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第2話

「遅くなってごめん、妹よ。」


病室には、機械のリズムカルな音だけが響いていた。


私は温かいタオルを絞り、妹のやせ細った腕をそっと拭く。

日中は看護師が丁寧に世話をしてくれるが、夜中に体位を変えたり体を拭いたりするのは、結局私の役目だ。


指先が彼女の腰に触れると、赤黒くなった褥瘡が目に痛かった。


「明日はもっと早く来ないと。」


その声は自分にしか聞こえないほど小さかった。


丁寧に体を拭き終え、布団をしっかりと掛けてあげると、私は部屋の隅にあるギシギシと音を立てる簡易ベッドに身を縮めた。

疲れが一気に押し寄せ、すぐに意識が遠のいた。


夜もまだ明けきらぬうちに、私はすでに星野コンツェルンの最上階オフィスに座っていた。


昨夜、病院を出る前に今日の会議の議題や報告資料に目を通し、各部署の責任者に配っておいた。


星野黎子――名目上の会長は、父である星野崇が表舞台を退いて以来、一度も会社に顔を出していない。


私は会長秘書という肩書きだが、実質的には会社の最高意思決定権を持っている。


だが、私はいつも自分が何者かを忘れたことはない――

金で雇われた契約社員にすぎない。


どの部署でも、どの同僚の前でも、私は決して出しゃばらず、控えめな態度を崩さなかった。


朝会の途中、ポケットの中でスマートフォンが激しく震え始めた。


誰からの着信か、見なくても分かる。


ズボンの中で画面がしつこく光り続け、まるで呪いのように呼び寄せてくる。


私は発言中のマーケティング部長に合図して話を止めてもらい、会議室の皆に軽く頭を下げた。「失礼します。緊急の電話なので。」


ドアを閉めたとたん、耳をつんざく怒鳴り声が響いた。


「森川健太!どこほっつき歩いてんのよ!入口で待ってろって言ったでしょ!」


「星野さん、今会社にいます。午前中は大事な会議が……」


「会議?私のことはどうでもいいってわけ?!」

彼女の鋭い声が受話器越しに響き、あとは激しい呼吸音とノイズだけが残った。


私は目を閉じて一言。「分かりました。すぐに向かいます。」


電話を切ると、冷たい嘲笑がふと口元に浮かんだ。


あの男は、彼女を家まで送ることすらしないのか。それとも、私を苦しめることだけが彼女の心の隙間を埋める唯一の方法なのか。


地下駐車場を出ると、朝の光がやけにまぶしかった。


契約が終わるまで、残りのカレンダーはもうわずか。


そろそろ自分のことを考えなくては――。


……


ホテルの回転ドアには、怒りに満ちた星野黎子の姿が映っていた。


彼女は私の前まで駆け寄り、ヒールの靴音が大理石の床に響く。


「バシッ!バシッ!」


二度の平手打ちが頬に叩きつけられ、熱さが一気に広がった。


「クズ!待ってろって言ったのに、どこ行ってたのよ!」


彼女は胸を上下させ、燃え上がるような怒りの目で私を睨みつける。


私は黙って頬に当てていた手を下ろし、赤い痕がはっきりと残っていた。


「運転して。」


彼女は助手席に乱暴に座り、腕を組み、顎をきゅっと引き締めている。


エンジンをかけ、車は都心から郊外にある星野家の邸宅へと向かった。


星野家の邸宅は、門前に置かれた一対の石獅子だけでも、積み上げられた財の冷たさと重みが伝わってくる。


執事が恭しく飾り鉄門を開けてくれる。


車を地下ガレージに停めると、黎子はすでに車を飛び出し、ヒールの音を響かせながら本館へと消えていった。


私も車を降りてリビングに入ると、彼女の泣き声まじりの訴えが耳に入った。


「……お父様!彼、私のことなんて全然気にしてないのよ!酔っ払った私を、ホテルに一人置いていくなんて!もし何かあったらどうするのよ!」


リビングの中央、紫檀のソファには星野崇が座っていた。


彼は少しくたびれた灰色の作務衣姿で、手には紫檀の数珠を持っている。

濁ったまなざしは鋭く、娘の肩越しに私をじっと見据えた。


「もういい、黎子。お父さんは分かっている。」

そう言って娘の手を優しく叩いたが、その声は感情を感じさせなかった。


「お父さん、どうして彼を私につけるの?!」

黎子は彼の腕にしがみつき、甘ったるい声で昨夜の出来事を大げさに訴える。

「彼なんて、何の役にも立たないじゃない!」


星野崇は数珠を捻る手を一瞬止めた。


娘を見つめるその目には、もはや甘やかしの色はなく、圧倒的な威厳が宿っていた。


「お前には分からない。」

その声は静かだが、重く響いた。

「健太がそばにいるのが、一番いい。」


「一番いい?私は……」


「もういい!」

星野崇が低く制した。

私を見つめるその目には、言葉にしがたい重さがあった。


「三年前のことがなければ、私が彼をお前のそばにつけると思うか?」


その一言に、黎子の勢いも一気にしぼんだ。


父親の厳しい様子を見て、これ以上言っても無駄だと分かったのだろう。


彼女はしぶしぶ手を離し、くるりと振り返る。

ポニーテールが傲慢な弧を描き、鋭い視線が私を突き刺す。


「お父さんに気に入られたからって、私があんたを許すと思わないで。」


その口調は冷たく、唇には意地悪な笑みが浮かんでいた。


「蝿(ハエ)!」

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