星野黎子のハイヒールが階段の角に消え、リビングには俺と星野崇だけが残った。
重苦しい沈黙の中、彼の手の中で紫檀の数珠がわずかに擦れる音だけが響いていた。
崇はソファに手を差し出し、穏やかな声で言った。
「健太、座ってくれ。」
俺は黙って従い、ソファに腰掛ける。
崇の濁ったが鋭い視線が、俺の頬に残る赤い痕にしばらく留まり、かすかに溜息をついた。
「はあ……」と彼は大きなソファの背にもたれて言う。
「三年前のあの誤解さえなければ、今こんなことにはならなかったのに。」
俺は無表情で首を振るだけだった。
「誤解があろうとなかろうと、あの契約にはサインしました。星野家のために働く、それが俺の約束です。」
崇の目に複雑な色が浮かぶ。どこか探るような眼差しだった。
「君は妹のためだな。」
数珠を指で弾く動きが少し速くなる。
「黎子は……小さい頃から甘やかされて育った。三年前、あんな大きな騒ぎを起こして、俺も君を誤解してしまった……」
「もう過去のことです。今さら言っても意味はありません。」
俺は淡々と遮る。
「契約はあと一ヶ月。一ヶ月後、俺は自由です。」
崇はしばし黙り込んだ。視線を柚木のテーブルに落とし、やがて口を開いた。
「一ヶ月経ったら、君が何をしたいか、星野家としてできることは力になるつもりだ。それがせめてもの償いだ。」
彼は顔を上げ、重い期待を込めた言葉を続ける。
「だが……」
「何を望むんですか?」と俺は崇を見る。
彼は身を少し乗り出し、父親らしい、どこか懇願するような声で言った。
「この最後の一ヶ月、どうか……あの子に全てを合わせるだけじゃなく、言うべきことは言ってやってほしい。少しは厳しくして、ちゃんと現実を分からせてやってくれ。急に全てを取り上げたら……あの子は耐えられないかもしれない。」
俺は無言で彼と見つめ合う。
崇の黎子への甘さは、どうしても理解できなかった。
「残り三十日、契約通りに全うします。ご心配なく、会長。」
そう言い残し、俺は部屋を出た。
ガレージの中、エンジンの低い唸りが響く。
窓を閉め、タバコに火をつけた。
三年前の光景が煙とともに蘇る。
壮行会の夜、俺は街角で金髪の不良たちが、地面に崩れ落ちた黎子に絡んでいるところに出くわした。
彼女は泥酔して意識がなかった。
見過ごせず、不良たちを追い払い、近くのホテルに連れて行き休ませた。
だが、位置情報を頼りに崇が駆けつけ、俺を犯罪者扱いし、警察に突き出そうとした。
大学時代の指導教員が特待生の証明書と奨学金の書類を持って駆けつけ、ようやく崇の激怒を止め、監視カメラの映像を確認することになった。
真実が明らかになり、俺は星野家の「恩人」となった。
皮肉なことに、そのせいで俺は一時的に拘留された。
妹がその知らせを聞き、急いで警察へ向かう途中、暴走トラックに轢かれてしまった――
崇が全てを知った後、俺の前に契約書を差し出した。
二百万円、三年間。
彼は自分の手に負えない娘を見張れる、十分に優秀で誠実な人間を必要としていた。
俺は妹の命を繋ぐためにその金を必要としていた。
俺の東大の学歴など、この「家政夫兼世話役」の仕事を体裁よく見せるための飾りに過ぎない。
崇は、娘がどうやって東大に入ったか、誰よりもよく分かっている。
灰が静かに落ちる。
この三年間、どうやって耐えてきたか誰も知らない。
かつての友人たちの蔑み――「星野家の飼い犬」「金の奴隷」「星野黎子のペット」。
友人の疎遠、彼らは俺が黎子に頭を下げる姿しか見ず、俺が誇りを捨てたと思い込んでいる。
実家の親戚は、努力してきた学生時代も結局は金持ちに媚びるためだったと罵る。
彼らには分からない。病院のICUから毎日届く請求書に並ぶ数字が、どれだけの家庭を押し潰すか。
東大卒でも、星野家の金がなければ、妹の血が手術台で流れ尽きるのを黙って見ているしかなかった。
星野家のせいで、妹は今もあそこにいる。
だが、星野家のおかげで妹は今も生きている。
星野家の傲慢さも、黎子の辛辣さも、俺は嫌いだ。だが、不思議と憎しみは湧かない。
この三年、星野コンツェルンの巨大な組織を動かし、かつて手の届かなかった人脈や力が、ゆっくりと自分の血肉になった。
三年の屈辱で妹の命を繋げたなら、この取引に悔いはない。
タバコの火が指先を焼く。
ハッとして灰皿に押し付け、火を消した。
すべてが終わる時が来た。