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第11話 魔の序章

その声は大きくなかった。だが、氷の針が砕け散るような、凍てつく軽蔑が確かに込められていた。


怒りも叱責もない。ただ、そこにあるのは、彼女の目には疑う余地のない「汚れた事実」を告げる冷ややかな言葉だけだった。


瞬間、屈辱が灼熱の溶岩のように脊髄から脳天を駆け抜け、徹の全身に残っていた痛みも無力感も一気に燃え尽きた。

濡れた石畳に、彼の指が深く食い込む。


そして、脳内の冷酷なシステム音がターゲットをロックオンした。


【超高エネルギー体を検出!緊急スキャン開始……完了!ランク:SSS級!対象:神宮寺財閥 正式後継者・神宮寺千雪(30歳)。初期好感度ポイント:−10(極度な敵対判定)。危険度:極高。宿主には最小限の接触を推奨】


——マイナス10点。SSS級。神宮寺……!


徹の心臓が一気に冷え込む。この女が、高島社長が今夜「特別に接待」すると言っていた重要戦略パートナー……?


そして、そんな彼女の目の前で、自分は最悪の茶番を演じてしまったのか。


一線を越えれば、天国と地獄など簡単に反転する。


千雪の視線は徹の身体にほんの数秒留まり、まるで道端の泥のように冷淡に通り過ぎた。


「内庭に伝えて、『白鹿』は止めて。別の車を呼んで。」


それだけを呟くと、彼女は振り返ることなく、霧の奥へと消えていく。

足元に濡れた石畳、浴衣の裾が静かに揺れ、その細く強い足首が灯りに一瞬だけ浮かび上がり、再び濃霧に飲まれた。


屈辱の炎が徹の血管を駆け巡る。脳裏に刻まれたSSSの烙印と、-10の絶望的な好感度ポイントが、神経を灼くように焼き付く。


その瞬間。

彼の脳内にこびりついていた《無窮動》の旋律が、屈辱に突き動かされて暴走を始める。


それはもはや幻聴ではなかった。音が怒りに変わり、音符が復讐の焰と化した。

抑圧されていた「排斥反応」は、狂気に近い怒りによって強引に押し戻された。


バキッ…!

徹の指の関節が悲鳴を上げた。


迎えのカートがやってきた。侍者が泥にまみれたバイオリンケースを差し出す。

徹はそれを掴み、ズキズキと痛む指の感覚も気にせず、黙ってカートに乗り込む。


行き先:宴会場。

目的:神宮寺千雪。


旅館の中は明るく華やかだった。

徹は宴会場隣の待機部屋に通され、そこで「用意された正装」に着替えるよう促される。


だがそれは、漂白剤と防虫剤の臭いが染み付いた、ガサガサで硬い白シャツに、サイズの合っていない黒の化繊スラックス——どう見ても見下された「貸し物」だった。


ろくに食事も取らず、極限状態にある彼の体はすでに限界だった。背中は汗で濡れ、脳は警告を鳴らし続けている。


ついに、襖が開く。


先ほど千雪を出迎えていた中年の和服の従者が無言で入ってきて、徹とその傍らの破れたケースを一瞥し、機械のように淡々と言った。


「上杉徹様。小野課長および高島社長のご指示により、才能披露の時間です。ご案内いたします。」


徹は深く息を吸い、破れたバイオリンケースを胸に抱え、まるで処刑台に向かう囚人のように、静かに立ち上がる。


煌びやかな宴会場——

金の照明、豪華なテーブル、高級料理と酒の香り、そしてブランドの香水の香り。

全てが、自分とは無縁の世界だと見せつける。


泥の付いたケース、安物の衣装、ボロボロの傷だらけの体。

注がれる視線は嘲笑、驚愕、侮蔑、そして無関心。

低いざわめきが、徹の足元を虫のように這いまわる。


だが、彼の目は誰とも合わなかった。

ただ、まっすぐ——あの空いたスペースへと向かった。


そこは、舞台でもなければ歓迎される壇上でもない。

それは、裁きを受ける台座だった。


彼はそこで立ち止まり、ケースを置き、ゆっくりと蓋を開ける。

中には、くすんだ色合いの、小さくて安物のバイオリン——

しかも、先ほどの衝撃でネック部分にひびが入っていた。


指には、ボロ布を巻きつけた応急処置。赤く腫れた傷口が痛々しい。

彼は、その傷だらけの楽器を、そっと、だが確かに、持ち上げた。


その動きは、美しくも優雅でもなかった。

ただ、必死で、それだけだった。


観客のざわめきが、さらに大きくなった。


角の席で木村が顔を覆い、うつむいた。


そして——


彼の目が、その「舞台」の向こうにいるただ一人を捉えた。


——神宮寺千雪。


あの墨緑の浴衣は脱ぎ、今は黒のスーツスタイル。

鋭利なプラチナの鷹のブローチが胸元に光る。

その琥珀色の瞳が、無言で彼を見つめていた。


感情はない。

興味もない。

あるのは、ただ——「観察」。


まるで顕微鏡の下に置かれた標本を見るように。

彼の傷だらけの指も、破れた楽器も、荒れ果てた姿さえも、

その瞳は一つ一つ、静かに、冷たくスキャンしていた。


徹の中で何かが壊れた。


それは羞恥でも、怒りでもなく——


——最も深い、最も原初的な「冒涜された魂の慟哭」。


その眼差しは、彼を道具として測り、解体し、無価値と断じたのだ。


「……お見苦しいものですが……」


嗄れた声で、徹は呟く。


彼の目が燃え上がった。


まるで焼け落ちる寸前の命が放つ、最期の炎。


彼は、誰も見なかった。


小野課長も。高島社長も。


彼の目はただ、たった一人を——


神宮寺千雪を、焼き尽くすように見つめていた。


そして。


彼の指が、楽器のネックを強く握り締めた。


傷の上から滲む血が、指の隙間からにじみ出る。


その瞬間——


脳内で封じられていた「マスター級演奏」モジュールが、

凄絶な怒りと絶望の献祭を受け——


ついに、目を覚ました。


魂を削り、命を燃やし、

彼の存在そのものを「音」に変える——


それは、魔の楽章。


《悪魔のトリル》——

始まる。

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