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第12話 魂を焼く断末魔

徹の声が、虚飾に満ちた宴会場の静けさを引き裂いた。


その瞬間、彼は動いた。

右手の弓が振り上がる。

その動きは、優雅とは程遠く、まるで街角の喧嘩に放たれた一撃のように粗暴で、野蛮だった。


五本の指が激しく琴のネックを握り締める。

左手の指――蒼白で細く、骨張った指が、痙攣するように宙に浮き、汚れた弦のわずか数ミリ手前で停止する。


ぶぅぅ……

予想していた華麗な旋律はどこにもなかった。


弓が弦に触れた瞬間、潰されかけたその安物のヴァイオリンから漏れたのは、まるで瀕死の獣のうめきのような、掠れて濁った雑音だった。


ネックに走るひびがまるで息を吹き返したかのように、骨の圧力に耐えかねてきしみを上げる。


音は乾ききり、耳障りで、音程も狂っていた。

ひしゃげた音符たちが命を絞り出すように逃げ出すが、美しさのかけらもない。


「ぷっ……」

誰かがついに吹き出した。

その笑いは毒蛇の舌のように、静寂のなかでひときわ鋭く耳をつんざく。


続けざまに、冷笑と囁きがうねるように広がっていく。

視線が次々に徹の体へと突き刺さる――

侮蔑、嘲笑、哀れみ……!


高島社長の丸い顔から笑みが凍りつき、見る間に不機嫌な陰りが広がっていく。

小野理恵の眼鏡は光を弾き、その眼差しは読み取れない。ただ、膝の上に置いた手が無意識に強く握り締められていた。


だが、唯一、静けさと冷気が崩れなかった場所がある。

主賓席の中央――


神宮寺千雪。

その琥珀の瞳に、微動もない。

耳障りな音が放たれても、彼女の睫毛ひとつ動かなかった。


徹の体は、激しく震えていた。

それは恐怖ではない。

身体と精神が限界を超えようとする前触れだった。


脳内で準備していたすべての音符、技術、表現――

すべてがその雑音と、観客の嘲笑の海に粉砕されていった。


絶望か? 屈辱か? 失敗か?


違う――!


ぶぅぅぅぅう―――!!!


魂の奥底から、何かが這い出た。


くたばれシステム! くたばれ「マスター級」! くたばれ全てのルール!


――爆発しろ!!!!


徹は歯を食いしばり、舌先を上顎に強く押し当てる。

誰にも聞こえない、地獄の底からの咆哮。


その瞬間、大量の神経情報が、理性ではなく、魂の怒りと屈辱によって強引に上書きされた。


パァン!


右手がネックを押しつけ、血の滲む指腹が冷たい弦を叩き潰す。


左手の四本の指――人差し指、中指、薬指、小指が、狂気の精度で走り出す。

鋼の弦を、まるで獲物を打ち据えるように、空気を裂いて落ちる!


ビィィィン!!!


突如として炸裂した、耳を貫くほど鋭く、金属的な音の波。

もはや「奏でる」ではない、「叩きつける」だ!


ぶおぉぉぉぉん!!


魂をえぐるような咆哮が会場に轟いた。


――パガニーニ《悪魔のトリル》、ニ短調。

狂気の幕開け。

G弦上、魂が裂ける開幕!


ドガァァァァァン!!


弓毛が鋼弦に爆ぜ、音雷のように響く。


それは、もはや音楽ではなかった。

怒り、屈辱、絶望を凝縮した、命を燃やす叫び――金属の咆哮!


波動となった音が、豪奢な屏風を打ちつけ、残響を撒き散らす。


先ほどまで笑っていた者たちが、その一撃で凍りついた。


あまりにも速い。

優雅など皆無。これは――殺意。演奏ではない、告発だ!


徹の右腕はミキサーのように旋回し、

弓と弦が擦れるたびに震える唸りが走り、

ボロ琴のネックは今にも崩れ落ちそうなほどひび割れを深める。


そして左手――A弦上の悪魔の二重奏!

指が霞となり、幻のように震える。


布テープは音に削られ、ついに破れ、

血が滲み、鋼の弦を真っ赤に染めていく。


擦過音ひとつひとつが、血まみれの鉤爪で掻きむしるよう。

指関節はバキバキと音を立て、常識の限界を越えた運動を繰り返す。


ヴゥゥゥゥン――!!!


唸り、痙攣、吠え、嗚咽。

技巧が、暴力によって暴走する。

旋律が、怒りにねじ曲げられる。


だが――

それこそが、パガニーニ。

地獄の魔王が愛した、狂気の音だ!


欠陥だらけで、常識破りで、けれど圧倒的な破壊力。

その音は、観る者すべての神経を焼いた。


嘲笑は消えた。静寂。

会場中の者が喉を掴まれたように黙り込む。


男の右手は血に染まり、

左手の指が音速で揺れるたび、木片が舞い、血が飛び散った。


高島社長の口は呆然と開き、思わず椅子の背に身を引く。

小野理恵の指先が、机の下で拳に変わり、爪が掌に深く食い込む。


そして、主賓席。


神宮寺千雪。

あの氷のような瞳が――揺れた。


《ピン!》

【高強度の精神共鳴を検出。対象「神宮寺千雪」、情動防御層に微小な変動を確認(振幅0.01%)。好感度ポイント:−1】

【共鳴振幅上昇中。振幅0.1%。好感度ポイント:−3】

【中枢命令ロジックの自己診断モジュールが共鳴波長に反応。異常活性因子を検出。好感度ポイントが急激に変動:−5 → +10】

【警告:心理防壁の自動防御機構が起動。共鳴抑制中……好感度ポイント:−2】

【対象の意志曲線が閾値を突破。魂の共振判定成立。SSS級特殊共鳴イベント発動——『魂の吹雪下にて、溶岩の裂谷』】

【好感度ポイント最終補正:+45(現在の累計:+35)!−10から+35へとジャンプアップ!SSS級潜在エネルギーを消費、階層突破報酬を獲得!】



――ドオォォォォン!!!


提示音が脳内で響き切ると同時に、

徹は最後の力を振り絞って、E弦に弓を打ちつけた!


弓は裂け、血をまとった指が弦を抉るように絞り上げた――


ヴワァァァァァン!!!!!!!!


最期の――魂を引き裂く、終末のトリル。


それは、死にゆく龍が天に向かって吠えた一撃。


――沈黙。


次の瞬間。


パキンッ。


手の中の弓が、折れた。


徹の体から、すべての力が抜け落ちる。


目の前が、真っ暗になった。


――ドサッ!


彼は、血にまみれたボロ琴を抱えたまま、正面に倒れ込んだ。


その響きが、金色の会場にいつまでも尾を引いて残った。


「……救急を呼んで!!」


誰かの悲鳴とともに、宴会場が騒然となる。


そして、主賓席。


神宮寺千雪。


あの冷徹な氷の瞳が――

あの瞬間だけ、ほんの僅かに震えた。


指先が痙攣し、完璧に整えられたネイルが掌に突き刺さる。

白く浮かび上がった月形の痕が、その衝撃を物語っていた。

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