオリンを披露し、場を震撼させよ】
【難易度:★★★★★(極高)】
【成功報酬:好感度ポイント+30、特別報酬(???)】
【失敗ペナルティ:好感度−20、連鎖的デバフ発動(強制債務徴収、役職危機など)】
徹の喉が引き締まり、全身の筋肉がビクリと痙攣する。
——逃げ場はない。
数秒の沈黙の後、彼は深く目を閉じ、
再び開いたその眼差しには、ひとつの決意が宿っていた。
死ぬ気でやるしかない。
それ以外、何も残されていない。
乾いた声で、しかし明確に。
「了解しました、課長」
「——今夜は、《悪魔のトリル》を弾きます」