夕方、18時20分——箱根湯本、「翠嵐」温泉旅館。
「うぷっ……あぁ!木村先輩、スピード落としてぇ!」
社用の7人乗りバンが、酔っ払ったムカデのように箱根の曲がりくねった山道をうねりながら突き進んでいた。
ハンドルを握る木村の顔色は、窓の外の鉛色の曇天よりもさらに暗く、険しい。
道は狭く、カーブは急。夕暮れに立ち込めた霧が視界を奪い、ハンドルを切るたびに車内には抑えきれない悲鳴と罵声が響いた。
徹は滑りそうなドアのすぐ脇に体を押し付け、膝に抱えた古びたバイオリンケースの角が肋骨に食い込む。
顔は青ざめ、過労に削られた身体は、まるで水分を絞り尽くされたスポンジのようだ。
昨夜のコンビニでの乱闘、そして今朝の死に物狂いの奔走——そのツケがいま一気に襲いかかってきていた。
さらに悪いことに——
システムから与えられた「バイオリン・マスタークラス」の能力が、徹の感覚を侵食していた。
木村が再び急カーブを切ったそのとき、タイヤの軋む音と風の唸りが、徹の脳内では狂気的なパガニーニの旋律へと変貌する。
低音域のエンジン音は怒号となり、風の叫びはE線の悲鳴に。指は空中で無意識に音階をなぞろうと震える。
【警告:宿主の精神および肉体が限界に接近!「マスター級演奏」モジュールとの拒絶反応を検知。早急なエネルギー補給を推奨】
——冷酷な電子音が徹の頭蓋内に叩き込まれる。
舌先を強く噛んだ。激痛が幻聴を吹き飛ばす。
空腹が腹を焼き、昨夜から一滴も口にしていない。
徹はバイオリンケースを胸に押しつけ、唯一の賭け札を守るように力を込めた。
「着いたぞ!着いたからな!」
木村の声が震えていた。車は、さらに険しい分岐の坂道でようやく停まった。
前方には、ぼんやりと和風の巨大な門の輪郭。濃霧に包まれ、石灯籠の明かりがほのかに灯る。
門柱に刻まれた二文字——「翠嵐」。
「社からはここまでしか車出せないってさ!」
木村が焦りながらシートベルトを外す。「この先は旅館の内部道!迎えのカートが来る!」
徹は最後に車を降りる。
ここは——一般人の来る場所じゃない。
湿った空気に混じる硫黄と高級な酒、料理の香り。
遠く庭園の奥からは、人工の小川のせせらぎ、竹筒が石を打つ音。
細部のすべてが、「格」と「金」の差を突きつけてくる。
木村たち三人は、黒い和服姿の従者に導かれ、電動カートに乗って霧の奥へと消えていった。
残された徹は別の従者に導かれ、ひとり乗りの小型カートへ向かう。
濡れた石畳を避けて足元に目を落とした、その瞬間——
ぶおおおおおおおおおおおっ!!!
濃霧を貫く轟音!
異様に強い突風とともに、白い光が霧を切り裂いた!
——黒い巨大なSUVが、まるで鋼鉄の猛獣のごとく現れたのだ!
警告もなく、前触れもなく、ヘッドライトの光芒が徹を焼き尽くす。
濁流を蹴り上げ、タイヤが路面を裂くように迫ってくる!
思考停止。
引き裂かれるような無窮動の旋律が、脳内に怒鳴り込む!
「危ないっ!」
従者がようやく叫んだその瞬間。
徹の身体は、かすかに残っていた格闘経験の反射で先に動いた——!
横へ飛ぶ!
滑る石畳、濡れた衣服、痛む身体!
——ガリッ!!
タイヤがバイオリンケースの端を掠め、嫌な音を響かせた。
ケースは放り投げられ、道路脇の泥水へ。
そして。
黒い車がぎりぎりで止まり、ドアが開いた。
冷たい地面に伏した徹の耳元で、ドアの開く音が重く響く。
水たまりの泥に顔を突っ込み、膝と肘は血を滲ませている。
痛みに霞む視界のなか、彼の目に映ったのは——
一対の、信じられないほど美しい裸足だった。
白磁のような肌、滑らかな足の甲を水滴が這い、五本の指はまるで工芸品のように整っていた。
たった足だけで、清らかで傲然とした美を物語っていた。
徹は呼吸を止める。
ゆっくりと顔を上げる——
霧の中に浮かぶ墨緑の絹の浴衣、滑らかな脚線美、完璧に括られた細腰、
ふくよかに張る胸元と、わずかに覗く、雪のように白く柔らかな肌——
そして——
彼の視線が、ついにその顔にたどり着く。
冷白の肌、淡い桜色の唇。
瞳は冷たく澄んだ琥珀色。感情を欠いた水晶のような目。
その顔は、山霧に包まれた仙女のような、完璧な非現実。
そしてその唇が、微動だにせず、冷たく一言だけ放った。
「……豚。」
——時間が止まった。