徹の声が、虚飾に満ちた宴会場の静けさを引き裂いた。
その瞬間、彼は動いた。
右手の弓が振り上がる。
その動きは、優雅とは程遠く、まるで街角の喧嘩に放たれた一撃のように粗暴で、野蛮だった。
五本の指が激しく琴のネックを握り締める。
左手の指――蒼白で細く、骨張った指が、痙攣するように宙に浮き、汚れた弦のわずか数ミリ手前で停止する。
ぶぅぅ……
予想していた華麗な旋律はどこにもなかった。
弓が弦に触れた瞬間、潰されかけたその安物のヴァイオリンから漏れたのは、まるで瀕死の獣のうめきのような、掠れて濁った雑音だった。
ネックに走るひびがまるで息を吹き返したかのように、骨の圧力に耐えかねてきしみを上げる。
音は乾ききり、耳障りで、音程も狂っていた。
ひしゃげた音符たちが命を絞り出すように逃げ出すが、美しさのかけらもない。
「ぷっ……」
誰かがついに吹き出した。
その笑いは毒蛇の舌のように、静寂のなかでひときわ鋭く耳をつんざく。
続けざまに、冷笑と囁きがうねるように広がっていく。
視線が次々に徹の体へと突き刺さる――
侮蔑、嘲笑、哀れみ……!
高島社長の丸い顔から笑みが凍りつき、見る間に不機嫌な陰りが広がっていく。
小野理恵の眼鏡は光を弾き、その眼差しは読み取れない。ただ、膝の上に置いた手が無意識に強く握り締められていた。
だが、唯一、静けさと冷気が崩れなかった場所がある。
主賓席の中央――
神宮寺千雪。
その琥珀の瞳に、微動もない。
耳障りな音が放たれても、彼女の睫毛ひとつ動かなかった。
徹の体は、激しく震えていた。
それは恐怖ではない。
身体と精神が限界を超えようとする前触れだった。
脳内で準備していたすべての音符、技術、表現――
すべてがその雑音と、観客の嘲笑の海に粉砕されていった。
絶望か? 屈辱か? 失敗か?
違う――!
ぶぅぅぅぅう―――!!!
魂の奥底から、何かが這い出た。
くたばれシステム! くたばれ「マスター級」! くたばれ全てのルール!
――爆発しろ!!!!
徹は歯を食いしばり、舌先を上顎に強く押し当てる。
誰にも聞こえない、地獄の底からの咆哮。
その瞬間、大量の神経情報が、理性ではなく、魂の怒りと屈辱によって強引に上書きされた。
パァン!
右手がネックを押しつけ、血の滲む指腹が冷たい弦を叩き潰す。
左手の四本の指――人差し指、中指、薬指、小指が、狂気の精度で走り出す。
鋼の弦を、まるで獲物を打ち据えるように、空気を裂いて落ちる!
ビィィィン!!!
突如として炸裂した、耳を貫くほど鋭く、金属的な音の波。
もはや「奏でる」ではない、「叩きつける」だ!
ぶおぉぉぉぉん!!
魂をえぐるような咆哮が会場に轟いた。
――パガニーニ《悪魔のトリル》、ニ短調。
狂気の幕開け。
G弦上、魂が裂ける開幕!
ドガァァァァァン!!
弓毛が鋼弦に爆ぜ、音雷のように響く。
それは、もはや音楽ではなかった。
怒り、屈辱、絶望を凝縮した、命を燃やす叫び――金属の咆哮!
波動となった音が、豪奢な屏風を打ちつけ、残響を撒き散らす。
先ほどまで笑っていた者たちが、その一撃で凍りついた。
あまりにも速い。
優雅など皆無。これは――殺意。演奏ではない、告発だ!
徹の右腕はミキサーのように旋回し、
弓と弦が擦れるたびに震える唸りが走り、
ボロ琴のネックは今にも崩れ落ちそうなほどひび割れを深める。
そして左手――A弦上の悪魔の二重奏!
指が霞となり、幻のように震える。
布テープは音に削られ、ついに破れ、
血が滲み、鋼の弦を真っ赤に染めていく。
擦過音ひとつひとつが、血まみれの鉤爪で掻きむしるよう。
指関節はバキバキと音を立て、常識の限界を越えた運動を繰り返す。
ヴゥゥゥゥン――!!!
唸り、痙攣、吠え、嗚咽。
技巧が、暴力によって暴走する。
旋律が、怒りにねじ曲げられる。
だが――
それこそが、パガニーニ。
地獄の魔王が愛した、狂気の音だ!
欠陥だらけで、常識破りで、けれど圧倒的な破壊力。
その音は、観る者すべての神経を焼いた。
嘲笑は消えた。静寂。
会場中の者が喉を掴まれたように黙り込む。
男の右手は血に染まり、
左手の指が音速で揺れるたび、木片が舞い、血が飛び散った。
高島社長の口は呆然と開き、思わず椅子の背に身を引く。
小野理恵の指先が、机の下で拳に変わり、爪が掌に深く食い込む。
そして、主賓席。
神宮寺千雪。
あの氷のような瞳が――揺れた。
《ピン!》
【高強度の精神共鳴を検出。対象「神宮寺千雪」、情動防御層に微小な変動を確認(振幅0.01%)。好感度ポイント:−1】
【共鳴振幅上昇中。振幅0.1%。好感度ポイント:−3】
【中枢命令ロジックの自己診断モジュールが共鳴波長に反応。異常活性因子を検出。好感度ポイントが急激に変動:−5 → +10】
【警告:心理防壁の自動防御機構が起動。共鳴抑制中……好感度ポイント:−2】
【対象の意志曲線が閾値を突破。魂の共振判定成立。SSS級特殊共鳴イベント発動——『魂の吹雪下にて、溶岩の裂谷』】
【好感度ポイント最終補正:+45(現在の累計:+35)!−10から+35へとジャンプアップ!SSS級潜在エネルギーを消費、階層突破報酬を獲得!】
――ドオォォォォン!!!
提示音が脳内で響き切ると同時に、
徹は最後の力を振り絞って、E弦に弓を打ちつけた!
弓は裂け、血をまとった指が弦を抉るように絞り上げた――
ヴワァァァァァン!!!!!!!!
最期の――魂を引き裂く、終末のトリル。
それは、死にゆく龍が天に向かって吠えた一撃。
――沈黙。
次の瞬間。
パキンッ。
手の中の弓が、折れた。
徹の体から、すべての力が抜け落ちる。
目の前が、真っ暗になった。
――ドサッ!
彼は、血にまみれたボロ琴を抱えたまま、正面に倒れ込んだ。
その響きが、金色の会場にいつまでも尾を引いて残った。
「……救急を呼んで!!」
誰かの悲鳴とともに、宴会場が騒然となる。
そして、主賓席。
神宮寺千雪。
あの冷徹な氷の瞳が――
あの瞬間だけ、ほんの僅かに震えた。
指先が痙攣し、完璧に整えられたネイルが掌に突き刺さる。
白く浮かび上がった月形の痕が、その衝撃を物語っていた。