目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話

残り三十日、私は星野コンツェルンの日常業務を維持しながら、静かに引き継ぎ資料の整理を始めた。


崇さんは、黎子さんに徐々にプレッシャーを感じさせ、経営の重みを実感させてほしいと望んでいた。

だが、それは契約で定められた範囲ではない。


私の役目は、すべての業務を分かりやすく整理し、引き継ぎを円滑に進めること。

黎子さんがこの巨大な組織を引き継いだ後、うまく舵を取れるかどうかは、彼女自身の問題だ。


引き継ぎ以外にも、私は密かに今後の身の振り方を考えていた。

星野コンツェルンの海外取引で築いた人脈やルートは、そのまま大きな武器になる。

コアとなる物流網を押さえておけば、資金調達して新たなビジネスを立ち上げるのも難しくない。

星野家だけが唯一の選択肢ではないのだ。

もっと利益率が高く、ビジネスモデルがしっかりした企画書さえあれば、新しい投資家を動かすことは十分に可能だ。


「森川さん、これが先月の承認書類です。最大の取引先ネルソン建材から羽田-新千歳線の新規提案があったのですが、星野専務が却下しました」と、海外営業部の責任者が困惑した表情で書類を差し出してきた。


「却下……?」


意外に思いながら書類に目を通す。

ネルソン建材の要望はもっともだ。羽田-新千歳線の開設で供給サイクルが短縮され、月間輸送量も増える。

この航路の開拓は、もともと星野コンツェルンの次なる戦略。双方にとってメリットしかないはずだ。


なぜ、黎子さんは断ったのか?


「理由は?」

「書類には『採用せず』とだけ書かれていて、詳細はありません」


私はしばらく黙った。

本当は電話で直接理由を聞こうかと思ったが、契約期間ももうすぐ終わる。

いまや、会長は彼女だ。


「書類通りに返答してください」と私は書類を返した。


責任者はためらいがちに、「でも……このままだとジョンソン側が取引を打ち切るかもしれません。他にも羽田-新千歳線のルートを持つ会社は、すぐにでも引き受けたがっています」と言った。


「星野専務の指示に従ってください」

私の声は淡々としていた。


責任者は何か言いたげだったが、結局うなずいて部屋を出ていった。その目には明らかな落胆が浮かんでいた。


これが、本来の星野コンツェルンの「決定」というものだ。


---


オフィスの明かりは夜遅くまで灯っていた。


私は煩雑な引き継ぎ資料に没頭し、散らばった情報を一つ一つ整理していった。誰が後任になってもすぐ理解できるように、丁寧にまとめていく。


胃が痛み始めて、ようやく席を立ち、インスタントラーメンを作った。


麺をすくい上げた瞬間、携帯がけたたましく鳴り響く。


「森川健太!十分以内に来なさい!」

黎子さんの酒の匂いが混じった声が、鋭く耳を突き刺した。


「また飲んでるのか?」

「余計なこと言わないで!あと九分!」

電話は乱暴に切られ、カラオケボックスの位置情報が送られてきた。


湯気の立つラーメンを見つめ、私は二秒ほど黙り込んだ。

そしてそれをゴミ箱に捨て、カバンを持って部屋を出た。


ナビが示すのは、市内中心部の高級カラオケボックス。

また、こういう場所か。


黎子さんの生活は、いつも酒と騒がしさに包まれている。

三年前、彼女を破滅寸前まで追い込んだあの事件も、根は同じだ。

人によっては、どんな痛い目に遭っても教訓にならないのだろう。


十五分後、私は重たいドアを押し開けた。


耳をつんざく音楽と、タバコと酒の入り混じった空気が押し寄せてくる。

まばゆいライトの下には、見覚えのある顔――

なんと、大学時代の同級生たちだった。何人かは同じ学科の友人もいる。


驚く間もなく、部屋の中から歓声が上がった。


「おっ、呼ばれたらすぐ来るんだな、さすが忠実!」

「これはこれは、伝説の秀才・森川健太じゃないか!」

「秀才どころか、当時は学科一のイケメンで女子に大人気だったもんな」

「森川健太、こっち座れよ!」と、当時クラス委員だった伊藤が笑顔で手招きする。彼は昔から世渡り上手で、奨学金を取っていた私には特に丁寧だった。


「座る資格あるの?」

黎子さんがソファに寄りかかり、けだるそうに目を上げて、露骨な軽蔑をにじませた。「そこで立ってて」


私は足を止め、静かに「わかりました、星野専務」と応じた。


同級生たちの視線を背に、私はまるで給仕のように黎子さんの横に立つ。


「邪魔、後ろに下がって」

黎子さんがうんざりしたように手を振る。まるでハエでも追い払うかのように。


「はい」

私は素直にソファの後ろへと下がった。


一瞬、部屋の中に妙な静けさが漂う。

私に向けられる視線には、驚きや興味、そしてあからさまな嘲笑が入り混じっていた。


誰かが口を開きかけて、結局何も言わずにグラスを傾ける。


伊藤が沈黙を破り、グラスを掲げてにやりと笑った。音楽に負けない声で言う。


「昔、よく言われたよな。勉強できる奴は結局、使われる側だって。星野専務のもとで働く森川には、まさにぴったりだよな」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?